第三十三章 幸福の研究者
「REAL WORLD」
遼は、扉に書かれた文字を見つめていた。
現実世界。
その言葉は、奇妙だった。
現実というものに、
わざわざ名前をつける必要があるのだろうか。
夢を見ているとき、人は夢の中を「夢」とは呼ばない。
そこにいる間は、それが現実だからだ。
目が覚めて初めて、
あれは夢だった、
と思う。
ならば。
今、自分が「現実世界」という文字を見ているということは。
ここは、現実ではないのだろうか。
それとも、
現実であることを確認しなければならないほど、
人間は現実を信じられない生き物なのだろうか。
「入らないの?」
汐里が言った。
遼は振り返った。
「入っていいのか?」
「ここまで来たんだから」
「ここまでって言われてもな」
「そうだね」
汐里は少し笑った。
「遼は、何も覚えてないもんね」
その言葉に、遼は眉をひそめた。
「汐里は覚えてるのか?」
汐里の笑顔が消えた。
「……全部じゃない」
「俺たちが研究者だったことは?」
「覚えてる」
「この施設のことは?」
「覚えてる」
「俺と結婚したことは?」
汐里は、遼を見た。
「どの世界の?」
「全部」
少し間があった。
「覚えてる」
遼は、息を吐いた。
それだけの会話なのに、
なぜか疲れた。
記憶とは、過去の映像を保存する箱ではない。
人間は、過去をそのまま持っているわけではない。
思い出すたびに、
少しずつ過去を作り直している。
楽しかったことも、
後から悲しくなることがある。
嫌だったことも、
時間が経てば笑えることがある。
同じ出来事でも、
現在の自分によって意味が変わる。
ならば。
汐里が「覚えている」と言った八つの人生と、
遼が「覚えている」と思っている八つの人生は、
本当に同じものなのだろうか。
二人は同じ世界を生きた。
けれど。
同じ人生を生きたわけではない。
「どうしたの?」
「いや」
遼は扉を見た。
「同じものを見ても、同じ記憶にはならないんだなと思って」
汐里は少し考えた。
「うん」
「じゃあさ」
「うん」
「俺たちは、何を研究してたんだ?」
汐里は答えなかった。
「幸福だって言ったよな」
「うん」
「幸福って、何だったんだ?」
汐里は、扉の横にある認証パネルへ手をかざした。
短い電子音。
ロックが外れる。
「それを調べるために」
汐里は言った。
「ここまでやったんだよ」
◇
扉の向こうには、
大きな部屋があった。
壁一面に、画面が並んでいる。
遼は立ち止まった。
画面の一つに、
自分が映っていた。
若い。
別の画面では、年を取っている。
さらに別の画面では、
遼はスーツを着ていた。
大学の講義室のような場所にいる。
知らない女性と笑っている。
また別の画面。
狭い部屋。
美月とプリンを半分にしている。
「……これ」
「記録」
「全部?」
「全部じゃない」
汐里は画面に近づいた。
「記録できるものだけ」
遼はその言葉を聞いて、
少し笑った。
「それが問題じゃないか」
「何が?」
「幸福を研究するんだろ」
「うん」
「幸福そのものは、記録できない」
汐里は遼を見る。
「その通り」
「心拍数は測れる」
「うん」
「脳の活動も」
「うん」
「表情も」
「うん」
「でも」
遼は画面の中の自分を見た。
「俺があのとき、本当に何を思ってたかは、数字じゃ分からない」
汐里は黙っていた。
「笑っていても、幸せじゃないことがある」
「うん」
「泣いていても、不幸とは限らない」
「うん」
「誰かと一緒にいても、孤独なことがある」
「うん」
「一人でいても、寂しくないことがある」
「うん」
「じゃあ、何を測ったんだ?」
汐里は、ゆっくり答えた。
「だから、最初は間違っていたの」
遼は彼女を見た。
「私たちは、幸福を物質みたいに考えてた」
「物質?」
「うん。条件を揃えれば発生するものだと思ってた」
汐里は、一つの画面を操作した。
数字が並ぶ。
所得。
住居。
健康。
社会的地位。
人間関係。
恋愛満足度。
自己効力感。
孤独感。
不安。
自由時間。
「最初は、これを変えればいいと思った」
「幸福の条件?」
「そう」
「金があれば幸福になる」
「ならなかった」
「健康なら?」
「それだけじゃ足りなかった」
「愛する人がいれば?」
汐里は少し笑った。
「それでも、不幸な日はあった」
遼は黙った。
「自由なら?」
「自由すぎると、不安になることもあった」
「安定なら?」
「安定しすぎると、生きている実感を失う人もいた」
「成功なら?」
「成功しても、自分を好きになれない人がいた」
汐里は、画面を消した。
「だから、条件を増やした」
「そして?」
「もっと分からなくなった」
遼は、思わず笑った。
「研究者としては最悪だな」
「うん」
汐里も笑った。
「最悪だった」
二人の笑い声が、
広い部屋に少しだけ響いた。
◇
遼は、中央に置かれた机を見つけた。
机の上には、一冊のノートがあった。
表紙には、自分の字で、
『幸せ探しゲーム』
と書かれている。
遼は手を止めた。
「ゲーム?」
「研究名」
「俺がつけた?」
「たぶん」
「たぶん?」
「実験前の記憶は、私も少し曖昧なの」
汐里は言った。
「完全に外から観察するだけじゃ、この研究は成立しなかった」
「だから?」
「私たち自身も入った」
遼はノートを開いた。
最初のページ。
文字が書かれている。
『人間は幸福を求めているのではない。幸福になれる人生を選んでいる。』
その下に、
別の筆跡で文章が続いていた。
『ならば、その人生を選んだ本人が、幸福になれなかったときは?』
遼は、その文字を見つめた。
汐里の字だった。
さらに下。
『幸福な人生を選んだのに不幸になるなら、選択は間違いだったのか。』
その隣に、
自分の字。
『違う。幸福は、選択の正しさを証明するための結果ではない。』
遼はノートを閉じた。
胸の奥が、
少し痛んだ。
これは自分が書いた。
確かに、自分の字だった。
けれど。
書いた記憶がない。
自分の考えなのに、
知らない人間の言葉のようだった。
「怖いな」
遼が言った。
「何が?」
「俺が俺より先に答えを知ってる」
汐里は、少しだけ笑った。
「それは、昔からじゃない?」
「昔から?」
「考えてることを、考えたあとで否定する」
「何だそれ」
「研究者としては面倒な人」
「褒めてる?」
「半分」
遼は笑った。
その笑い方にも、
妙な懐かしさがあった。
汐里との間には、
記憶が戻る前から存在していた時間がある。
それを知らないことが、
急に寂しくなった。
「汐里」
「うん」
「俺たちは、現実ではどれくらい一緒にいる?」
美月は答えるまで少し時間がかかった。
「……十二年」
遼は何も言えなかった。
十二年。
八つの人生よりも長い。
けれど。
その十二年を、
自分は覚えていない。
「長いな」
「長いよ」
「なのに、知らない」
「うん」
「俺、何歳?」
「三十四」
遼は笑った。
「それも知らなかった」
「うん」
「結婚してる?」
汐里は、今度はすぐに答えなかった。
「してる」
「いつから?」
「二年前」
遼は目を伏せた。
結婚していた。
その事実が、
なぜか一番現実味がなかった。
八つの世界では、
何度も結婚した。
けれど。
そのどれもが現実ではない。
そして今。
本当の結婚だけを、
自分は覚えていない。
「おかしいな」
「何が?」
「何度も結婚した記憶があるのに」
遼は汐里を見た。
「現実世界で結婚した記憶がない」
汐里は何も言わなかった。
「俺たち、研究者として馬鹿じゃないか?」
「かなり」
「自分の幸せまで忘れてる」
汐里は、そこで初めて笑わなかった。
「だから」
彼女は言った。
「実験を止めようと思った」
遼の顔から笑みが消えた。
「止める?」
「途中で」
「どうして?」
汐里は答えなかった。
「汐里」
「……怖くなったから」
その声は小さかった。
遼は黙った。
「何が怖かった?」
汐里はしばらく画面を見ていた。
そこには、
ある世界の二人が映っている。
若い遼。
若い女性。
知らない顔。
二人は何かを言い合っている。
けれど、映像に音はない。
「私たち」
汐里が言った。
「条件を変えれば、別の人間になれると思ってた」
「うん」
「でも、何度も繰り返しているうちに」
彼女は左耳に触れた。
「自分が何なのか、分からなくなった」
遼は、その仕草を見つめた。
「美咲の私」
「うん」
「凛の私」
「うん」
「玲奈の私」
「うん」
「全部の私は、私だった」
「でも?」
汐里は遼を見た。
「全部の私は、今の私じゃなかった」
遼は言葉を失った。
それは矛盾していた。
けれど。
人間というものは、
もともと矛盾しているのかもしれない。
子どもの頃の自分。
十年前の自分。
昨日の自分。
全部、自分だ。
しかし。
今の自分とは違う。
人は変わる。
変わったからといって、
以前の自分が他人になるわけではない。
けれど、
以前の自分をそのまま自分だと言うことにも、
どこか違和感がある。
「私は、怖くなった」
汐里は続けた。
「もし条件を変え続けたら」
「うん」
「いつか、本当に今の自分を失うんじゃないかって」
遼は思った。
幸福を探すための実験。
けれど。
幸福を見つけるために、
自分自身を変え続ける。
それは、
幸福を探しているのか。
それとも。
幸福になるために、
今の自分を消そうとしているのか。
「じゃあ」
遼はゆっくり言った。
「幸福を探すこと自体が、間違ってたのか?」
汐里は首を横に振った。
「分からない」
「またそれか」
「うん」
「研究者なのに?」
「研究者だから」
遼は少し笑った。
汐里は続けた。
「分からないことを、分かったことにしないのが研究でしょ」
「でも、答えを出さないと終われない」
「そうかな」
遼は眉をひそめた。
汐里は言った。
「終わらない研究もあるよ」
その言葉に、
遼は何も言えなかった。
幸福とは何か。
人間とは何か。
愛とは何か。
そんな問いは、
人間が人間である限り、
終わらないのかもしれない。
答えを出せないことは、
失敗ではない。
答えがないことと、
問いに意味がないことは、
同じではない。
むしろ。
答えがないから、
人間は考え続ける。
そして。
考え続ける人間同士が、
時々、
誰かと一緒に生きる。
◇
汐里がノートを閉じた。
「最後の記録がある」
遼は顔を上げた。
「最後?」
「実験が終わる直前の」
「俺の?」
「私たちの」
画面が一つ点灯した。
そこには、
文字だけが映し出された。
『仮説:幸福は条件の合計ではない。幸福は、同じ条件でも同じ結果にならない。』
その下に、
もう一行。
『したがって、人間は幸福を「発見」するのではなく、幸福を「意味づける」のではないか。』
遼は文字を読んだ。
汐里が静かに言った。
「でもね」
「うん」
「最後の一文だけ、消してあった」
「誰が?」
「あなたが」
「俺が?」
「うん」
汐里は、画面を操作した。
新しい文字が現れる。
『それでも、人は誰かといるとき、理由より先にここにいてほしいと思う。』
遼は息を止めた。
「これ……」
「あなたが残した」
遼は、文字を見つめた。
幸福について研究した。
条件を変えた。
世界を変えた。
自分自身を変えた。
それでも。
最後に残ったのは、
数式ではなかった。
統計でもなかった。
理論でもなかった。
「ここにいてほしい」
ただ、それだけだった。
「汐里」
「うん」
「俺、昔からこんなこと言ってた?」
汐里は笑った。
「言ってた」
「恥ずかしいな」
「そう?」
「研究者のくせに」
「人間だったから」
その答えに、
遼は目を閉じた。
人間だったから。
幸福を研究しても。
幸福について正しい答えを出せなくても。
好きになる。
嫌いになる。
寂しくなる。
一人でいたくなる。
それでも、
誰かにいてほしいと思う。
矛盾している。
合理的ではない。
研究結果としては、
あまりにも曖昧だった。
けれど。
人生として考えれば。
もしかすると、
それ以上に正確な答えはないのかもしれなかった。
そのとき。
部屋の奥で、
小さな電子音が鳴った。
ピッ。
遼は顔を上げた。
時計を見る。
十一時五十九分。
汐里も時計を見た。
「……どうした?」
汐里の顔から、
血の気が引いていた。
「おかしい」
「何が?」
「この時間は」
彼女は、時計を見つめたまま言った。
「もう、来ないはずだった」
もう一度。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
画面が、一斉に白くなった。
遼は立ち上がった。
「汐里」
誰かの声が、
スピーカーから聞こえた。
機械の声ではなかった。
人間の声だった。
「次の条件を設定します」
遼と汐里は、
同時に顔を見合わせた。
「誰だ?」
汐里は答えなかった。
いや。
答えられなかった。
次の瞬間。
画面に文字が表示される。
――SESSION 09 PREPARING.
遼は、その文字を見つめた。
実験は、
終わったはずだった。
そして。
二人は初めて、
同じ恐怖を抱いた。
もし。
ここまでが研究だったとして。
この先の世界まで、
誰かに用意されていたのだとしたら。
自分たちが「現実」と呼んでいる場所さえ、
本当は、
次の世界にすぎないのではないか。
白い光が、
ゆっくりと部屋を満たしていった。
遼は反射的に、
汐里の手を握った。
今度は、
離れないためではなかった。
次に目を覚ましたとき。
それでも、
もう一度。
この人を見つけるために。




