やせ我慢の強がりと臆病者
約束は二月九日、午後五時だった。その日、かるたは駅裏のロータリーへ十分早く着いた。遅れれば、帰られるからだった。
午後四時五十七分、黒いワゴン車がロータリーを半周して、かるたの前へ止まった。窓が下がり、運転席の男が片手を上げた。
「ユウくん?」
かるたはうなずいた。車内には、柑橘類に似せた芳香剤の匂いがこもっていた。甘いというより、別の匂いを隠すためにつくられた匂いだった。助手席の足元には、空のペットボトルと、口の開いたコンビニ袋が転がっている。
かるたの基準では、男の見た目は悪くなかった。肩幅があり、首が太い。昔は何かの部活に本気で打ち込んでいて、いまはその名残だけを身体に残しているような体つきだった。少なくとも、ずっと気まずいだけの時間にはならないかもしれない。そう思った。
男は、かるたの鞄より先に制服を見た。
「ほんとに学生なんだ」
「えへへ。そーだよ」
「アプリには十八って出てたけど」
「まあ、そこは。細かいことはいいじゃんね」
「メッセージ、消した?」
「うん。ちゃんと消した」
男は、すぐには笑わなかった。かるたの顔を一度見てから、口の片側だけを持ち上げた。
「素直だね」
かるたも笑った。そう言われたときは、笑えばよいと知っていた。怒れば子どもに見える。黙れば、必要以上に怖がっていると思われる。笑えば、少なくとも自分も冗談の側に立てた。
そもそも、この状況にさほど抵抗を感じていない自分を、かるたはおかしいと思っていなかった。むしろ、自分が平気でいることを理解できない人間の方が、よく分からなかった。それほど大したことではない。そういうことにしていた。
車は駅前の明るい通りを抜け、川沿いへ入った。かるたは帰りの経路を覚えるつもりだった。
一つ目の信号。青い薬局。橋。右折。
次に見えたのは、ガードレールへ片方だけ掛かった軍手だった。濡れてもいないのに、指先だけが下へ垂れている。川面へ斜めに刺さる夕日。明日までの英語作文。母の三万円。小田の黄色いヒトデ。
関係のないものが、現状を見ないための順番で頭の中を走った。気づいたときには、二つ目の角を覚えていなかった。
「え。ホテルって、こっちだっけ」
「知ってる場所あるから。そっちの方が、人に会わなくて済むでしょ」
男は、親切を説明する声で言った。かるたには、それほど不自然に聞こえなかった。男同士で会うこと自体に、見つかれば困る理由がある。少なくとも男は、そういう事情に慣れている。
気遣いに似たものだった。
「学校の子とかに見られたくないよね?」
かるたは返事をしなかった。男の言うことは正しかった。正しいことを言う人間が、安全だとは限らない。
道端に黄色い標識が立っていた。
児童横断。
この辺りに学校らしい建物はない。標識の中では、妙に洋風な画風で書かれた二人の子どもが手をつないで道路を渡っていた。車が通り過ぎる。かるたは振り返った。
裏側には、子どもが一人だけ描かれていた。手だけを横へ伸ばしている。
「あれ。ああいうの、裏表で絵違うんだ」
「何が?」
「標識」
「あるんちゃう?」
男はミラーを見なかった。山肌へ近づくにつれ、道幅が狭くなった。落石注意の標識が見えた。サイドミラーへ入ったときには、一方通行へ変わっていた。
道路に〈徐行〉と書かれていた。車の下を通り過ぎたあと、バックミラーには〈止まれ〉と映っていた。
男は一度も速度を落とさなかった。
やがて、錆びた門の向こうに平たい建物が見えた。研修施設か、小さな病院のようだった。窓の半分は板で塞がれ、駐車場の白線から雑草が伸びている。
誰も近寄らなさそうな場所だった。それが、かるたにはかえって安心に思えた。
誰も見ていない。誰にも知られない。
その二つは、このときのかるたにとって、安全とほとんど同じ意味だった。
門柱には紙が貼られていた。
立入禁止。
男は速度を落とさず、その横を通った。
「入っちゃ駄目なんじゃないの」
「怖い?」
「ん。別に」
かるたは怖いときほど、短く答えた。長く喋れば、どこかで声が震える。
玄関のガラス扉は一部が割れていた。男は隙間から腕を入れ、内側の錠を外した。扉の上では、監視カメラだけが赤いランプを点していた。
「携帯」
男が手を出した。
「車に置くんじゃなかった?」
「ここで預かる」
「んじゃ、金は?」
「終わってから」
かるたは立ったまま動かなかった。こういう客は、いやらしい。社会的には自分の方が圧倒的に不利だと分かっているくせに、相手へ一つずつ従わせなければ気が済まない。支配欲を抑えられない病気でもあるのかと思った。
同時に、九万五千円を払う相手なら、多少面倒な注文にも応じるべきなのではないかとも考えた。
客。注文。カスタマーサービス。
別の言葉へ置き換えれば、自分が選んでここにいるように思えた。
男の手が、差し出す形から変わった。受け取るのを待たない手になった。かるたのポケットからスマートフォンを抜き取り、電源を切った。
「帰りたいなら、いま帰ってもいいよ」
門は車で通ってきた。道順は覚えていない。財布には六千円しかない。
「払わないけど」
男は、選択肢の説明を終えるように付け足した。
かるたは建物へ入った。
廊下には、古いカーペットが濡れたあと、そのまま乾いた匂いが残っていた。非常口の緑色の表示に従って二度曲がると、玄関へ戻った。
男が舌打ちした。
今度は反対へ曲がった。階段を上がったはずなのに、同じ階の、同じ消火器の前へ出た。消火器には、白いテープで〈3F西〉と書かれていた。玄関脇で見たときは、〈1F東〉だった気がした。
「ねえ。迷ってない?」
「んー……前は、こんなんじゃなかったんだけどな」
「よくここに人連れてくる度胸あるよね」
男は答えなかった。手近な扉を開けた。
元は事務室だったらしい。金属製の机。キャスターが一つ欠けた椅子。壁際に置かれた古いモニター。机の中央には、見慣れない形式の青い複写用紙が一枚置かれていた。窓から入る夕日を受け、紙そのものが発光しているように見えた。
手に取ってみてみると、用紙は三つの欄に分かれていた。
〈ターゲット:〉
〈ピッチ:中立〉
〈シンク:〉
四つ目の欄があったようにも見えた。紙の右端は帯状に焦げ、見出しがあったらしい部分だけが失われている。
男が机へスマートフォンを立てた。黒い画面のレンズが、かるたを向いた。
「はあ。写真なしって言ったけどね」
「撮らないって。連絡来たら困るから、見えるとこ置くだけ」
電源は切れていた。
壁際の古いモニターが、ひとりでに明るくなった。
いまいる部屋が映っていた。
天井近くから見下ろした映像だった。机の脇に男が立っている。その前に、かるたがいる。
映像の中で、男がかるたの腕をつかんだ。
現実の男は、まだ触れていなかった。
モニターの像が乱れた。
次の映像では、かるたが床に倒れていた。顔は見えない。片方の上履きだけが脱げていた。
次の映像では、男が両手を見下ろしていた。指の間が黒く濡れていた。
その次では、男が椅子に座っていた。首から上だけが、映像のどこにもなかった。
空の部屋。
燃えている部屋。
机を挟んで二人が座り、何事もなく金を数えている部屋。
玄関の外で、かるただけが泣いている映像。
駐車場で、男だけが誰かへ電話している映像。
最後に、かるただけが映った。
いまより少し背が高かった。髪も少し長い。画面の中から、こちらを見ていた。
唇が動いた。
音はなかった。
一度目は、何を言ったのか分からなかった。
二度目に、同じ動きをした。
――にげろ。
そう言ったように見えた。
「何だよ、これ」
男がモニターの電源コードを抜いた。
光は消えなかった。
廊下のどこかで、扉が閉まった。
一枚ではなかった。遠くから近くへ、順番に閉まってくる。
ばたん。
ばたん。
ばたん。
男がかるたの腕をつかんだ。モニターの中で見たのと、同じ場所だった。指が皮膚へ食い込む。
「おい。帰るぞ」
「ねえ、金は?」
「うるさい」
「約束したって」
「お前、何かした?」
「は? してない。ていうか、趣味悪すぎなんだけど」
「じゃあ、何なんだよ、これ!」
男はかるたを廊下へ引き出した。来た方向へ走り、突き当たりの扉へ手をかけた。
ノブを握ったまま、男が止まった。
扉の向こうから、音はしなかった。足音もない。呼吸もない。
それでも、扉一枚ぶんの距離を隔てた向こう側に、何かが立っている。顔を扉へ近づけ、こちらの音を聞いている。
そう分かった。
理由はなかった。
分かってしまった。
男の手が震え始めた。ノブを回そうとするたび、膝から力が抜けるらしかった。かるたの腕をつかむ指だけが強くなった。
「ちょっと。別の出口をさ――」
「黙れ」
「痛いって」
「お前のせいだろ!」
男が振り返った。
その顔を見た瞬間、かるたは、これから何が起きるのかを考えなかった。
何が起きなければよかったのかを考えた。
男がここへ来なければよかった。
自分がアプリを入れなければよかった。
母が三万円を渡さなければよかった。
掲示板の紙を取らなければよかった。
そのどれでもなかった。
もっと短い言葉が、ほかの考えを押し退けた。
俺は、ここに来ていない。
願ったのではなかった。
最初からそう決まっていたことを、遅れて思い出した。
そんな感覚だった。
視界が一度、横へずれた。廊下も、男も、扉も、同じ場所にありながら、焦点だけが外れた。次の瞬間、轟音が全身を包んだ。熱を出した夜の夢に似た幾何学模様へ、身体だけが落ちていく。生温かい風が、皮膚の内側を吹き抜けた。
次に目を開けたとき、かるたは道路脇に立っていた。
雨が降っていた。
建物は見えない。ワゴン車もない。あるのは片側一車線の県道と、雨に濡れた杉林だけだった。少し先のカーブミラーには、オレンジの縁の中を曲がっていく道路が映っている。
かるたの姿はなかった。
目に入った汗を、制服の袖で拭った。雨粒がまつ毛に残っていた。もう一度ミラーを見る。
今度は映っていた。
腕には、薄赤い指の跡が残っていた。スマートフォンはポケットに入っている。電源も入った。
〈ユウ〉宛てのメッセージは、すべて消えていた。アプリには〈ソラ〉のプロフィールもない。待ち合わせの履歴もなかった。
地図は、駅から数キロ離れた県道を示していた。
どうやってここへ来たのか。それを示す記録はどこにもない。
確かめるより先に、かるたは人のいる場所を目指して走った。
頬を伝っているのが汗なのか、涙なのか、ただの雨なのか分からなかった。
しばらく走るうちに、妙な図太さが戻ってきた。
財布を開いた。
九万五千円が入っていた。
新札ではない。端の折れた一万円札が九枚。五千円札が一枚。紙幣から、車内と同じ柑橘の匂いがした。
かるたは足を止めた。
鞄の内側に、青い複写用紙が貼りついていた。
〈ターゲット:転移〉
〈ピッチ:中立〉
〈シンク:〉
最後の欄だけが空いていた。
紙の内部には、細い線が何度も枝分かれする模様が埋め込まれていた。角度を変えるたび、線は増えたり減ったりした。
フラクタル。ホログラム。
何か、そういう印刷なのだろう。さっき紙が光って見えたのも、この模様が夕日を反射していたからだ。
そう考えると、少しだけ納得できた。
かるたは再び歩き始めた。雨水が制服の裾へ染み込み、布が太腿へ張りついた。
しばらくして、古いバス停を見つけた。
薄気味は悪かった。それでも、濡れた服が肌へまとわりつく感触の方が耐え難かった。屋根の下へ入り、かるたは靴を脱いだ。
靴底も、甲も、泥だらけだった。
けれど、靴下は乾いていた。
乾いているだけではない。
暖房の前へ置いていたように、足首まで温かかった。
おかしい。
そう考えるより先に、緊張がとけたからか、それとも恐怖がマヒしたからか、笑いが出た。
財布はある。鞄もある。大きな怪我もない。男との約束は消えている。金はある。
なら、助かった。
理由が分からなくても、助かったなら問題はない。
かるたは青い複写用紙を四つに折った。
一度目で〈ターゲット:転移〉が隠れた。
二度目で〈ピッチ:中立〉が隠れた。
最後に、空白の〈シンク:〉を内側へ折り込んだ。
見えなければ、まだ何も書かれていないのと同じだった。




