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お前は、その意味を考えたことがないだろう―奇跡論者の現実改変記  作者: Hyman Godley
序:日本編

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変化は唐突、フルスイング

父が工具箱を開けたのは、翌日の夜だった。

洗面所の棚板が傾き、十一ミリのソケットを探したのだという。

かるたが学校から帰ると、食卓に九万五千円が並べられていた。

紙幣の端には、古い機械油の黒い筋が付いている。

その横に、スマートフォンと青い複写用紙。

父は作業着のまま座っていた。胸ポケットには短い鉛筆。腰のベルトには検電器。帰宅した父は、職場で使う笑顔を玄関へ置いてきていた。


「座れ」


「十一ミリ、入ってなかったでしょ」


「金の話をしてる」


かるたは鞄を下ろさなかった。

今日に限って、いつもの忘れ物癖が出なかったことを後悔した。このまま学校へ鞄を置いてきていれば、取りに戻ると言って家を出られたかもしれない。

父は怒っているというより、正しい側へ立っていた。

正当な理由を手にした父は、怒鳴っているときより近寄りがたかった。


「どこからだ」


かるたは少し考えた。

どう答えれば傷つかずに済むか。どう答えれば髪を引っ張られずに済むか。

母がいない夜には、その順番を普段より慎重に考える必要があった。


「働いた」


「勤務先は」


「日雇いの手伝い的な」


「何の仕事だ」


「いろいろ」


「どこで」


「駅前」


「誰に雇われた」


「知らない人」


「名前は」


「知らない」


「住所は」


「知らない」


「何時間働いた」


「覚えてない」


「時給は」


「現金でもらった」


「九万五千円をか」


かるたは答えなかった。

金にも時間にもルーズな父が、労働時間や賃金について訊いていた。

それらしい言葉が並ぶほど、腹の奥が熱くなった。

スマートフォンには、暗証番号を何度か間違えたため、三十分後まで操作できないと表示されていた。


「番号」


「俺の電話だけど」


「契約は俺の名義だ」


「使ってるのは俺」


「開けろ」


「嫌だ」

父の視線が、かるたの顔から制服へ下りた。


「相手は男か」


かるたは顔を上げた。


「何で」


「車に乗ったか」


「何でそうなるの」


「答えろ」


「乗ってない」


嘘は、考える前に出た。

父はしばらくかるたを見た。


「写真は撮られたか」


「撮られてない」


「触られたのか」


言葉だけは、正しい問いだった。

父が自力でそこまで考えたとは思えなかった。

母が話したのだ。

かるたが女の子ではなく男を見ることを。どこまで、どういう言葉で伝えたのかは分からない。相談したのかもしれないし、ただ勝手に共有しただけかもしれなかった。

父とほとんど会話をしないかるたにとって、どちらであっても同じだった。

自分の知らないところで、自分についての説明だけが済んでいた。


「母さんから何聞いたの」


父の眉が動いた。


「今はお前の話だ」


それで十分だった。


「勝手に言ったんだ」


「何やらかした」


父は同じ質問を繰り返した。

かるたは答えなかった。

自分の身体へ戻って説明するには、柑橘の芳香剤、男の手、赤いランプ、扉の向こうの気配を、一つずつ剥がさなければならなかった。

何より、それを父に説明することが耐え難かった。

父は沈黙を待つのが下手だった。


「言えないなら、警察へ行く」


「何で。いつもは大ごとにもしないじゃん」


「留学も取りやめだ」


「は?」


弱い声しか出なかった。

父は固定電話の子機を取った。


「学校へ応募の保留を伝える」


「ねえ、もう」


声が震えた。

泣く前の声になったことが腹立たしかった。


「金の出所が確認できない。保留するのが普通だ」


「確認できたら行かせる?」


「答え方次第だ」


父はかるたを見たまま、左手で番号を押した。

吉岡へつながると、声が半音上がった。


「あ、いつもお世話になっております。留学応募の件で、家庭内に確認できていないことがありまして」


父はかるたを見た。


「保証金の出所に問題がありまして。はい。本人の安全に関わる可能性があります」


電話の向こうが話している間、父は黙っていた。

短く相槌を打ち、相手が話し終わるのを待った。

家ではかるたの文を最後まで待てない人間が、電話では相手の息継ぎを一度も奪わなかった。

かるたは食卓の金へ手を伸ばした。

父は受話器を卓上へ置き、左手でかるたの手首をつかんだ。

閉鎖施設の男に掴まれたのと、同じ場所だった。

指が皮膚へ食い込んだ。


「離して」


「触るな」


「俺の金だって」


「違う」


かるたは腕を振った。

せめて自分がベアなら、こんな手ぐらい振りほどけたのにと思った。

受話器が卓上から落ちた。床の上で、吉岡の声が小さく父を呼んでいた。


「何やってる!」


この瞬間だけを切り取れば、父親が問題を起こした息子を止めているように見える。

そのことが、何より腹立たしかった。

怒りはいつものように甲高く鳴らなかった。音程を失い、低いところへ沈んでいった。


「お、お前に関係ないだろ」


小田をからかったときの吃音が、自分の口から出た。

それだけで逃げ出したくなった。

普段はやり返さない息子が大声を出した。

父はそれを、免罪符として受け取った。

返事より先に右手が動いた。

頬ではなく、耳へ当たった。

音が身体の内側で折れた。

かるたは食卓の角へ腰をぶつけ、床へ倒れた。札が何枚か落ちた。


「誰に向かって口きいてる!」


父の手が髪をつかんだ。

頭皮だけが引き延ばされ、身体が左から右へ振られた。


「座れ!」


返事より先に顔が濡れていた。

赤い血ではない。

認めたくなかった。

怒っているのに、涙は鼻の横から大粒で落ちた。呼吸も声も止まらなかった。


「座れや!」


二度目は腕で受けた。


「もうええ。警察へ行くからな」


父は急に声を落とした。

怒鳴ることを終えたのではなく、次の作業へ移っただけだった。

床の受話器を拾い、現金を封筒へ入れた。

青い用紙も重ねようとして、手を止めた。


「そや。これ、何やねん」


かるたは答えなかった。


「おい」


返事を考える時間はなかった。


「聞こえてへんのか」


父は先ほど殴った耳の側から顔を近づけた。


「つんぼか、お前は」


人の耳を殴った直後に、それを言える人間が、なぜ家庭を持っているのか。

かるたはいつも以上に、その答えを知りたくなった。


「知らんて」


「お前が入れたんやろ」


父は用紙を机へ広げた。


〈ターゲット:転移〉

〈ピッチ:中立〉

〈シンク:〉


父は紙を裏返した。

発行者も、版番号も、会社名もなかった。


「うちらが使ってる伝票でもないな。何の紙や」


かるたは黙った。


これほど助けを求めるべき状況なのに、最も助けを求めたくない相手が目の前にいた。


「これは何の紙や」


「知らない」


「何で持ってる」


「入ってたから」


「どこに」


「鞄」


「売春でもらったんか?」


「やめて」


父の指が、〈ターゲット〉の文字をなぞった。


「これで何をした」


「これで、たぶん帰ってきた」


父が紙から顔を上げた。

初めて、質問が手順ではなく、かるた自身へ向けられた。


「は?どこから」


かるたは答えようとした。

だが、父が待てた時間はそこまでだった。


「ああ、もうええ。お前じゃ埒が明かん」


父は青い用紙を食卓へ放り、封筒とスマートフォンを持った。

階段へ向かう。

台所と階段の間には、狭い廊下があった。階段の一段目は台所の床より少し高く、その脇へ工具箱が開いたまま置かれている。

手すりは朝から緩んでいた。

父が赤いテープを巻き、その上へ〈夜、締める〉と鉛筆で書いていた。


「保険証を取ってくる。お前も来い」


「行かない」


「来い」


「俺の話、何も聞いてないじゃん」


父は一段目へ足を置いた。


「売女の真似事するボケから何を聞け言うねん」


父は二段目へ上がった。

母も父も、同じだった。

困ったときは言えと言う。

言えば、どうしてもっと早く言わなかったと責める。

言わなければ、何も言わないお前が悪いと言う。

入口だけは開けておく。

中へ入れば、勝手に意味を決め、勝手に処理し、最後には自分で選んだことにされる。

助けを求める相手が、二人ともこの家にいた。

そのことが急に耐えられなくなった。

かるたの中で、青い用紙の欄が開いた。

何を変える。

家族。

どちらへ動かす。

なくす方へ。

残りをどこへ流す。

分からなかった。

分からなくてもよかった。


「もう、家族じゃなくていい」


父が振り返った。

照明が白く膨らんだ。

冷蔵庫の圧縮機と換気扇が、同時に始動した。父の胸ポケットで、検電器が赤く点滅した。

床に落ちた青い用紙へ、薄い文字が浮かんだ。


〈ターゲット:家族〉

〈ピッチ:フラット〉

〈シンク:〉


最後の欄だけが空白だった。

家が一度だけ、縦に揺れた。

台所の引き出しが勝手に開いた。

中の部品箱が滑り出し、床へ落ちた。蓋が外れ、ワッシャー、ねじ、短い金具が廊下へ散った。

十一ミリのソケットが、工具箱の下から転がり出た。

ずっとなかったはずのものだった。

ソケットは廊下を横切り、一段目の角へ当たった。跳ね返り、父の踵の下へ入った。


父の足が滑った。


右手が手すりをつかんだ。

赤いテープの下で、木ねじが一本抜けた。

続いて、もう一本。

手すりが壁から離れた。

父の肩が壁へ当たった。上半身が廊下側へ傾き、足だけが階段に残った。

身体が途中で折れた。

後頭部が三段目の角へ当たった。


鈍い音がした。


父は声を出さなかった。

一度だけ身体が跳ね、そのまま階段の下まで落ちてきた。

封筒から札が舞った。

電話は床の上で、まだ学校との通話を続けていた。

吉岡の声が、父の名前を何度も呼んでいた。


照明は消えていた。


それでも、部屋はしばらく明るいままだった。

光源のない白い光が、部屋全体を均等に照らしていた。影がなくなり、家具も壁も、紙で切り抜いて貼りつけたような輪郭を見せていた。

かるたの耳には、すべてがよく聞こえていた。

痛みは興奮の中へ沈んでいた。殴られた頬だけが、熱く、硬かった。

ゆっくりと暗くなる部屋の中で、デジタル時計は、蓄電した数字を表示していた。

20:14:03。


▼未登録異常事案・初動観測記録▼


暫定事案番号: I-20██-0215-04

発生日時: 20██年2月15日 20時14分03秒

発生地点: ██県██市██町

記録作成: サイト-81██ 観測管理室

状態: 調査継続中

注意: 本文書は対象、発生源および異常性の特定以前に作成された初動資料です。後続の収容記録および分類資料と、用語、数値、推定内容が一致しない場合があります。

概要

20時14分03秒、██市北部に設置された広域アスペクト放射観測器三基が、住宅区域内を中心とする局所的な異常放射を検出しました。

観測点間の時間差から推定される発生範囲は、半径約30m以内です。発生地点には一般住宅一棟が含まれています。

観測された第一波は、暫定的に以下の性質を持つものと評価されています。

推定Hue: Sapphire

推定Pitch: Flat

推定Weave:不明

推定Intensity: 測定不能

判定信頼度: 低

第一波の約0.8秒後、異なる特性を持つ第二波が記録されました。

推定Hue: Lemon

推定Pitch: Sharp

推定Weave: 不明

推定Intensity: 測定不能

判定信頼度: 低

第二波については、第一波に伴う奇跡論的反動である可能性が指摘されています。

ただし、現場から既知の術式、儀礼構造、Everhart共鳴器、術者用装備、または明確なEVE Sourceは発見されていません。

このため、両波の関係は確定していません。


▼現実性変動▼

同時刻、発生地点周辺のヒューム値に短時間の変動が確認されました。

標準基準値100に対し、複数の観測器が97.8から102.4の範囲を記録しています。

変動は約4秒以内に収束しました。

恒常的な低ヒューム区域の形成、空間欠損、時間遅延、または広域的な因果改変は確認されていません。

観測器の一部に同期誤差が生じていた可能性があり、数値は再検証中です。


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