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お前は、その意味を考えたことがないだろう―奇跡論者の現実改変記  作者: Hyman Godley
序:日本編

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7/27

弱者という言い訳

目を開けると、部屋には窓があった。

カーテンの向こうが青かった。

朝だった。

ベッド脇の椅子に、母が座っていた。

赤窓サインの作業着ではなかった。黒い長袖のシャツを着ていた。袖口に、乾いた白い糊が付いている。

母は眠っていなかった。

携帯電話で何かを読んでいた。

かるたが動くと、画面を伏せた。


「起きた?」

「うん」

「吐きそう?」

「別に」

「頭痛い?」

「耳」

「先生には言った。検査は問題ないって。しばらく音が変なら耳鼻科ね」


母は、ベッド脇の紙を取った。

警察の連絡先。

児童相談所の担当者。

学校へ提出する診断書。

父の死亡診断書を受け取れる時間。

すべてに付箋が付いていた。


「警察に何話したか覚えてる?」


かるたは考えた。

知らない男の車へ乗ったこと。

怖い場所へ連れていかれたこと。

腕をつかまれたこと。

途中から、あまり覚えていないこと。

父と喧嘩したこと。

父が階段から落ちたこと。

青い紙について何かを話した気がした。

何を話したのかは思い出せなかった。

「だいたい、なんで聞くの」

「あとで、もう一回聞かれるかもしれないって」

「何でよ」

「話が抜けてるから」

「覚えてないから仕方ないじゃん」

「別に責めてない」

母は言った。

責めていないと言うときの母は、たいてい次に、改善の方法を話した。

その日は話さなかった。


父の葬儀は四日後に行われた。

死亡理由は、階段からの転落による脳挫傷、除脳硬直に伴うものだった。

警察は手すりを外した。

ねじとソケットを持ち帰った。

かるたは、事故が起きたところを見た人間として、二度話を聞かれた。

二度とも、同じことを答えた。

父が階段へ上がった。

足を滑らせた。

手すりが外れた。

落ちた。

その前に喧嘩をしていた。

父から殴られていた。

自分は父へ触れていない。

言葉を同じ順番に並べると、事故の説明になった。

青い用紙については訊かれなかった。

かるたも話さなかった。

話すものだったということを、思い出せなかった。


葬儀まで、母はほとんど家にいなかった。

病院。

警察署。

市役所。

父の会社。

葬儀社。

自分の店。

一度帰宅するたび、違う紙を持ってきた。

死亡届。

火葬許可証。

保険。

住宅ローン。

会社の退職手続。

父の未払い給与。

準確定申告。

相続放棄を検討する期限。

父方の親族へ渡す物と、渡さない物。

母は紙を机へ置き、右上へ日付を書いた。

終わったものには赤い線を一本引いた。

捨てなかった。


「確定申告、四か月以内ね。はい。配偶者控除は死亡日の現況。ひとり親の方は私の所得で判定っと。了解」


税理士と電話していた。


「増えるか減るかじゃなくて、いつ、何を払うのか教えて。資金繰りが先なんで」


電話を切ると、父の死亡診断書を透明な袋へ入れた。

父の死は、母の帳簿へ入った。

売上でも、経費でもなかった。

それでも、期限と金額はあった。

父の給与がなくなった。

住宅ローンは残った。

父が家にいた時間もなくなった。

母が父を、子育ての役に立たないと言っていたことを、かるたは覚えていた。

実際には、役に立たない人間がいなくなっただけでも、誰かが代わりに家へいる必要があった。

母は店の開店を一時間早めた。

閉店を二時間遅くした。

一緒に食事する時間はこれまで以上に取れなくなった。

代わりに、冷蔵庫へ食事を入れた。

容器のふたへ、食べる順番が書いてあった。


〈上 今日〉

〈下 明日〉

〈冷凍 木曜〉


葬儀の前日、母は駅前の薬局へ看板を取り付けた。

雨が降っていた。

高所作業車の上で、母は濡れたシートを両手で押さえた。透明な雨具の下で、背中のシャツが汗に貼りついていた。

店へ戻ると雨具を脱ぎ、タオルで髪を拭きながら、父の遺影を出力した。

写真の父は、口の片側だけを上げていた。

会社で使っていた顔だった。

家では、ほとんど見なかった。

母は明るさを少し上げた。

頬の影を薄くした。

印刷された父は、生前より健康そうだった。


「これでよさそう?」


母が訊いた。

かるたはうなずいた。


「もっと大きい方がええんかしら?」


「分かんない」


「じゃあ、葬儀社の規格で出すか」


母は迷わなかった。

迷う必要がないものは、すぐに終わらせた。

通夜には、父の会社の人間が多く来た。

機械の音だけで不具合を当てた。

夜でも電話に出た。

新人には厳しかった。

現場を放り出さなかった。

父について、仕事の話だけが並んだ。

親戚は、かるたへ言った。


「これからは、お母さんを支えてあげないとね」


かるたは頭を下げた。

母は、その会話を聞いていた。

否定しなかった。

頼むとも言わなかった。

香典の金額を確認し、芳名帳の読めない漢字へ付箋を付けていた。

火葬のあと、父の骨は白かった。

階段から落ちた人間の形は、残っていなかった。

母は係員の説明を最後まで聞いた。

長い箸で、指定された骨を拾った。

一度だけ、手が震えた。

「熱い?」

親戚が訊いた。

「違う」

母は答えた。

それ以上は説明しなかった。


葬儀が終わった翌朝、母は六時に店へ行った。

父の会社から預かった工具箱を、玄関脇へ置いたまま出た。

かるたが開けると、工具は大きさの順に並んでいた。

十一ミリの場所だけが空いていた。

警察が持っていた。

短いプラスドライバーを一本取った。

小学生の頃、父から使い方を教えられたものだった。

ねじは、締まったところから無理に回すな。

壊れる一つ前で止めろ。

父は褒めなかった。

できれば、次のねじを渡した。

殴られた記憶と、取っ手を直した記憶は、同じ手の中にあった。

かるたはドライバーを戻した。

何も持たなかった。

母が最初に話しかけてきたのは、その日の夜だった。


「いま、話せる?」


かるたは自分の部屋にいた。


「無理」


「体調がまだよくない?」


「違う」


「じゃあ、いつなら話せる?」


「分かんない」


「分からないままにするのは、よくないよ」


母は廊下に立っていた。

ドアは閉まっていた。

入ってはこなかった。


「今日が無理なら、明日。明日も無理なら週末。すくなくとも決めるだけ決めよう」


「決めたくない」


「話したくないのは分かる。でも、話さないことで解決することはないでしょ」


かるたは返事をしなかった。

母はドアを開けなかった。


「明日の九時に、もう一回訊く」


淡々とした口調だった。その後足音が離れた。

約束ではなかった。

母が一人で決めた予定だった。

翌日の九時、母は訊いた。

かるたは寝たふりをした。

母はドア越しに言った。


「起きてるのは分かってる」


返事をしなかった。


「今日はやめるけど。明後日は私が遅いから、金曜にする」


母は予定を変更した。

中止にはしなかった。

金曜日、母は午前零時を過ぎて帰った。

かるたはリビングで水を飲んでいた。

母は作業着の袖を肘までまくっていた。

前腕に細い傷が何本もあった。看板用のアルミ板で切ったらしかった。

首元には乾いた汗の筋が残っていた。


「起きてた」

「水」

「ちょうどいい。五分でいいから座って」

「寝る」

「明日、学校休む?」

「行く」

「じゃあ、今」

「何で今になるの」

「今しか同じ場所にいないから」


母は椅子を引いた。

かるたは座らなかった。


「何の話」

「お父さんのこと。あの男のこと。私のこと」

「警察に話した」

「警察にする話と、家でする話は違うでしょ」

「もういい」

「よくないから言ってる」


母は冷蔵庫から麦茶を出した。

自分の分とかるたの分を注いだ。

かるたの前へ置いた。

怒鳴ってはいなかった。

表情も、普段と変わらなかった。


「浮かない顔して、学校でもほとんど喋ってないって連絡が来てる。ご飯も残してる。夜は寝てない。何かあるなら言って」

「父さん死んだんだから、普通じゃん」

「普通かどうかの話じゃないよ。何をすれば少しマシになるかの話」

「何もしなくていい」

「それはできない」


母は即答した。


「親だから」


かるたは麦茶を見た。

氷が二個、表面でくっついていた。


「父さんに言ったの」


母は少し黙った。


「何を」

「俺が、男と会おうとしてたこと」


「言った」

「何で」

「父親だから」

「言うなって思わなかった?」

「言わない方が危ないと思った」

「俺に言わないで?」

「あなたに、父さんへ話すかどうか選ばせる話じゃないでしょ。未成年が年齢を偽って、知らない大人と会おうとしてた。親同士で共有するのは当然の常識です。」


言っていることは正しかった。

正しいために、入り込む隙間がなかった。


「そっとしといてって言った?」

「言ったわよ。問い詰めるなってね」

「問い詰められた」

「そこは、あの人が悪い」

「殴られた」

「それも、あの人が悪い」

「母さんは悪くないんだ」


母は眉を寄せた。


「いやいや。そういう話じゃないでしょ」


否定から入った。


「私が話したことと、あの人が殴ったことは別。私が全部予測できたとは言わない。でも、殴る選択をしたのはあの人」

「じゃあ母さんは何を謝るの」

「伝え方を間違えたこと。あなたに先に言わなかったこと。あの人なら大丈夫だと思ったこと」

「思ってなかったじゃん」

「何が」

「父さんが大丈夫だって」


母の口が止まった。

かるたは続けた。


「殴るの知ってたじゃん」

「毎回じゃない」

「毎回じゃなかったら何」

「よくないって言ってるでしょう」

「止めなかった」

「止めたこともある」

「いないときは」

「仕事してた」

「仕事なら仕方ないんだ」

「仕方ないとは言ってない」


母の声が少し大きくなった。


「私が働かなかったら、家も店も維持できなかった。あなたの学校も、食費も、全部いる。過去へ戻って、仕事を全部断って、家にいればよかったって言うなら、それで何が残ったと思うの」

「知らない」

「知らないで人を責めるのは簡単だけど、そうやって社会は動いてないわよ」

「ほら」

「何が」

「すぐ、俺が悪い話にする」

「してない。どこをどう聞いたらそうなるの」


母は、本当に分からない顔をしていた。


「私は、私が悪かったところを言った。だから、これからどうすればいいのか聞いてる」

「それが嫌なんだって」

「何が」

「それ」

「それじゃ分からない」

「分からなくていい」

「よくない」

「何で母さんが決めるの」

「あなたが何も決めないから」


母は麦茶を一口飲んだ。

グラスを置くとき、底を机へ強く当てた。バン!と音が鳴った。

母も苛立っていた。

隠してはいなかった。


「泣いても変わらないし、黙ってても時間は進むんだよ」


かるたは泣いていなかった。


「どっちみち最後は、やることやらないといけない。あのね、嫌なのは分かるわよ。私だって嫌だよ。でも、葬儀も店も学校も止まらない。あなたの気持ちが追いつくまで、いちいち全部待ってはくれない」

「母さんは強いもんね」

「強くなったの」


母は言った。


「最初から強かったわけでは全くないわ」


かるたからすれば、それが最も嫌だった。

弱かったことがある人間が、自分にも同じ道を歩けと言っている。

歩けた実績を持った人間が、歩けない理由を認めない。


「俺は母さんじゃない」

「知ってるわよ」

「知らないって…」

「じゃあ教えて」

「話したくない」

「またそうやって…それじゃ教えられないでしょ!」


会話は正しい円を描いた。

どこから始めても、同じところへ戻った。


「…前にさ」

かるたは言った。


「男が好きって決まったわけじゃないって言ったよね」

「言ったね」

「ホルモンかもしれないって」

「混乱してる可能性もあるから、急いで決めなくていいって意味」

「俺のためじゃなかったじゃん」

「何で」

「母さんが安心したかっただけじゃん」


母の顔が傷ついた。

傷ついたことは分かった。

それでも、母はそこへ留まらなかった。


「そういう部分が一つもなかったとは言わない。でも、多感な時期だし、なんでもすぐに決めつけない方がいいと思ったのも本当」

「俺が何を言っても、母さんの中で正しい意味に直すよね」

「間違った受け取り方をしてるなら、訂正するでしょ」

「ほら」

「だから、何が『ほら』なの」


母は笑いそうな顔をした。

呆れたのではない。

説明すれば分かるはずなのに、どうして通じないのかと困っている顔だった。


「母さん、俺を産んだ理由も言ってたよね」

「何の話」

「先輩が子供産まなかったの後悔してたから、急いで都合いい男探したって」

「ああ」


母は、思い出したように言った。

笑い話として覚えていた。


「父さんと結婚したのも、税金と、子供の世話させるためだったんでしょ」

「それだけじゃない」

「でも言った」

「言ったけど」

「俺も父さんも、母さんにとって便利かどうかじゃん」

「いやいや、あのねあんた…」


母は首を振った。


「最初の理由が立派じゃないと、その後の気持ちまで全部偽物になるの? 人間、そんなきれいな理由だけで結婚したり子供を産んだりしないよ」

「普通、子供に言わない」

「卑屈になるのやめたら?結果として、可愛いあなたが生まれてよかったって話で言ったんだけど」

「気持ち悪い」


母の顔から、困惑が消えた。

今度は、はっきり傷ついた。


「その言い方はやめなさい」

「気持ち悪いんだよ」

「私が?」

「全部」

「何が全部」

「分かんない」

「でた、また、それか」


母の声が上がった。


「何時間でも考えていいから、ちゃんと言葉にしなさい。気持ち悪い、嫌い、分からないだけ投げて、人に後始末させるな!」

「そんなん頼んでない」

「頼まれなくてもするのが親でしょう!」


母が怒鳴った。

店のガラス戸を閉めるときのような、腹から出る声だった。

かるたの身体が先に動いた。目は、もうすでにしょぼしょぼし始めていた。

椅子が後ろへ倒れた。


「もういい」

「待ちなさい」

「無理」

「逃げるな!」


かるたは玄関へ向かった。

靴を履かず、サンダルへ足を入れた。

母が追ってきた。


「どこ行くの!」

「外」

「今、何時だと思ってるの!」

「知らない」

「午前一時よ。駄目、何考えてるの!」

「どいて」

「この前、知らない男についていって死にかけたばかりでしょう」

「どいてって」

「出すわけないでしょ、ばかなの?」


母は玄関の前へ立った。

父よりは細かったが、身長の高い母は、父よりよっぽど威圧感があった。

そして、どかなかった。


「一人にしてって」

「家の中でも一人になれるでしょ」

「母さんが来るじゃん」

「いやいや、それは話が終わってないからで」

「俺の中では終わってる!」

「終わらせてるだけ、逃げたいだけでしょ」


母は、話を前へ進めようとしていた。

かるたには、退路を塞いでいるようにしか見えなかった。


「どけよ」

「まあまあ、ちょっとは落ち着いてね」

「お、落ち着けって言うな!!」

「じゃあ、大声を出さないで。近所迷惑でしょ」

「母さんがどけよ!」


かるたは母の横を通ろうとした。

母が、かるたの右腕をつかんだ。

父と同じ場所だった。

閉鎖施設の男と同じ場所だった。

指の強さは違った。

身体は区別しなかった。

かるたは腕を振った。

母の手が離れなかった。


「離せ!」

「外には出さない!」


かるたは母を押した。

母の背中が靴箱へ当たった。

上に置かれていた印鑑と鍵が落ちた。

母の顔が変わった。

驚いた。

次に怒った。

それから、かるたの両腕をつかんだ。


「何すんの!」

「そっちが!」

「暴れない!」

「離せって!」


かるたは母の手を振りほどこうとした。

爪が母の手首へ入った。母は痛いとも言わなかった。ただ離さなかった。

かるたの肩を壁へ押しつけた。


「少しは落ち着きなさい!癇癪起こしてる場合じゃないでしょ!」

「離せよ!」

「人を押して出ていけると思うな!」

「死ね!」


今まで一度も言ったことのない言葉が先に出た。

母の動きが止まった。

止まったのは一秒だった。


「いま、何て言った」

「死ねよ!」


かるたはもう一度言った。

父に言えなかった言葉だった。

母のための言葉でもなかった。

言葉だけが出口を見つけた。

母の右手が上がった。

殴るのだと思った。

手は頬へ来なかった。

かるたの肩をつかみ直した。

それでも、かるたはいつものように顔をかばった。

その動きを見て、母の力が一瞬弱くなった。

かるたは身体をひねった。

二人とも床へ倒れた。

母の肘が廊下へ当たった。

かるたの膝が母の腿へ入った。

母が髪をつかんだ。

つかんでから、自分で手を離した。

かるたは母の胸を押した。

母はかるたの上着をつかんだ。布が首へ痛いほど食い込んだ。

靴箱の扉が外れた。

中の靴が廊下へ落ちた。


二人の騒音は、もう家の中へ収まっていなかった。

閉じた窓や扉を越えて、怒声と物の倒れる音が夜の住宅地へ断片的に漏れていた。

近隣の住人が通報したのは、その数分後だった。

玄関の呼び鈴が鳴った。

続いて、扉を叩く音がした。


コンコン。

コンコンコン。


「大丈夫ですか~?」


男の声だった。

母とかるたは止まらなかった。


「離せって、もうやめてって!」

「そっちが離しなさい!」

「母さんが先だろ!」

「外へ出ようとしたからでしょう!」

「だから何だよ!」


母の手が、かるたの手首へ戻った。

赤い跡が重なった。

かるたの頭に、言葉が浮かんだ。

俺は、ここにいない。

閉鎖施設で考えた言葉。

父が落ちる前に、別の形で使った言葉。

言えば、何かが変わるかもしれなかった。

母の手がなくなる。

この家がなくなる。

自分が母の子供ではなくなる。

母が自分を産まなかったことになる。

かるたは口を開いた。

また玄関の呼び鈴が鳴った。続いて、また扉を叩く音がした。


「こちらは警察です。開けてください!」


母の手が離れた。

かるたも母の服を離した。

二人とも、急に呼吸だけをしている人間になった。

呼び鈴がもう一度鳴った。


「警察です。通報がありました。中にいる方、返事をしてください」


母は立ち上がった。

髪が片側だけ崩れていた。

唇の端が切れていた。

作業着の膝に、かるたの靴跡が付いていた。

母は玄関の鍵を開けた。

チェーンは外さなかった。


「家族です」


母が言った。

声は、もう仕事の声だった。


「息子と喧嘩になりました。双方、意識あります。刃物はありません」


警察官が、チェーンを外すように言った。

母は従った。

制服姿の警察官が二人入った。

一人は母を台所へ移した。

もう一人は、かるたを玄関の外へ出した。

廊下には、隣の家の夫婦が立っていた。

妻が携帯電話を持っていた。

夫は、かるたの裸足を見た。

警察官が訊いた。


「怪我は」

「分かんない」

「どこか痛い?」

「腕」

「お母さんにつかまれた?」


かるたはうなずいた。


「お母さんを押した?」


うなずいた。


「殴った?」

「分かんない」


警察官は、分からないと言ったことを責めなかった。


「いま答えられるところだけでいいから」


その言い方を、前にも聞いた気がした。

どこで聞いたのかは思い出せなかった。

台所から、母の声が聞こえた。


「私が腕をつかみました。外へ出そうとしたので止めました。先に押されましたが、つかみ続けたのは私です」


警察官が何かを確認した。

母は言い直さなかったし、母は自分に不利な部分も省かなかった。

それも、かるたには腹立たしかった。


母は事実を整理できる。

悪かったことを認められる。

認めた上で、次の手続きへ進める。

かるたには、それができなかった。


救急車は呼ばれなかった。

児童相談所へ連絡が入った。

今夜、母と同じ家に置くかどうかを確認すると言われた。

警察官は、かるたの右腕を撮影した。

日時を表示させた。

全体。

近接。

二枚ずつ。

台所では、別の警察官が母の手首と唇を撮影していた。

同じ家の中で、同じ時刻にできた傷だった。

写真は別々の番号で保存された。

警察の記録には、次のように書かれた。

母親が被害児童の右上腕部を把持。

被害児童が母親の胸部を両手で押す。

母親が再度、両上腕部を把持。

双方が転倒。

近隣住民が怒号および物音を聞き、通報。

双方に軽微な外傷。

凶器なし。


記録のどこにも、愛情とは書かれなかった。


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