ませがき、逃げるための名前
▼警告▼
本資料には、未成年者保護記録、未確定Type Green分類情報、事案KRT以前に作成された未修正版収容提言が含まれます。
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> ・・・
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>奇跡論型ミーム殺害エージェントによるスキャンを開始します。
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> ・・・
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>生存を確認、 Level 4/RETURN-1クリアランス署名が確認されました。
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> ようこそ、帰路網共同運用担当者様。情報を開示します。
十五歳のかるたは、知らない大人と会う約束にだけ遅刻しなかった。
学校へは毎朝、始業のチャイムと競争するように駆け込んだ。提出日は忘れた。友人との待ち合わせは、最初から一時間ほど幅のあるものとして扱った。母に頼まれた買い物は、店へ着くまでに半分になった。
けれど、帰られて困る相手には遅れなかった。
その区別を、かるた自身は几帳面さだと思っていなかった。
帰られる前に着く。
ただ、それだけだった。
交換留学の案内を見つけたのは、二月最初の月曜日だった。
二階廊下の掲示板。暖房の風が正面から当たり、紙の右下だけを持ち上げていた。
ぱたん。
少し待って、また、ぱたん。
同じ角が壁から離れ、戻る。
三度目で、かるたは足を止めた。
**募集人数 一名。**
その一行だけが、ほかより太い赤で印刷されていた。
一名。
二名ではない。予備もない。誰かが行けば、誰かは行けない。
行き先はニュージーランドのWakatipu High School。期間は一年間。応募締切は三月一日午後四時。保証金十二万円。選考には保護者の署名と、英語による面接が必要だった。
案内の上半分には、湖と山の写真が載っていた。
水面は金属の板のように青く、山頂だけに雪が残っている。制服姿の生徒が三人、写真の外を指さして笑っていた。
何を見ているのかは分からなかった。
分からない場所であることが、よかった。
「チャイム」
横で小田が言った。
小田は透明な書類入れを胸へ抱えていた。右上には黄色い星のシールが貼られている。五本ある腕のうち一本だけが短く、星というより、子どもが途中で諦めたヒトデに見えた。
「それ、応募すんの」
かるたが訊くと、小田は一度、喉の奥で息を止めた。
返事を考えたのではない。
返事を出す前に、その形を確認しているような間だった。
「する。去年から、準備してたし」
「去年から、こんなのあったっけ」
「先生からは、あるって聞いてた」
小田は案内の写真ではなく、その下に並んだ履修例を見ていた。
Marine Science。湖沼生態系。野外調査。帰国後の単位認定。
「マリーンサイエンスって。そこ、海ないじゃん」
「生態系は湖にもあるし。ていうか、もっと大きく捉えないと」
小田の言葉は速くなかった。
けれど、何をどの順番で置くかは、話し始める前から決まっているようだった。
かるたは掲示板のポケットから案内を一枚抜いた。
「え。お前も応募すんの?」
「紙、余ってたから」
「でも、一名だけだぞ」
「読めるし。知ってるよ」
小田は返事をしなかった。
返事をしないことで、返事になった。
二人は教室へ向かって走ったが間に合わなかった。
担任は黒板の横へ、二人の名前を書いた。
小田の横には〈進路室〉。
かるたの横には〈掲示板〉。
遅刻した理由まで、別々に書かれた。
小田は遅刻届へ正確な時刻を記入し、かるたは時計の秒針を見ているうちに、日付の欄へ時刻を書いた。
「逆」
小田が小声で言った。
「分かってたから」
「じゃあ、直しなよ」
赤ペンで訂正すると、紙の上だけ、自分が二月八時二十二分に遅刻したことになった。
一時間目の数学で、教師が途中式を指名した。
かるたは答えだけ合っていた。
どこを通ってそこへ来たのかは、説明できなかった。
小田は答えを間違えたが、三行目で符号を落としたことを、自分で見つけた。
同じ教室にいても、二人は違うやり方で答えへたどり着いた。
そして、違うやり方で間違えた。
休み時間になると、後ろの席の男子が、暇を潰すためだけに小田の透明な書類入れを指でつついた。
「っと。もう荷造りしてんの?」
小田の肩がわずかに上がった。
かるたの胸の内側にも、細いものが一瞬引っかかった。
小田は書類入れへ手を伸ばした。
「返して」と言うまでに、喉が二度鳴った。
かるたはその前に書類入れを取り返し、小田の机へ置いた。
置いた勢いのまま、口を開いた。
「こいつさ、湖でマリーンサイエンスやりたいんだって」
小田は、馬鹿にされたことより、説明を間違えられたことを嫌がる口調で返した。
「それは将来的にって意味で。別に、今すぐ湖だけを研究したいとか、そういう――」
「さすが。ガリ勉だねえ」
かるたが言うと、周囲が笑った。
小田も、口の端だけを動かした。
笑ったことにしてもらうための、最低限の動きだった。
かるたは、自分がどちらの側にも立たないようにしたことへ、遅れて気づいた。
小田を助けた。
同時に、笑われる理由も差し出した。
加害する側へ完全には入らず、守る側にも立ち切らない。
どちらからも責められない場所だけを選んだ。
最近は、こんな些細なやり取りでも、あとからひどく消耗した。
授業が始まってからも、小田の書類入れに貼られた黄色い星が見えた。
一本だけ短い腕が、机の縁からはみ出していた。
▼▼▼
> **後日回収資料 KRT-A01**
>
> 当該交換留学案内の現物は回収されていません。
>
> 学校側が保管していた印刷用データには、募集人数が「二名」と記載されています。
>
> 当時の応募者、教員および保護者計十一名は、掲示された案内に「一名」と記載されていたと証言しています。
>
> 印刷業者は、募集人数の変更依頼を受けた記録は存在しないと回答しました。
>
> 本差異は旧版報告書において「印刷時の誤植」として処理されました。
>
> 誤植がどちらの数字に発生したかは、記録されていません。
▼▼▼
昼休み、小田は図書室で、前年の語学試験の問題集を開いた。
ページの端には、同じ大きさに切り揃えられた付箋が並んでいた。黄色は単語。青は文法。赤は間違えた問題。緑は、先生へ訊くもの。
かるたは向かいへ座り、最初の三問を解いた。四問目から、窓の外を見た。
校庭の隅に、昨日の雪が残っていた。誰にも踏まれなかった白い部分だけが、フェンスの影に細く残っている。
「君ってさ、絶対、留学そのものには興味ないよね」
小田が訊いた。
鉛筆の先は問題集へ向けたままだった。
「ニュージーランド、めちゃくちゃ遠いし。本気?」
「近いと、知ってる人いるじゃん」
「向こうにも人はいるよ」
「でも、俺のこと知らない人だから」
小田は鉛筆を止めた。
「知らない人の方が、こっちのことどう思ってるか分かんなくて、怖くない?」
「でも、英語なら細かいニュアンスとか分かんないし。無敵っしょ」
「いや。それ、留学する理由としては弱いって」
そこまで親しいわけでもない相手に、芯の近くを指で押されたような気がした。
血管が一度に細くなる。
寒いわけでもないのに、指先だけが冷たくなった。
「てかさ。一名分しかないのに、俺の分なんて見てていいの」
「手伝ってないから」
「でも――」
「間違いを見てると、気になるだけ」
小田は、かるたの四問目の選択肢へ小さな丸をつけた。
強く押さない丸だった。
紙の表面だけに残り、裏までは届かない。
小田の親切は、たぶん、心の底から来ていた。それが分かるから、かるたには眩しすぎた。
自分の動機の濁ったところまで、その明るさで焼いてくれないかと思った。
何も変わらなかった。
かるたは問題文を読み直した。
さっきまで分からなかった英文が、今度は分かった。
分かった途端に、別のページをめくりたくなった。
進路指導の吉岡は、放課後、かるたが留学案内を持っているのを見ると、まず笑わなかった。
「理由は」
「い、行きたいから」
「なぜ」
「遠いから」
「旅行ではないんだよ」
「でも一年なら、旅行より長いじゃん」
吉岡は笑わなかった。怒りもしなかった。
案内を机へ置き、その裏面に必要なものを三つ書いた。
〈保証金 十二万円〉
〈保護者署名〉
〈英語面接〉
「この三つを、三月一日までに揃えなさい。学校の推薦は、その後です」
「え。推薦してくれるんですか」
「いまは、その話はしていない」
父に似た言い方だった。
必要な情報だけを渡し、こちらが勝手に足した意味には責任を持たない言い方。
かるたは案内を二つに折った。
吉岡がすぐに取り上げ、開いた。
「折るな。署名欄がある」
「折っても名前は読めるって」
「そういう問題ではない」
紙を平らへ戻されると、急にやることが増えたように見えた。
十二万円。署名。英語。
三つなら、まだ数えられた。
かるたは帰宅する前に、母の店へ寄った。
駅から商店街を抜け、薬局と古い喫茶店の間を曲がった先に、〈赤窓サイン&プリント〉はあった。
看板を作る店なのに、店自身の看板は一文字だけ色が違った。
「赤窓」の「窓」だけが、ほかより青い。
交換するために刷り直したところへ急ぎの仕事が入り、そのままになったのだと、母は前に言っていた。
店内では、幅一メートルほどの切り抜き機が、白いシートから文字を作っていた。刃が左右へ走るたび、薄いフィルムが爪を立てるような音を出す。
母は電話を肩と耳で挟み、片手で見積書へ数字を書き、空いた手でかるたの案内を受け取った。
「はい、駅前は明朝七時。雨なら脚立は使わない。高所車へ変更。追加分は私につけて」
電話を切る。
母は案内を上から下まで、指で追った。
文章を読むとき、唇が声にならない程度に動いた。
数字へ来ると、指だけが先へ進んだ。
「十二万ねえ」
「払える?」
「払える、じゃないわよ」
母は作業台の上を空けた。
家計簿。店の入金予定。留学案内。
その横へ、蛍光ペンを四本並べた。
「緑。絶対に払う。黄色、今月ずらせる。赤、触ったら店が止まる。青、あんた」
家賃。
機械のリース料。
外注費。
インク。
税金。
父から受け取る生活費。
母が家へ入れる金。
文字を追うのは遅い母が、数字を色と位置で管理していた。
請求書には付箋が毛のように立っている。長い契約書は税理士へ読ませる。納期と入金を間違えたことはなかった。
「青を十二万増やすと、どれが赤へ入る?」
「いや、意味分からんて」
「考えて」
「払えるなら払ってよ。それでいいじゃん」
「私は、払うだけの役をやらない」
母は十二万円を払えないのではなかった。
払うだけの役を、拒んだ。
「学校へ確認する。受入家庭を見る。何かあったときの帰国費を、保証金とは別に残す。お父さんとも話す」
「最後の、いらんじゃん」
「要る」
「なんで。別に、あいつと話す必要ないじゃんか」
「あんた一人で先に決めることでもないでしょ」
「母さんも決めてるじゃん」
「私の金をどう使うかは決める」
胸の奥が急に熱くなった。
どこでもいい。
ここではない場所へ行きたい。
その考えが、言葉になる前に喉の近くまで来た。
母は青い銀行封筒を取り出し、三万円を入れた。
「いま出すのは、これ。条件は三つ」
封筒へ、太い字で書いた。
〈学校へ私から確認する〉
〈残りの出所を隠さない〉
〈お父さんを抜いて決めない〉
「二つ目と三つ目、同じじゃない?」
「違う。勝手なことして、また前みたいに大目玉くらいたいの?」
母はその場で学校へ電話した。
交換留学の担当者へつながるまで、三人へ同じ説明をした。
一人目には保証金の返還条件。
二人目には受入家庭の身元確認。
三人目には、現地で家から出された場合の連絡先を訊いた。
「出される前提で訊いてます。問題がないなら、答えられますよね」
電話の向こうが長く説明した。
母の言い方に、不快感を持ったようだった。
母は気にしなかった。
案内の余白へ、
〈返金は出発四十五日前まで〉
〈犯罪歴確認〉
〈二十四時間窓口〉
と書いた。
漢字を一つ間違えた。赤で消さず、横へ正しい字を足した。
電話を切ると、保護者署名欄を見た。
「あんたさ。ほんとに、こんなの興味あるの?」
かるたは答えなかった。
「金を無駄にしてまで行かせるつもりはないんだけど。どっち」
「関係ないでしょ」
母の顔が変わった。変化は小さかった。
目の下の筋肉が動き、声だけが一段上がった。
「親に向かって、何だその口のきき方。ちゃんと答えなさい!」
かるたは肩をすくめた。殴られるような気がした。
いま、母は手を上げていなかった。
それでも身体は先に小さくなった。
気まずくなり、切り抜き機の方を見た。刃は同じ線を往復しているように見えた。
けれど、通るたび、少しずつ違う部分が剥がれ、別の文字が現れていた。
「行きたい」
母は待った。
「帰りたくない日も、あるから」
「どこへ」
「家」
母のペン先が止まった。父の名前は出さなかった。
母も、すぐには「何があった」と訊かなかった。
沈黙を置いたあと、母は顔を背け、机の端にあった定規を揃えた。
「そういう、陰湿な言い方やめてくれる。こっちの気分が悪い」
今日の母は仕事で苛立っている。そういうことにした。
いつもの気遣いだった。母のためではない。
自分がこれ以上考えなくて済むようにするための気遣いだった。
母は署名欄へ名前を書いた。
日付欄だけを空けた。
「これで終わりじゃないからね。やることはちゃんとやる。残りは、自分でも何とかする」
かるたは封筒を受け取った。青い封筒。三万円が入っていた。
店を出ると、夕方の空気が頬へ当たった。
商店街の屋根の下はまだ明るかった。店の外へ一歩出ただけなのに、切り抜き機の音が急に遠くなった。
かるたはスマートフォンを開いた。
〈留学 高校生 資金〉
検索結果には、奨学金、教育ローン、作文コンテスト、親子で考える留学費用が並んだ。
どれも間に合わなかった。
〈短期 高額 未成年〉
言葉を変えると、仕事ではないものが出た。
自分が何を探しているかは、検索欄へ入力した時点で分かっていた。
分かっていて、検索した。
アプリを入れた。
母の言った「自分でも何とかする」とは、たぶん違う意味だった。
違うと理解した上で、都合よく同じ言葉として扱った。
生年月日を入力する欄で、年を三つ早めた。
画面の中で、かるたは十八歳になった。
プロフィール名を訊かれた。
本名は、父と母と学校が使う名前だった。その名前で金を受け取れば、逃げる先まで家の内側になる気がした。
〈ユウ〉
二文字なら、書き間違えない。
呼ばれても、自分のことだと気づくまでに、少し時間がある。
写真を一枚載せた。顔の全体は映っていない。
目元と、制服の襟と、駅の白い壁。
十分後、〈ソラ〉から反応が来た。
プロフィール写真は、黒い車のハンドルだけだった。
〈学生?〉
かるたは、嘘を増やす前に、本当のことを一つ置いた。
〈高校生やってる〉
返信は一分で来た。
〈リアルできる?〉
それから、待ち合わせ場所と条件が届いた。
制服。
学生証。
携帯電話は車へ置く。
写真なし。
九万五千円。
途中で帰れば、支払いなし。
かるたは条件を上から順に読んだ。一度閉じた。
また開いた。
九万五千円。
母からの三万円。
合わせて十二万五千円。
保証金は十二万円。
五千円余る。
危険な条件より先に、余る金額を見た。
五千円あれば、空港までの電車代の一部になるかもしれない。
向こうで食べるものを買えるかもしれない。
父にも母にも言わない金が、五千円だけ残る。
画面の中で、五千円は安全に見えた。
かるたは、余る方を見た。




