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お前は、その意味を考えたことがないだろう―奇跡論者の現実改変記  作者: Hyman Godley
財団ニュージーランド支部で高校生バイト編

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24/27

いま決められること

講義が終わったのは、録音機の赤いランプが点いてから四十分ほど後だった。


奇跡論。

タイプ・グリーン。

現実改変能力者。


言葉だけは増えたが、自分がどうなるのかについては、最初にジェームズ(James)が言ったこと以上には分からなかった。


家には帰れない。

刑務所には入らない。

勉強する。


ひどく雑だった。


けれど、スーツ姿の男の説明を全部つなぎ合わせても、結局その三つに戻ってきた。

男は最後に、自分が何か重要な講義をやり遂げたような顔で録音機を止めた。


「では、専門的な説明については、ひとまず以上です」


ひとまず。

まだ続く言い方だった。

かるたは椅子の背へ身体を預けた。

背中が硬い。

河原で黒い手に押さえつけられた部分は、少し動かすだけで痛んだ。両手首にも赤黒い跡が残っている。

ジェームズは隣で大きく伸びをした。かるたは、その動作を無意識のうちに眼で追っている。


「長かったな」

“That was a lot.”


「お前が途中で話を短くしたから、また最初から説明し直したんだろ」

“You made him start over.”


「俺のせい?」

“And for some reason that’s on me?”


「半分くらい」

“Maybe half of it.”


「じゃあ、もう半分はあいつがわるいな」

“Then the other half’s just him.”


スーツ姿の男は、聞こえていないふりをして資料を鞄へ入れていた。


ドアが二度叩かれた。


入ってきた女性は、河原にいた上級生ではなかった。

四十歳くらいに見えた。濃い茶色の髪を後ろで短くまとめ、紺色のシャツの上へ、反射材のついた作業用ベストを着ている。

片手には二台の携帯電話。

もう一方には、コンビニのものらしい紙袋を持っていた。


「例の講義の方は、終わった?」

“Are we done with that lecture?”


「オリエンテーションです」

“It was an orientation.”


「四十分なら講義よ」

“Forty minutes makes it a lecture.”


女性は紙袋を机へ置いた。

中には、ラップで包まれたサンドイッチと、開封されていないジュース、バナナが入っていた。


「夕食。選択肢はこれか、自動販売機のチョコレート」

“Dinner. Your options were this or vending-machine chocolate.”


「食欲ない」

“I’m not hungry.”


「あとで食べてもいい。ここへ置いておく」

“You can eat it later. I’ll leave it here.”


食べろとは言わなかった。

女性は、スーツ姿の男が座っていた椅子を引いた。

男はすぐに立ち上がり、場所を譲った。


「エージェント・マッケンジー(Agent Mackenzie)。南島管区の地域連絡担当です」

“Agent Mackenzie. Regional liaison, South Island district.”


「エージェントって、警察みたいな?」

“Agent like police?”


「職名としては似てる。仕事は、あまり似てない」

“Similar title. Not much else.”


マッケンジーは片方の携帯電話を机へ置いた。

もう一台は、短い間隔で何度も震えている。

画面に表示される通知を一度だけ確認し、伏せた。


「先に、今夜のことを説明します。犬はホスト家庭へ戻しています。怪我はありません。テリー夫妻には、河川敷で薬剤へ曝露した可能性があるため、専門機関で経過観察を受けていると伝えています」

“The dog has been returned to your host family. He isn’t injured. The Terrys have been told that you may have been exposed to a chemical near the river and have been transferred for specialist observation.”


「薬剤?」

“Chemical?”


「河原の草木が広範囲に枯れましたからね。一般向けには、除草剤の流出事故として処理しています」

“There was extensive vegetation damage. Publicly, it’s being treated as a herbicide spill.”


「テリーさんは、ここを知らない?」

“The Terrys don’t know about this place?”


「知らないですね。財団のことも、ジェームズたちのことも知りません」

“They don’t know about the Foundation, or about James and the others.”


「電話できる?」

“Can I call them?”


「できます。話してよい内容は先に確認します。嘘をつけとは言わないけど、現実を変えたとは話さないでね」

“You can. We’ll go over what can be discussed first. I’m not asking you to lie, but can’t tell them you altered reality.”


「それ、ほぼ嘘じゃん」

“That’s basically lying.”


「そう思うなら、体調の確認だけでもいい」

“Then keep it to your health.”


マッケンジーは、説得しようとはしなかった。説明は堅苦しく、かるたは敬語とは違うフォーマルさを感じる。

もう一台の携帯電話が鳴った。

今度は通知ではなく通話だった。

彼女は立ち上がり、部屋の隅へ移動した。


「マッケンジーです。……通路が開いてる? 分かりました。手順〈Rāhui〉へ移行してください。エバーハート共鳴器の使用を許可します。クライド・ダム(Clyde Dam)へ直接接続を」

“Mackenzie speaking. …The passage is open? Understood. Move to Procedure Rāhui. You’re authorised to use the Everhart Resonator. Connect it directly to Clyde Dam.”


ジェームズが口を開いた。


「タイミングわりぃな。せっかくカイオに〈Karakia〉を練習させる予定だったのに」

“Bloody hell. We were gonna let Caio practise Karakia.”


マッケンジーは、静かにするよう人差し指を立てた。

少し間を置く。


「了解しました。今夜は準備だけ進めて、こちらの到着を待ってください。」

“Understood. Make the preparations tonight and wait for us to arrive.”


通話を切り、椅子へ戻った。

かるたは、机へ伏せられた携帯電話を見た。


「今の何」

“What was that?”


「クロムウェル(Cromwell)の古い異常性。少し面倒なものが出たの」

“An old anomaly in Cromwell. Something slightly troublesome has come up.”


「あんたは行かなくていいの?」

“You’re not going?”


「今すぐ人が死ぬようなものではないわ。今夜は向こうで準備を進めてもらって、数日中に対応します」

“It isn’t an immediate threat to life. They’ll make the preparations tonight, and we’ll deal with it within the next few days.”


マッケンジーは、それを特別なことではないように言った。

ジェームズが紙袋からバナナを取り出そうとして、彼女に手を叩かれた。


「それはかるたの」

“That’s his.”


「食わないって言ったじゃん」

“He said he wasn’t hungry.”


「だからといって、あなたのではない」

“Doesn’t make it yours.”


ジェームズは手を引いた。かるたには、二人の会話が少しくだけて映る。

マッケンジーは机の上へ、地域地図を表示した端末を置いた。

クイーンズタウン(Queenstown)だけではなかった。


ワナカ(Wānaka)。

クロムウェル(Cromwell)。

アレクサンドラ(Alexandra)。


さらに南にも複数の印がある。

地図の横には人名が並んでいた。


緑色のものは三つ。

黄色が二つ。

赤色が一つ。

灰色の欄には、ジェームズと、河原にいた女子、カイオ(Caio)の名前があった。


「この辺の財団って、何人いるの」

“How many Foundation people are there around here?”


「正規の現場職員ですか?」

“Full field staff?”


「分からん。全部」

“I don’t know. Everyone.”


マッケンジーは地図を指で広げた。


「オタゴとサウスランドを常時担当している成人の現場職員は、現在六名。今夜この連絡室にいるのは、私と医療担当一名。二名はワナカ、二名はインバーカーギル(Invercargill)」

“Six adult field staff currently cover Otago and Southland. Tonight, this office has me and one medic. Two are in Wānaka, and two are in Invercargill.”


「それだけ?」

“That’s it?”


「研究、記録、通信担当は別にいる。でも、現場へ出て、異常な物を持ち上げたり、逃げるものを追いかけたりできる人間は、それだけ」

“There are separate research, records, and communications staff. But that’s the number who can physically go out, pick something anomalous up, or chase it when it runs.”


スーツ姿の男が、小さく手を上げた。


「私は研究担当です」

“I’m research.”


「見れば分かる」

“I can tell.”


ジェームズが言った。

男は気にしていないようだった。


「じゃあ、何で高校生が来たの」

“So why did high-school kids show up?”


「一番近かったから」

“Because they were closest.”


「それでいいの?」

“And that’s allowed?”


マッケンジーは、少しだけ考えた。


「よくはないですね」

“It isn’t good.”


「でも、やってる」

“But you do it.”


「そうね。やってる」

“Yeah. We do.”


ドアが開いた。

河原にいた上級生の女子が入ってきた。

明るい茶色の髪を後ろで束ねている。学校でつけていた輪のピアスは外したままだった。

腕には灰色の布袋を抱えている。


「マイア(Maia)」


マッケンジーが呼んだ。


「座って」

“Take a seat”


マイアは、かるたの向かいではなく、ジェームズの隣へ座った。

ジェームズが身を寄せ、小声で耳打ちした。


「クロムウェル、開いた。数日中に〈Karakia〉やるかも」

“Cromwell opened. They might run Karakia in the next few days.”


マイアは眉を寄せた。


「今日のあとで、カイオに?」

“Caio? After today?”


「たぶん延期」

“Probably postponed.”


マイアは布袋を膝へ置き、短く息を吐いた。

何の話かは分からなかった。


クロムウェル。

通路。

〈Rāhui〉。

〈Karakia〉。


知らない言葉が、三人の間では説明の必要もない予定として処理されていた。


「NZ-AUX-02、マイア。地域協力者。奇跡論実践者」


マッケンジーが紹介した。


「ジェームズはAUX-01。カイオがAUX-03」


マイアは続けて言った。


マイアは布袋を机へ置いた。

中で硬いものが触れ合った。

河原で見た小さな玉だった。

黒いものが二つ。

白く濁り、亀裂の入ったものが六つ。


「カイオの術式は、最初からあなたを拘束するために用意していたものじゃない」

“Caio’s working wasn’t originally prepared to restrain you.”


マイアが言った。


「髪と人形は追跡用。あなたがどこにいるか、改変が起きたあとも同じ人物を追えるようにするもの。河原で数値が急に上がって、追跡の術式へ固定を継ぎ足した」

“The hair and figure were for tracking. They let us follow the same person even if records change. When you were at the river, the readings spiked, so he added a binding onto the tracking working.”


「あいつが?」

“On his own?”


「そう」

“Yes.”


「別にあんな風に止めなくてもよかったんじゃないの」

“He didn’t have to stop me like that.”


「何をしようとしていたか分からなかった」

“We didn’t know what you were doing.”


「俺も分かってなかった」

“Neither did I.”


「だから止めた」

“That’s why we stopped you.”


マイアは、申し訳なさそうな顔をしなかった。


「早かったとは思う。あんな出力で始める必要もなかった。でも、何もしないで見ていて、あなたが消えたら、私たちは二度と見つけられなかったかもしれない」

“He acted too quickly. He didn’t need to start at that output. But if we’d done nothing and you disappeared, we might never have found you again.”


かるたは、さきほどのスーツ姿の男が言っていたことを思い出した。

タイプ・グリーンは、不可解な方法で姿をくらます。

自分も消えたかもしれない。

本当に消えたかったのかは、分からなかった。

日本へ帰る人間でなくなりたかった。

その結果が、どこにもいない人間になることだったとしても、河原にいたときの自分が止められたかは分からない。

ドアが再び開いた。

カイオが入ってきた。

左手には白い包帯が巻かれている。

鼻の下に血は残っていなかった。制服ではない濃い色のパーカーを着ているせいで、学校で見るより幼く見えた。


「医療室にいろって言ったでしょ」

“I told you to stay in medical.”


マッケンジーが言った。


「感覚戻った」“Feeling’s back.”


カイオは右手の指を動かして見せた。


「許可したとは言ってない」

“I didn’t say you were cleared.”


「説明するだけ」

“I’m just explaining.”


「マイアが説明した」

“Maia already did.”


カイオは、かるたを見た。


「追跡だけだと抜けると思った」

“I thought you’d slip the tracking.”


「だから、あんなニョキニョキと生やしたの?」

“So you grew hands out of the ground?”


「生やしてない。あれは固定の表現」

“I didn’t grow them. That was the binding’s expression.”


「同じだろ」

“It’s the same thing.”


「違う」

“It isn’t.”


「カイオ」


ジェームズが止めた。


「今じゃない」“Not the time.”


カイオは口を閉じた。

少ししてから、英語で言った。


「出力は上げすぎた」“I pushed it too hard.”


謝罪なのか、技術上の訂正なのか分からなかった。


「次は?」

“What about next time?”


「先に声をかける」“I’ll speak first.”


「次もやる気じゃん」

“So you’re planning to do it again.”


「必要なら」

“If it’s necessary.”


マイアがカイオの後頭部を軽く叩いた。


「黙って医療室へ戻って」

“Go back to medical and stop talking.”


カイオは不満そうな顔をしたが、出ていった。

ドアが閉まる。


「人間相手は、あれが一番苦手」

“He’s the worst of us with people.”


ジェームズが言った。


「お前も大概だろ」

“You’re not exactly great.”


「俺は平均より上」

“I’m above average.”


「何の平均」

“Whose average?”


「おれら三人」

“The three of us, including Caio.”


母数が少なすぎた。

少しだけ笑った。

その瞬間、手首が痛んだ。

笑ったことまで腹が立った。

マッケンジーが地図を閉じた。


「かるた。あなたを監視していた理由について、もう一つ伝える必要があります」

“Karuta. There’s another reason you were being monitored.”


スーツ姿の男が、鞄から別の録音機を出した。

黒い箱だった。

最初から机にあったものと、ほとんど同じ形をしている。


「今年二月、日本で作成された記録です」

“This recording was made in Japan in February.”


「俺の?」

“Mine?”


「あなたの面談記録です」

“An interview with you.”


「知らない」

“I don’t remember that.”


「覚えていないことは、記録と一致します」

“Which is consistent with the record.”


録音機の赤いランプが点いた。

短い雑音のあと、知らない男の声が聞こえた。


『用紙には、何と書かれていましたか』

続いて、自分の声。

いまより少し高かった。

『ターゲット。ピッチ。シンク』

『その順番ですか』

『たぶん』

『ピッチの内容は』

『中立』

『シンクは』

『空白』

録音が止まった。


青い紙。

言葉を聞いた瞬間、焦げた匂いがした気がした。

目の前には何もない。

思い出せるものもない。

それでも、自分がその紙を見たことだけは、身体のどこかが知っていた。


「何で覚えてないの」

“Why don’t I remember?”


マッケンジーが答えた。


「面談のあと、財団の職員と接触したこと、青い用紙に異常性があったこと、それから施設から転移したことに関する記憶へ、限定的な処理が行われました」

“After the interview, a limited memory treatment was carried out. It covered your contact with Foundation personnel, the anomalous nature of the blue form, and your displacement from the facility.”


「つまり、記憶を消したの?」

“You wiped it?”


「はい」

“Yes.”


言い換えなかった。


「父さんのことも?」

“What about my dad?”


「お父さんが亡くなったこと、暴力を受けたこと、成人男性と会ったこと、警察や医療関係者から事情を聞かれたことは、処理の対象から外されています」

“Your father’s death, the assault, your contact with the adult male, and your interviews with the police and medical staff were excluded from the treatment.”


「じゃあ、お前らのことだけ消したんだ」

“So you only wiped the part about you lot.”


マッケンジーは答えなかった。

かるたは少し息が荒くなっていた、ジェームズとマイアは、どちらも録音機を見ていた。

二人も、詳しいことは知らされていなかったらしい。


「俺が望んでのこと?」

“Did I agree to that?”


「あなたが十分な説明を受けたうえで同意したと確認できる記録はないですね」

“There’s no record showing that you gave informed consent.”


「じゃあ、勝手にやったんじゃん」

“So you just did it.”


「当時の担当者が、安全上必要な緊急措置として承認したということです」

“The duty officer at the time authorised it as an emergency safety measure.”


「それを勝手にやったって言うんだろ」

“That still means you did it without asking me.”


「そう言われても仕方ないですね」

“That’s a fair way to put it.”


謝らなかった。

財団全体の代わりに謝る立場ではないのかもしれない。

だからといって、怒らなくてよい理由にはならなかった。


「これってさ、戻せるの?」

“Can you like, put it back?”


「不可能ではない。ただ、どちらにしても今夜は行わない。まず安全性を評価して、何が行われたのかをあなた自身へ説明する必要があります。そのあとで、記憶の回復を試みるか、今の状態を維持するかを改めて確認します」

“It may be possible. Either way, we’re not doing it tonight. First, we assess the risks and make sure you understand what was done. After that, we’ll ask whether you actually want us to attempt recovery or leave things as they are.”


「また勝手に決めるんじゃないの」

“And you’re not just going to decide for me again?”


「今回は、あなたの意思を確認しますよ」

“This time, we’ll ask you.”


「前も確認すればよかったじゃん」

“You should’ve asked me the first time.”


「はい」

“Yes.”


そこで話が終わった。反論されなかったため、怒りを続ける言葉がなくなった。

マッケンジーは、机へ一枚の紙を置いた。

契約書ではなかった。

上部には、〈暫定保護配置に関する本人意向確認〉と書かれている。

日本語と英語が並んでいた。


「十二月十二日の帰国便は、現在停止されています」

“Your flight on 12 December has been suspended.”


「俺が変えたから?」

“Because of what I changed?”


「あなたの学校記録に変更が起きたことだけが理由ではありません。原因不明の現実性変動があり、あなた自身にも移動、重複、消失の可能性がある。状態を確認できないまま国際線へ乗せることはできません」

“It isn’t only because your school records changed. There was an unexplained reality fluctuation, and we cannot rule out displacement, duplication, or disappearance involving you. You cannot be placed on an international flight until that is assessed.”


「じゃあ、いつ帰るの」

“So when do I go back?”


「決めていません」

“We haven’t decided.”


「俺が決めるんじゃないの」

“Don’t I decide?”


「一人では決められない。あなたは未成年で、安全上の問題もある。ただし、あなたの希望を無視して決めることもしません」

“Not alone. You’re a minor, and there are safety issues. But we won’t decide while ignoring your preference.”


マッケンジーは紙の一段目を指した。


「選択肢は、現時点では二つです」

“There are two current options.”


一つ目。

日本支部の管理下へ移る。

状態が安定した後、日本へ戻る。住居と学校については、日本側が母親、児童福祉機関、学校と調整する。


二つ目。

ニュージーランド支部の暫定的な保護配置へ入る。

財団が管理する保護者、または協力機関のもとで生活し、医療、教育、異常性評価を受ける。一般学校への通学は、安全性を確認したうえで判断する。


「テリー家は?」

“The Terrys?”


「今すぐ戻すとは約束できません。事情を知らない一般家庭へ、説明なしで監視や緊急対応の責任を負わせることはできませんから」

“We can’t promise an immediate return. We cannot place monitoring and emergency-response responsibility on an uninformed civilian family.”


「じゃあ学校は」

“What about school?”


「ワカティプ・ハイスクール(Wakatipu High School)へ戻せる可能性はある。ただし、今のDomesticという記録を、そのまま正式な根拠には使えませんね」

“There is a possibility you can return to Wakatipu High School. But we will not treat the current Domestic entry as valid supporting authority.”


「消すの?」

“Will you delete it?”


「保全します。何が変わったか確認するために必要ですので」

“We’ll preserve it. It’s evidence of what changed.”


「じゃあ、どうやって学校に戻るの」

“Then how do I go back?”


「今日以降の手続きとして、児童保護と教育上の暫定配置を申請します。認められるかはまだ分かりません。ただ、財団のフロント組織を通じて、あなたが合法的にニュージーランドへ滞在できる身分は確保します」

“From this point on, we’ll apply for an interim child-protection and education placement. I can’t say yet whether it’ll be approved, but through a Foundation-run front organisation, we’ll make sure you have the legal right to remain in New Zealand.”


河原でできた記録を、正しい履歴として押し通すのでもない。

財団は、かるたが作ったものとは別に、歴史を作ることができる。

トレードオフのない、その事実を呑み込めない。


「それで、誰かが学校に行けなくなったりしない?」

“Does someone else lose their place because of it?”


マッケンジーは質問の意味を考えるように、少し間を置いた。


「通常の転校や保護配置として実行されるでしょう。定員を一名分書き換えたり、別の生徒の記録を変更したりはしません」

“It will be processed as an ordinary transfer or protective placement. We will not rewrite a one-person quota or alter another student’s records.”


小田の名前は出さなかった。

それでも、自分が何を訊いたのかは分かっているようだった。


「奇跡論の勉強は、こっちに残る条件?」

“Is studying thaumatology a condition of staying?”


「生活、食事、医療、教育が、労働や任務の報酬になることはありません」

“Food, housing, medical care, and education will not be conditional on work or field assignments.”


「トレーニングとやらは?」

“What about the training?”


「一般社会での生活を続けたいなら、自分の現象を理解し、安全手順へ協力する必要があるということです。」

“If you want to continue living in the general community, you will need to understand your anomaly and cooperate with safety procedures.”


「やらなかったら?」

“If I don’t?”


「保護区画内で教育を受けることになる可能性が高い」

“You would most likely receive education within a protected facility.”


選べる。

けれど、どちらを選んでも同じではなかった。

マイアが口を開いた。


「この子を、人員不足の穴埋めに使うつもりじゃないでしょうね」

“You’re not planning to use him to plug the gap, are you?”


「そのつもりはありません」

“That isn’t the intention.”


「学校に戻りたいなら、戻ればいい。そこは本人の好きにさせればいいでしょ。正直、私はどっちでもいい。でも、人が足りないからって、訓練や現場参加を押しつけるのはやめて」

“If he wants to go back to school, let him. That part’s up to him. Honestly, I don’t care either way. Just don’t use the staffing shortage as an excuse to push him into training or field work.”


マッケンジーはマイアを見た。


「しないです」

“I won’t do that.”


「ならはっきりかけるよね」

“Then I bet you can put it in writing.”


「マイア」


ジェームズが低い声で止めた。


「書ける範囲で書きましょう」

“I’ll put in what I’m authorised to guarantee.”


マッケンジーは紙の余白へ文章を追加した。


〈地域異常事案への参加は、本暫定保護配置の条件に含まれない〉


「これでいい?」

“Is this good enough?”


マイアは文面を読み、頷いた。

財団の人間ではない。

それでも、財団が何を書くかを確認している。

その関係が、かるたにはよく分からなかった。

味方というほど近くない。庇ってくれているようには感じない。

敵というほど離れてもいない。心配されているとも感じない。

スーツ姿の男が、別の用紙を机へ滑らせた。

今度は簡単な質問が三つだけだった。


〈現在、希望する滞在国〉

〈希望する教育環境〉

〈保護者および家族との連絡について、本人が希望すること〉


今夜ここへ書いた内容で、すべてが決まるわけではないことを、しきりにマッケンジーは繰り返した。


「明日でも、もし気持ちが変わったら変更できます。来週でも変更できます。ただし、日本へ戻るか、ニュージーランドでの配置を求めるかについて、現在の希望は記録しておく必要があります。」

“This does not settle everything tonight. You can change your answer tomorrow or next week. But we need a record of whether you currently want transfer to Japan or placement in New Zealand.”


「母さんは、何て言ってる?」

“What does my mother say?”


「今のところは、帰国が停止されたことだけを伝えています。健康と安全上の再評価が必要だと説明しています」

“She has only been told that your return is suspended pending a health and safety reassessment.”


「怒ってる?」

“Is she mad at me?”


「電話を受けた職員によれば、理由、期間、学校、費用、あなたと直接話せる時刻を順番に確認したそうです」

“She asked, in order, for the reason, duration, schooling arrangements, costs, and when she could speak to you directly.”


怒っているのかは分からなかった。

母なら、怒っていても同じ順番で訊いたかもしれない。


「今、話す?」

“you wanna speak with her now?”


かるたは紙を見た。

母と話せば、帰国しない理由を説明しなければならない。

説明できないと言えば、母は分かるまで質問する。

財団のことを話せないなら、説明できるものはほとんど残らない。


「今日は無理」

“Not tonight.”


「本人が休んでいると伝えます」

“I’ll tell her you’re resting.”


マッケンジーは、それ以上勧めなかった。

かるたはペンを持った。

一つ目の欄。

現在、希望する滞在国。

書く前に、ジェームズたちを見た。

ジェームズは、何も言わなかった。

マイアも、紙を覗き込まなかった。

スーツ姿の男は、鞄の中を整理している。

マッケンジーは、また震え始めた携帯電話を伏せたまま待っていた。


誰も、正しい答えを先に言わなかった。


ニュージーランドに残っても、テリー家へ戻れるとは決まっていない。

学校へ通えるとも決まっていない。

友達に会えるとも決まっていない。

奇跡論を学び、監視され、何かが起きれば、またジェームズたちが来る。

財団は、自分の記憶を一度消している。

今後は勝手にしないと言ったが、言っただけだった。

日本へ戻れば、母がいる。

父の落ちた階段がある。

小田がいる。


自分が変えた過去の中で、何も知らずに生活している人間がいる。


どちらも安全ではなかった。

どちらも、自分のものだとは言い切れなかった。

それでも、帰りたい場所を訊かれて、答えられなかった頃とは違った。

かるたは、欄へ書いた。


New Zea


そこで手が止まった。

綴りに自信がなくなった。

用紙の上部に印刷されている住所を見て、続きを写した。


New Zealand.


二つ目の欄には、ワカティプ・ハイスクールへの復帰を希望すると書いた。

三つ目は空白にした。

「ここは?」

マッケンジーが、家族との連絡欄を指した。


「今は決めたくない」

“I don’t want to decide that now.”


「なら、そのまま書いて」

“Well, Write that.”


かるたは日本語で書いた。


〈今は決めたくない〉


署名欄には、自分の名前を書いた。

ユウではない。

学校で一年間呼ばれていた名前と同じだった。

マッケンジーは用紙を受け取った。


「確認します。あなたの現在の希望は、ニュージーランドに残り、可能であればワカティプ・ハイスクールで教育を続けること。家族との連絡方法は、今夜は決定しない。合っていますか?」

“Your current preference is to remain in New Zealand and, if possible, continue your education at Wakatipu High School. You do not wish to decide tonight how contact with your family will be handled. Is that correct?”


「はい」

“Yes.”


短い返事だった。

マッケンジーは、もう一度訊いた。


「内容を理解した上での返答ですか?」

“Do you understand what you are agreeing to?”


かるたは、用紙を見直した。

残れることは決まっていない。

学校も決まっていない。

テリー家へ戻れるかも分からない。

ただ、自分がどちらを望んでいるのかを記録する紙だった。


「分かってる」

“I understand.”


マッケンジーは、そこで初めて用紙をファイルへ入れた。

机の端には、食べていないサンドイッチが残っていた。

ジェームズが、またバナナを見た。


「食べないなら、今度こそ――」

“If you’re not gonna have that, can I—”


かるたは紙袋を自分の方へ引いた。


「食べる」

“I’ll eat it.”


「はいはい」“All right.”


バナナの皮には、黒い点が幾つか浮いていた。

四日後には、日本へ帰るはずだった。

その予定は止まった。

代わりの生活は、まだどこにもなかった。


かるたはサンドイッチの包装を開けた。



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