いま答えられること
最初に、録音機を見せられた。
黒い箱だった。
電源を入れると、赤いランプが一つ点いた。
「録音します」
男が言った。
「嫌なら止められます。答えたくない質問には、答えなくていいです。分からないことは、分からないと言ってください」
かるたは、男の右手を見た。
薬指に指輪があった。爪は短い。袖口から白いシャツが一センチほど出ている。
警察官には見えなかった。
医者にも見えなかった。
どちらでもない大人は、たいてい教師か、母の店へ金を払いに来る人間だった。
男は、そのどちらにも見えなかった。
「氏名をお願いします」
「かるた」
「姓も」
かるたは答えた。
「生年月日」
答えた。
「現在の時刻は分かりますか」
壁に時計はなかった。
窓もなかった。
「夜」
「日付は」
「十六日」
「二月十六日。午前二時四十分です」
男は、自分の腕時計を確認した。
「ここは██市立医療センターの面談室です。あなたは警察から保護を引き継がれ、医師の診察を受けています。手錠はされていません。あなたは逮捕されていません」
言われてから、かるたは自分の手首を見た。
右腕には父につかまれた跡が残っていた。
左腕には点滴の管が入っていた。
頬は、じっとしていると熱かった。
耳の奥では、ときどき薄い金属板を曲げるような音がした。
「お父さんは」
「死亡が確認されました」
男は、それだけを言った。
申し訳なさそうな顔をしなかった。
声を低くもしなかった。
かるたが理解するために必要な情報だけを置いた。
「病院で?」
「はい」
「母さんは」
「別室にいます。警察官と話しています」
「俺が突き落としたって言ってる?」
男は一度だけ、録音機を見た。
「その質問へ答える立場にはありません」
「じゃあ何の人」
「事故の前に起きたことを確認する人です」
「警察じゃないの」
「警察の依頼を受けています」
嘘ではない言い方だった。
本当のことを言っているようにも聞こえなかった。
男の隣には女が座っていた。
白衣ではなく、紺色のカーディガンを着ていた。机の下へ置いた鞄から、透明な管が一本伸びている。管は点滴台ではなく、銀色の小さな箱へつながっていた。
女は、かるたの顔ではなく、指先を見ていた。
「気分が悪くなったら言ってください」
女が言った。
「吐き気、頭痛、光がまぶしい、音が遠い。どれでも」
「耳が変」
「殴られた側ですか」
「うん」
女は紙へ印をつけた。
男が質問を続けた。
「二月九日、あなたは駅裏のロータリーで、成人男性の車へ乗りましたか」
「乗った」
「男性の名前は」
「ソラ」
「本名ですか」
「アプリの名前」
「本名は知っていますか」
「知らない」
「年齢は」
「知らない。三十代くらい」
「相手は、あなたが十五歳だと知っていましたか」
かるたは考えた。
車の窓が下がった。
制服を見られた。
ほんとに学生なんだ、と言われた。
「たぶん」
「アプリ上では十八歳と申告していた」
「はい」
「男性と会った目的は」
録音機の赤いランプは、点いたままだった。
女の視線が、かるたの指から外れなかった。
男は質問を言い換えなかった。
助けるための言葉も足さなかった。
「金」
かるたは答えた。
「いくらですか」
「九万五千円」
「性的な行為の対価として提示された」
「はい」
「実際に行為はありましたか」
「ない」
「未遂ですか」
「たぶん」
「あなたが拒否したためですか」
「変なことが起きたから」
「変なこと」
「建物がおかしくなった」
「順番にお願いします」
男は、紙の一番上へペン先を戻した。
かるたは話した。
車。
柑橘の芳香剤。
児童横断の標識。
立入禁止の紙。
赤いランプの監視カメラ。
同じ場所へ戻る廊下。
青い用紙。
古いモニター。
まだ起きていないことを映した画面。
男が腕をつかんだこと。
自分が、ここに来ていないと思ったこと。
県道へ移動していたこと。
九万五千円が財布へ入っていたこと。
一つ話すたび、男は短い質問を挟んだ。
建物の外観。
窓の数。
門の形。
監視カメラの向き。
紙の大きさ。
文字の色。
欄の数。
「用紙には、何と書かれていましたか」
「ターゲット。ピッチ。シンク」
「その順番ですか」
「たぶん」
「ピッチの内容は」
「中立」
「シンクは」
「空白」
「ソースという欄はありましたか」
「分からない」
「見ていない?」
「右が焦げてた。最初は、もう一個あった気がする」
男のペンが止まった。
止まったのは一秒ほどだった。
「用紙へ、あなたが文字を書きましたか」
「書いてない」
「声に出して読みましたか」
「読んでない」
「血液を付着させた」
「してない」
「破いた。燃やした。折った」
「折った」
「何回」
「二回」
「四つ折りにした」
「うん」
「どの欄を内側へ入れましたか」
「シンク」
男は紙へ何かを書いた。
字は逆さで読めなかった。
「用紙はどこに保管しましたか」
「工具箱」
「なぜ工具箱へ」
「誰も使ってなかったから」
「お父さんが見つけた」
「はい」
「昨日、午後八時頃から起きたことを話してください」
男の声は変わらなかった。
同じ質問の続きをしているだけだった。
かるたは食卓を思い出した。
並べられた紙幣。
父の作業着。
短い鉛筆。
電話の声。
手首。
耳の内側で折れた音。
髪をつかまれたとき、頭皮だけが身体から遅れて動いた感覚。
「喧嘩した」
「何について」
「金」
「それだけですか」
「スマホ」
「それだけですか」
かるたは男を見た。
男は待っていた。
父のように、待ちきれなくなって質問を重ねなかった。
母のように、答えの候補を先に並べなかった。
待っていること自体が、仕事の一部に見えた。
「男と会ったこと」
「お父さんは、どこから知りましたか」
「母さん」
「お母さんから聞いたと、お父さんが言いましたか」
「言ってない。でも、あいつが自分で分かるわけない」
「推測ですね」
「そう」
男は、推測と書いた。
「お父さんから暴力を受けましたか」
「はい」
「最初に、どこをつかまれましたか」
「手首」
「その後」
「耳を殴られた」
「一回?」
「二回。二回目は腕」
「髪をつかまれたと?」
「はい」
「あなたは反撃しましたか」
「腕を振っただけ」
「殴りましたか」
「殴ってない」
「蹴ったりは?」
「蹴ってない」
「押したり?」
「押してない」
「階段で、お父さんの身体へ触れましたか」
「触ってない」
「手すりへ触れましたか」
「触ってない」
「工具を動かしましたか」
「動かしてない」
「青い用紙を手に取りましたか」
「床に落ちてた」
「手には取っていないと?」
「はい」
「あなたは、何と言いましたか?」
かるたは口を閉じた。
喉の奥へ、言葉の形だけが戻ってきた。
男は待った。
女は銀色の箱を見た。
箱の正面に並ぶ三つの数字は、すべて一〇〇に近かった。
「もう、家族じゃなくていい」
かるたは言った。
「その言葉を発した後、何が起きましたか」
「紙が変わった」
「どのように?」
「ターゲットが家族になった。ピッチがフラットになった」
「シンクは?」
「空白だったとおもう」
「その後は?」
「家が揺れて、引き出しが開いた。ソケットが転がって、父さんが踏んだ。…んで手すりが外れた」
「ソケットが転がる前に、あなたはお父さんが転落することを予測していましたか」
「してない」
「転落してほしいと思っていましたか」
かるたは答えなかった。
「答えたくなければ、答えなくていいです」
「いなくなればいいと思った」
「死亡してほしい、という意味ですか」
「分からない」
「家族ではなくなってほしい?」
「分からない」
「家から出ていってほしい?」
「分からない」
男は三つとも書かなかった。
分からない、とだけ書いた。
「お父さんの転落後、すぐに救急へ通報しましたか」
「した」
「助けようとしましたか」
「電話した」
「身体には触れた?」
「触ってない。動かしたらだめかもって思った」
「死亡していると思いましたか」
「息はしてた」
「死亡してほしいと思いましたか」
「分からんって!」
声が大きくなった。
男はペンを置いた。
「分かりました」
それ以上、訊かなかった。
かるたは、自分の呼吸だけが大きいことに気づいた。
男は机の下から、未開封の水を一本出した。
ふたを開けずに置いた。
かるたが自分で開けた。
水を飲んでいる間、誰も喋らなかった。
「最後に確認します」
男が言った。
「青い用紙を使用して、意図的にお父さんを死亡させましたか」
「してない」
「青い用紙の働きを理解していましたか」
「してない」
「同じことを、もう一度できますか」
「そんなん知らんし、わからんて」
「現在、何かを変えたいと思っていますか」
かるたは水のラベルを見た。
山から湧いた水らしかった。
採水地の名前は、聞いたことがなかった。
「帰りたい」
「どこへ」
男が訊いた。
かるたは答えられなかった。
男は、録音機の停止ボタンを押した。
赤いランプが消えた。
「事情聴取を終了します」
女が立った。
点滴の管を確認し、小さな注射器を接続した。
「少し眠くなる薬を入れます」
「何の」
「検査を続けるためです」
「母さんに会える?」
「起きたあとで」
男が録音機を鞄へ入れた。
「さっきの話、母さんに言う?」
「必要な部分は、警察と医師へ共有します」
「男と会ったことも」
「すでに把握されています」
「父さんにも言った」
男は一度、女を見た。
女は注射器を押した。
腕の中へ冷たいものが入った。
「それは、私たちが答えられる質問ではありません」
天井の白い板の継ぎ目が、少しずつ太くなった。
「俺、逮捕される?」
「されません」
男は即答した。
「あなたは現時点で、未成年の被害者として扱われています」
「父さんは」
「事故死として捜査されています」
「俺のせいじゃない?」
男は返事をしなかった。
返事をしないことが、返事になった。
眠る直前、かるたは録音機の赤いランプを思い出した。
閉鎖施設の監視カメラと同じ色だった。
けれど、あの部屋で何を訊かれたのかは、目を閉じるより先に、その順番から消え始めた。
▼事案I-20██-0215-04 民間人対応記録▼
対象: ████ かるた、15歳
対応担当: エージェント・████
対応日時: 20██年2月16日
対応場所: ██市立医療センター
▼概要:
対象は父親の転落事故に伴い、現地警察によって保護された。対象の身体には、転落以前に受けたものと判断される複数の打撲痕が確認された。
対象は、事案発生六日前に出会い系サービスを介して成人男性と接触し、未特定の施設へ移送されたと証言した。当該施設内部において、非ユークリッド性空間、予測映像および青色の複写用紙を目撃したと主張している。
当該証言は、20██年2月9日に██市北西部で観測された暫定事案I-20██-0209-██を指しているものと推定される。
同事案では、広域アスペクト放射観測網が局所的な現実性変動および複数回の異常放射を検出した。観測継続時間が短く、複数の観測器に同期誤差が発生していたため、発生地点の特定には至らなかった。推定範囲内に存在する廃業施設、山間道路および民間建築物からも、該当する異常性は発見されていない。
同事案は、発生源不明の単発的異常現象として暫定処理された。ただし、未特定の人員または物品が周辺地域に残存している可能性を考慮し、██市北部の観測器について測定頻度を引き上げるとともに、移動式アスペクト放射計二基が追加配置された。
本措置により、20██年2月15日に発生した事案I-20██-0215-04が検出された。
対象の証言によれば、青色用紙には〈ターゲット〉〈ピッチ〉〈シンク〉の項目が存在し、対象は、同用紙が2月9日の転移事象および2月15日の父親転落事故に関与した可能性を示唆しているが、その使用方法、起動条件および入手経路について一貫した説明を行えなかった。
青色用紙は、警察および救急隊の現着以前に消失したものと推定される。現場写真、救急隊員の装着映像、警察の押収品記録ならびに対象の所持品から、該当物は確認されなかった。
なお、父親が学校職員との通話中に「何の紙や」「これで何をした」と発言する音声が記録されている。このため、青色用紙が対象の虚偽証言、錯誤または第三者による記憶処理後の補完によってのみ生じた可能性は低い。
▼暫定所見:
対象に恒常的な現実性上昇は確認されていない。また、対象単独による異常現象の再現にも成功していない。
一方、同一人物および同一形状の未回収物品が、六日間に発生した二件の異常事案へ関与している可能性は無視できない。両事案を相互に独立した未登録事案として処理することは適切でないと判断された。
以上を受け、暫定事案I-20██-0209-██および事案I-20██-0215-04を、暫定異常案件KRTとして統合する。
████ かるた氏については、現時点では異常存在としては指定されない。関連監視対象者POI-KRT-01として登録し、本人、接触者および周辺地域における異常放射、現実性変動、非通常的な移動記録ならびに青色用紙に関連する報告を継続監視する。
▼措置:
対象に対し、財団職員との接触、青色用紙の異常性および2月9日に発生した転移現象に関する限定的class-A記憶処理を実施した。
成人男性との接触、危険な施設へ連れ込まれた事実、暴行未遂、警察および医療職員による事情聴取ならびに父親の転落事故に関する全般的記憶処理は、その精神的侵襲を鑑み棄却された。
対象を保護者へ引き渡す。退院後、学校、医療機関、警察記録および通信記録を介した非接触監視へ移行する。
暫定異常案件KRTに関する新規事象が発生した場合、単発事案として処理せず、サイト-81██異常事案調査班へ直接報告すること。




