消える留学生、捕まるかるた君(挿絵追加)
最後の一週間は、学校から借りていた物を返して回った。
教科書、図書館の本、スポーツ用具、ロッカーの鍵。机の引き出しや鞄の底から見つかった物を一つずつ窓口へ持っていくたび、この一年が自分の物ではなくなっていくようだった。
一年間使ったノートパソコンは、全員が返却するわけではない。来学期も在籍する生徒は、そのまま持ち帰ることができた。
かるたの端末には黄色い返却シールが貼られ、担当者は本体裏面の番号を読み上げてから、一覧表へ印を付けた。
「ファイル、全部移した?」“You backed everything up?”
「たぶん」“Pretty sure.”
「たぶんじゃ駄目。今、確認して」“No ‘pretty sure’. Check it now.”
母と同じことを言われたが、腹は立たなかった。
端末を開くと、美術の制作途中を撮影した写真と、Statisticsの未完成ファイルが残っていた。どちらも終わっていなかったが、削除する理由にもならなかったので、自分のアカウントへ移した。
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女子グループとの最後の昼食にも、全員はそろわなかった。
ビー(Bea)、プローイ(Ploy)、ニチャー(Nicha)、ハナ(Hana)がいた。ジソ(Jisoo)はすでにホストファミリーと旅行へ出ており、リン(Lin)は別の試験を受けていた。
「最後って感じしないね」“Doesn’t really feel like you’re leaving.”
ビーは自分のスマートフォンをかるたへ向けた。
「だって、インスタあるじゃん」
“We’ve still got you on Insta.”
「それ、帰ったあと一番連絡しなくなる人が言うやつ」
“That’s exactly what people say before they disappear.”
ハナが言った。かるたは少しむっとして、日本語で返した。
「余計なこと言うなよ」
“You didn’t have to tell them that.”
「じゃあ、ちゃんと返事してよ。既読つけた三日後に、リアクション一個だけとかやめて」
“Then actually reply. No leaving us on seen for three days and coming back with one emoji.”
「やってないだろ」“I don’t do that.”
「やってる」“You absolutely do.”
ビーは日本語の内容を理解しないまま二人を見比べ、ハナへ何の話をしているのか訊いた。
「こいつ、メッセージ返さないから」“He’s hopeless at replying.”
「違う。何て返すか考えてるだけ」“I’m thinking about what to say.”
「三日もかけて?」“For three days?”
プローイは、日本へ帰ったら菓子を送れと言った。ニチャーは住所を交換しようと言い、かるたは二人のスマートフォンへ日本の住所を入力した。
番地を一度間違えて消している間に昼休みのベルが鳴り、全員で急いで写真を撮った。
ビーは中央で笑っていた。プローイはシャッターが下りる瞬間に顔を崩し、ニチャーは食べかけの容器を持ったままで、ハナは目を閉じていた。
撮り直そうとしたところで次のベルが鳴ったため、写真はそのままグループへ送られた。
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ジアハオ(Jiahao)とは、ファイブ・マイル(Five Mile)で食事をした。
少なくとも、今年会うのはこれが最後だった。
「来年、戻ってくる?」“You coming back next year?”
「たぶん来ない」“Probably not.”
「何で?」“How come?”
「最初から一年だけの予定だったし、日本の学校も卒業しないといけないから」
“It was only meant to be a year. I’ve still got school to finish back home.”
留学費用のことは言ったが、母のことは言わなかった。
ジアハオはストローの包み紙を細く丸めながら、少しだけ眉を寄せた。
「それは、きついな」“Ah, that sucks.”
それ以上は何も言わなかった。励まそうとも、解決策を考えようともしなかった。
かるたはポテトを一本取った。
「お前は?」
“What about you?”
「来年もいる。たぶんYear 13まで」
“I’m staying. Probably through Year 13.”
「学校では、ずっとJacob?」
“Still going by Jacob at school?”
「うん」
“Yeah.”
「中国へ帰ったらJiahaoに戻るの?」
“And you’re Jiahao again when you go home?”
「当たり前だろ」
“Obviously.”
「便利だね」
“Convenient.”
「お前はどこにいてもKarutaだろ」
“You’re Karuta everywhere.”
ジアハオは、かるたが何を気にしているのか分からない顔をした。
会計を済ませ、店の外で拳を合わせた。
「お前はもう、死んでいる」
ジアハオが日本語で言った。発音だけは、最初に会った頃よりよくなっていた。
「最後までそれ言うんだな」
“You’re really keeping that bit going till the end, huh?”
「来年も言う」
“I’m doing it next year too.”
「俺、いないけど」
“I won’t even be here.”
「ネットがあるだろ、馬鹿」
“I’ll send it online, dumbass.”
かるたは笑った。
ジアハオは駐車場の向こうへ歩いていき、途中で一度だけ振り返ると、もう一度拳を上げた。
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ルーカス(Lukas)は、かるたより遅く帰国することになっていた。
クリスマスまではテリー家に残り、そのあと別の留学生と南島を回るらしい。
かるたがスーツケースへ服を押し込んでいる横で、ルーカスは床に寝転び、旅行先の動画を見ていた。
「ドイツにも来ればいいじゃん」
”You should come to Germany.”
「金ないって」
“bro, I’m broke.”
「泊まるところはある。うち来ればいい」
“I’ve got you, bro. You can crash at mine.”
「飛行機代も出してくれるの?」
“You paying for the flight as well?”
「そこまでは知らん」
“Yeah, nah. That bit’s on you.”
「じゃあ、そのうちな」
“One day, then.”
ルーカスは、それで話が決まったように動画の続きを再生した。
そのうち。
ルーカスは来年や再来年のことを、来週の予定と同じように口へ出した。
床には、美術の作品が三枚置かれていた。完成した一枚と、途中まで色の入った一枚、それから下描きのまま残った一枚だった。
ルーカスが二枚目を持ち上げた。
「これは?」
“What about this one?”
「置いていく」
“I’m leaving it.”
「何で?」
“Why?”
「終わってないから」
“It’s not finished.”
ルーカスは紙を少し離して眺めた。
「終わってなくても、もう絵だろ」
“Doesn’t mean it’s nothing.”
「触るなよ。絵の具つくから」
“Put it down. You’ll smudge it.”
「はいはい、先生」
“All right, Picasso.”
ルーカスが紙を戻したとき、角が少し曲がった。
かるたは指で折れ目を伸ばし、二枚目と三枚目もスーツケースの底へ入れた。
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十二月八日。
帰国まで四日だった。
夕方、かるたは犬を散歩へ連れ出した。レイク・ヘイズ・エステート(Lake Hayes Estate)の住宅地を抜け、いつもの砂利道へ入る。
春の終わりの日は長く、午後六時を過ぎても、山の斜面には白い光が残っていた。
犬は数歩進むたびに立ち止まり、同じ草へ何度も鼻を入れた。少し先まで行ってから戻ることもあったが、かるたは急がせなかった。
川沿いの道を外れると、道路からは見えない小さな河原がある。砂ではなく灰色の小石が広がり、半分水へ浸かった流木が一本だけ横たわっていた。
観光客のジェットボートも、散歩中の人間も見えなかった。
犬を長いリードへ替えると、犬はすぐに水際へ向かった。かるたは流木へ腰を下ろし、スマートフォンを開いた。
学校のポータルには、この一年で取得したクレジットが並んでいた。
その下には、取れなかったものも残っている。Calculus、Economics、ESOL、結果の出ていない外部試験、途中までしか提出できなかったStatistics、必要な作品数に届かなかった美術、空欄の残った体育のレポート。
ニュージーランドへ来てからは、眠れる日が増えた。
母も父もいなかった。好きな科目を選び、誰と出かけるかも、何時に帰るかも自分で決められた。授業中に動画を開いても、教師は端末を取り上げず、理由を訊いてから閉じるように言った。
友達もできた。
それでも、画面に並んでいる数字は変わらない。
誰にも邪魔されなかった一年で、自分が終わらせられなかったものだった。
かるたはスマートフォンを膝へ置いた。
十二月十二日には日本へ帰る。
空港には母が来る。父が落ちた階段を上り、日本の学校へ戻り、小田と同じ廊下を歩く。
朝はまた起きられなくなり、母に起こされ、遅刻する。提出物を忘れ、理由を訊かれても、自分でも分からないと答える。
ニュージーランドで過ごした一年だけが、長い休暇のように終わる。
スマートフォンが震えた。
〈荷物の重量、前日にもう一度確認して。超過分は現地で払うより、先に追加した方が安いです〉
母からだった。
かるたは通知を閉じ、画面を伏せた。
飛行機が欠航しても、別の日の便を取られる。パスポートをなくせば再発行され、病気になれば治ってから帰る。
何をしても、十二月十二日が少し後ろへずれるだけだった。
かるたが消したかったのは、四日という数字ではない。その先で当然のように待っている日本の方だった。
「もう一回だけ」
声に出すと、胸の奥に押し込んでいたものが、急に口元まで上がってきた。
「帰りたくない。あそこに戻ったら、また同じになる」
犬は水面へ鼻を近づけ、かるたの方を見なかった。
自由にさせてもらった。それでも課題を終わらせられなかった。
誰も怒鳴らなかった。それでも学校へ行けない朝があった。
環境が悪くなかったのなら、残るのは自分だけだった。
母の声に似た言葉が頭の中で続いたが、母が今ここで言っているわけではない。かるた自身が、母より先に自分を責めていた。
「今度は、人のじゃなくて、俺だけでいい」
小田の顔が浮かんだ。
消そうとすると、かえってはっきりした。
「俺、死んだりせんよな」
答える者はいなかった。
かるたは息を吐き、進路指導室で触れた感覚を思い出した。
あのときは、世界の中に柔らかい場所があった。指で押せば形が変わり、変わったあとの方が、最初からそうだったように馴染んでいった。
同じ場所を探した。
無意識に、右手が持ち上がった。
何かに触れた。
「っあ」
指を引いた。
進路指導室のときとは違い、向こうから押し返されたような感触があった。
目には見えないが、薄く硬いものが幾つも周囲へ立っている。住宅地の側に一つ、川の上流に一つ、学校の方角にも別の硬さがあり、触れようとするたびに指先がそこへ引っかかった。
かるたは手を下ろし、もう一度伸ばした。
今度は場所を変えず、同じ一点を押した。
硬いものが震えた。
耳の奥で、小さな電気音が鳴った気がした。
押し返す力が強くなる。
腹が立ち、さらに力を入れた。
細い針金を何本かまとめて折ったような感覚があり、抵抗の一つが急に消えた。続けて別の二か所も緩み、指先がその向こうへ深く入り込んだ。
そこで触れたものは、前よりずっと重かった。
航空券、学校、母、パスポート、住所、この一年、十二月十二日。それぞれが別々にあるのではなく、絡み合ったまま、かるたを日本へ帰す一つの流れになっていた。
全部は動かせない。
それでも、学校の中にある自分の立場だけなら、押し込めそうだった。
留学生ではない。
この町に住み、来年も同じ学校へ通う生徒として、最初から登録されていた。
かるたは押した。
耳の奥の圧力が急に変わり、川の音が遠ざかった。
犬が顔を上げる。
水面に映っていた空が二重になり、片方だけが少し遅れて流れたあと、元へ戻った。
スマートフォンが震えた。
学校のポータルが自動的に再読み込みされている。
画面上部にあった〈International Student〉という表示は消え、代わりに次年度の科目選択を促す通知が現れていた。
〈Student category: Domestic〉
かるたは文字を拡大し、意味を間違えていないか確かめた。
国内生。
登録住所はテリー家で、ガーディアン欄にはテリー夫妻の名前がある。留学終了日は消え、来年度も在籍する生徒として時間割を選べるようになっていた。
詳細を開くと、書類欄だけが空白になっていた。
〈Supporting document: No document on file〉
証明書類はなかったが、警告もエラーも表示されていない。
ホームステイ担当者から、新しいメッセージが届いた。
〈来年度も現在の滞在先を継続する場合は、休暇中の予定を金曜日までに提出してください〉
四日前まで、帰国後の部屋の清掃について連絡していた人だった。
画面の上では、来年もここにいることになっていた。
そのすぐ下には、十二月十二日の搭乗券が残っている。母のメッセージも、日本の学校から届いた復帰予定のメールも消えていなかった。
かるたは立ち上がり、何度か画面を上下へ動かした。
「いけた……よな?」
背後で枝が折れた。
犬が低く唸った。
「誰?」
「手を見えるところへ出して。ゆっくり」
“Hands where I can see them. Nice and slow.”
英語だった。
いつもバスで見かけるYear 9の少年が、木の間に立っていた。
濃い色のパーカーと短いパンツを身につけており、制服姿で見るときよりも幼く見える。
少年の右手にはスマートフォンがあった。画面上で円と線が幾重にも重なり、そのうち三本が途中で切れ、赤く点滅している。
左手には、指ほどの大きさの人形を持っていた。
頭と胴体、四本の手足だけで作られた、道路標識の人間に似た形だった。その胴へ数本の黒い髪が巻きつけられている。
かるたは自分の頭へ手を当てた。
「それ、俺の髪?」
“Is that my hair?”
少年は答えず、スマートフォンを足元の石へ置いた。
ポケットから薄い刃を取り出し、左手の親指の付け根へ滑らせる。血が一筋流れ、一滴目が地面へ落ちる前に、人形へ押し当てられた。
「おい、聞いてんのか」
“Hey. You listening?”
少年はスマートフォンを拾い上げ、画面を確認しながら一歩近づいた。
夕日の中で伸びていたかるたの影の、首に当たる位置を踏む。
“By borrowed breath, carried name, and fallen shade—bind what stands here to this place.”
最後の言葉だけが川の音から切り離されて聞こえた。
人形に付着した血が赤く光る。
かるたの影は急に濃くなり、輪郭を崩しながら石の隙間へ染み込んでいった。
気づいたときには、足元から完全に消えていた。
太陽はまだ背後にある。
犬にも、少年にも、木々にも影があった。
自分にだけなかった。
「何、それ」
“What the hell did you do?”
少年はスマートフォンの画面を見た。
「そのまま動かないで」
“Just stay where you are.”
周囲の木々が一斉に高い音を立てた。
沸騰したやかんの笛に似ていたが、一つの音ではない。
幹の裂け目や枝の切り口から白い蒸気が噴き出し、半分水へ浸かっていた流木が膨らんで、内側から割れた。
灰色の石が押し上げられ、地面から黒い手が現れた。
一本目が、かるたの足首をつかんだ。
「うわ、きっしょ!」
“What the fuck!”
反射的に足を引いたが、手は離れなかった。
片足を地面へ縫い止められたようになり、身体が前へ倒れる。
[画力がなくてここまでしか書けませんでした]
手をつく前に別の二本が両手首をつかみ、さらに一本が後頭部へ伸びて髪を引いた。
「痛い、痛い!」
“You’re hurting me!”
「だから動かないでって言った!」“I told you not to move!”
少年の声が初めて大きくなった。
周囲の草が熱風を受けたように伏せ、根元から黒くなった。
木の表面も炎を上げないまま炭化し、形を残した状態で乾いた音を立てている。
犬が吠えた。
少年は、かるたより先に犬を見た。
「犬は範囲から外してる」
“The dog’s outside the working.”
「俺は入れていいのかよ!」
“And I’m fine to put in it?”
「動かなければ怪我しない」
“You won’t get hurt if you stop fighting it.”
すでに両手首と頭皮が痛かった。
少年の額から汗が落ちている。スマートフォンの画面では、白かった線が外側から順に赤へ変わっていた。
「お前、誰だよ」
“Who the fuck are you?”
少年は答えなかった。
「学校でずっと見てただろ。気持ち悪いとは思ってたけど、こういう気持ち悪さだと思わんかったわ」
“You kept staring at me at school. I knew you were weird. Didn’t know you were this kind of weird.”
少年の口元が少し動いた。笑いそうになったのか、腹を立てたのかは分からなかった。
「答えろよ」
“Answer me.”
「ちがう質問なら」
“Ask a better question.”
木々の向こうから足音が近づいてきた。
最初に河原へ下りてきたのは、明るい茶色の髪を後ろで束ねた上級生の女子だった。学校で見た輪のピアスは外しており、灰色の布袋を片手に持っている。
女子は、倒れているかるたより先に、少年のスマートフォンと出血した手を見た。
「カイオ、シンクいくつ残ってる?」
“Caio, how many sinks have you got left?”
少年――カイオ(Caio)は画面から目を離さなかった。
「二つ」“Two.”
「八つ持ってたでしょ」“You had eight.”
「だから、二つ」“Yeah. Two.”
女子は布袋を開いた。中には小さな玉が八つあり、黒い色が残っているのは二つだけだった。残る六つは白く濁り、表面に細い亀裂が入っている。
「出力落として」
“Back it off.”
「落としたら抜ける」
“If I back off, he slips it.”
「手を増やしたの、誰」
“And whose fault is that?”
「立ったから」
“He got up.”
女子は炭化した草を靴で避けた。
「足だけでよかったでしょ。森まで巻き込まないで」
“Then pin his legs. You don’t need half the bloody treeline.”
「半分じゃない」
“It’s not half.”
「今そこ?」
“That’s your defence?”
カイオは黙った。
女子は布袋から乳白色の玉を一つ取り出し、カイオのスマートフォンへ近づけた。
画面の赤い線が少し薄くなり、木々が発していた高い音も止まった。
代わりに、炭化した枝が一本折れ、河原へ落ちた。
次に現れたのは、体格のよい白人の上級生だった。
黒いTシャツと太い首。
体育館の前、パーティー、帰りのバスで何度も見たことがある。
走ってきたはずだが、すぐにはかるたへ近づかなかった。
犬、消えた影、カイオの傷、炭化した木、地面から伸びる黒い手を順番に見てから、両手を見える位置へ上げた。
「大丈夫。こっちはお前を袋叩きにしに来たんじゃない」
“Easy, mate. We’re not here to jump you.”
「この状態で言う?」
“Bit late for that, isn’t it?”
男は、かるたの手首を押さえている黒い手を見た。
「……それはそう」“Yeah. Fair.”
女子が男を呼んだ。
「ジェームズ」“James.”
ジェームズ(James)は、カイオのスマートフォンを横から覗いた。
「固定、持ってる?」
“You still have the lock?”
「本人は押さえてる。周りがずれてる」
“I’ve got him. Everything around him’s shifting.”
画面の中心にある人型の印は動いていなかったが、その周囲を回る線は、重なったり離れたりを繰り返していた。
女子が初めて、かるたの顔を見た。
「名前、言える?」“What’s your name?”
「知ってるだろ」“You already know it.”
女子は否定しなかった。
「確認してるだけ。ここ、どこ?」“Humour me. Where are we?”
「レイク・ヘイズ」“Lake Hayes.”
「今日は何日?」“What’s the date?”
「何なんだよ。十二月八日!」“What is this? It’s the eighth of December!”
女子とジェームズが目を合わせた。
何かが伝わったらしいが、かるたには分からなかった。
「お前ら、何なんだよ」“Who the hell are you people?”
ジェームズは顎を掻いた。
「お前を見とけって言われてた側」
“We’re the people who got told to keep an eye on you.”
「誰に」“By who?”
「財団」“The Foundation.”
カイオが答えた。
女子が振り向いた。
「カイオ、黙って」“Caio. Shut it.”
「どうせあとで聞くじゃん」“He’s gonna hear it anyway.”
「今、お前から聞かせる話じゃない」“Not from you. Not here.”
財団。
Foundation。
学校の運営母体、慈善団体、建物を下から支える基礎。
知っている意味のどれも、目の前の三人と結びつかなかった。
かるたが腕を動かすと、黒い指が手首へ食い込んだ。
「俺の髪、どこで取った」“Where did you get my hair?”
カイオは答えなかった。
女子が代わりに言った。
「学校で回収した」
“It was collected at school.”
「それを盗んだって言うんだよ」
“That’s a very tidy way of saying you nicked it.”
女子は一度だけ頷いた。
「そう言われても仕方ない」“Fair enough.”
犬がもう一度吠えた。
かるたはテリー家へ戻りたかった。
犬と住宅地を歩き、玄関の鍵を開け、二階の部屋へ戻る。それだけのことが、黒い手に押さえられた今は、何日も先の予定のように遠かった。
腕へ力を入れても、手は外れない。
世界の内側には、まだ先ほど触れた場所が残っていた。
自分を国内生にした部分は完全には固まっておらず、押した指の跡が柔らかいまま残っている。その周囲には、最初に引きちぎった硬さの断片があり、触れるたびに細かく震えた。
この拘束さえなければいい。
そう思った瞬間、指先の代わりに意識がそこへ入り込んだ。
黒い手が一斉に強くなった。
肩と腰へ新しい手が生え、かるたの身体を石へ押し付ける。カイオのスマートフォンから、短い警告音が連続して鳴った。
「また来る!」“He’s pushing again!”
ジェームズが、かるたの方を向いた。
「かるた、やめろ。何をしてるか分からなくても、今はやめろ」
“Karuta, stop. Whatever you’re doing, just stop.”
「何もしてねえ!」
“I’m not doing anything!”
学校ポータルが勝手に再読み込みされた。
Domestic。
International。
空欄。
再びDomestic。
住所欄もテリー家と日本の住所の間で切り替わり、画面全体が何度も白くなった。
河原の外から、小さな破裂音が聞こえた。
一度。
少し離れた場所でもう一度。
ジェームズの腰につけられていた端末が震え、赤い警告を表示した。
カイオの鼻から血が落ちた。
「カイオ、少し落とせ」
“Caio, ease off.”
「落としたら固定が切れる」
“If I ease off, the lock goes.”
「切るな。出力だけ戻せ」
“Don’t drop it. Just bring it down.”
「やってる!」
“I’m trying!”
黒い手がかるたの胸元まで増え、息を吸うたびに肋骨へ圧力がかかった。
「痛い! やめろ!」
“It hurts! Get them off me!”
「こっちも限界なんだよ!」
“I’m at the limit too!”
「だったら放せよ!」
“Then let me go!”
「お前が先にやめろ!」
“You stop first!”
二人とも叫んでいた。
女子がかるたの近くへしゃがんだ。犬が唸ったが、女子は手を伸ばさなかった。
「かるた、私を見て。手じゃなくて、こっち」
“Karuta, look at me. Not the hands. Me.”
「無理だろ、痛いんだから!」
“Bit hard when they’re crushing me!”
「分かってる。フィールドエージェントがもう来る」
“I know. The field team’s nearly here.”
ジェームズは電話をかけ、相手が出るとすぐに話し始めた。
「河原。位置は送った。本人一名、犬一頭。カイオが緊急固定中。携帯錨が三基停止、二基不安定。植生被害あり」
“Riverside. Pin’s sent. One subject, one dog. Caio’s on emergency hold. Three portables are down, two unstable. We’ve got environmental damage.”
女子は炭化した木を見た。
「植生被害って便利な言い方だね」
“Environmental damage. Nice.”
「今それ言う?」
“Not helping, Maia.”
初めて、女子の名前が分かった。
遠くで車が砂利道へ入り、複数の扉が閉まる音がした。
ジェームズは電話を切り、木々の向こうを見た。
「来た」“They’re here.”
黒い服を着た大人が四人、河原へ下りてきた。
一人は医療用の鞄を持ち、残る三人は細長い灰色のケースを運んでいる。
先頭の男はかるたではなく、カイオのスマートフォンを確認した。
「固定を維持。こちらへ渡すまで解除するな」
“Hold the working. Don’t release until we take it.”
カイオは返事をせず、血のついた人形を握り直した。
灰色のケースが開かれ、薄い金属板が二枚ずつ取り出された。
大人たちは河原の周囲へ散り、石の上へ金属板を立てていく。
最初の一枚が起動すると、風が急に弱くなった。
二枚目では川の音が平らになり、水の流れが止まったように聞こえた。
三枚目が起動した瞬間、かるたの奥歯へ鈍い痛みが走った。
世界の内側に残っていた柔らかい場所が遠ざかる。
硬い壁に塞がれたのではない。
河原全体が一つの重い物体になり、どこへ触れても動かせなくなった。
金属板を操作していた女が端末を見た。
「九十八・七。まだ振れてる」
“Ninety-eight point seven. Still moving.”
四枚目と五枚目が起動した。
「百二・六」“One-oh-two point six.”
最後の一枚が低い音を立てた。
「百四・九。固定」“One-oh-four point nine. Holding.”
先頭の男がカイオへ手を上げた。
「三、二、一で解除。錨に渡せ」
“Release on three. Hand it to the anchors.”
カイオは人形を握ったまま、短く息を吐いた。
「三」“Three.”
「二」“Two.”
「一」“One.”
カイオが指の力を抜いた。
黒い手は先端から崩れ、木炭の粉になって石の間へ落ちていった。
肩、腰、両手首の順に圧力が消え、最後に足首をつかんでいた一本がなくなる。
夕日の下へ、かるたの影が戻った。
輪郭が少し歪み、右肩だけが実際の身体より長く伸びていた。
立ち上がろうとすると、先頭の男が片手を出した。
「まだ座ってて」“Stay down for now.”
誰かが犬のリードを持った。
犬は強く引いて抵抗し、かるたが名前を呼ぶと、足を止めてこちらを見た。
「犬、返して」“Give me the dog.”
「テリー家へ戻す」“We’ll take him back to the Terrys.”
「俺も行く」“I’m going with him.”
返事はなかった。
医療用の鞄を持った女が、かるたの前へしゃがみ、目へ小さな光を当てた。万華鏡のような鮮やかな光が差し込む。
「名前は?」“What’s your name?”
かるたは答えた。
「何歳?」“How old are you?”
「十六」“Sixteen.”
「今日は何日?」“What’s the date?”
「十二月八日」“Eighth of December.”
「今いる国は?」“What country are you in?”
「ニュージーランド」“New Zealand.”
「分かった」“All right.”
女が光を下ろした。
答え終えたところで、かるたは大きく息を吐いた。
次の息がうまく吸えなかった。
視界の端から色がなくなり、女子――マイアが、かるたのスマートフォンを透明な袋へ入れているのが見えた。
カイオは地面へ座り込み、血のついた左手を両膝の間へ挟んでいた。
ジェームズだけが、まだこちらを見ていた。
最後まで残ったのは、太い首の輪郭だった。
次に目を開けたとき、部屋には窓がなかった。
▼財団ニュージーランド支部▼
▼継続観察引継ぎ/インシデントKRT-04初動記録
クリアランス: Level 2
対象識別番号: POI-KRT-01
インシデント番号: KRT-04
発生日時: 20██年12月8日 18:11–18:47 NZDT
発生地点: ニュージーランド、オタゴ地方、Lake Hayes Estate北西河川回廊
主管: サイト-64NZ・南島管区オタゴ連絡室
関連部署: 日本支部サイト-81██
原文表題: CONTINUITY WATCH / INCIDENT KRT-04 INITIAL REPORT
翻訳: サイト-64NZ記録管理課
▼ 1. 引継ぎ状況
POI-KRT-01は、暫定異常案件KRTに関する監視対象として日本支部から登録されている。
20██年4月1日、対象者のニュージーランド渡航に伴い、日常監視の担当をサイト-81██からサイト-64NZへ移管した。サイト-81██は、既存事案記録、記憶処理記録、学校関係資料および因果隔離資料のLevel 2部分を提供した。
対象者の帰国予定日は12月12日であり、12月6日から日本支部への再移管作業が開始されていた。インシデント発生時、サイト-64NZは帰国便搭乗までの監視を継続していた。
▼ 2. 滞在中の観察記録
4月1日–5月31日: 登録されたホスト家庭への入居、現地校への通学開始を確認。複数回の遅刻、欠席および登校経路の誤認を記録。異常観測なし。
6月1日–8月31日: 同校生徒との学校外接触が増加。商業施設、飲食店、私的集会および短距離旅行への参加を確認。異常観測なし。
9月1日–11月30日: 複数科目に未提出課題および単位不足を確認。通学、ホスト家庭での生活および交友関係に大幅な変化なし。異常観測なし。
12月1日–8日: 貸与物の返却、私物の整理、送別を目的とする会食を確認。12月8日17:46、対象者はホスト家庭の犬を伴い、帰路へ入った。
▼ 3. インシデント経過
>18:11:42
NZ-AUX-03(Caio █████)が維持していた登録術式WRK-02の追跡環三系統が切断された。
同時刻、Lake Hayes地域に配置された携帯型SRA三基が停止し、二基が校正範囲外へ移行した。
>18:11:49
POI-KRT-01の学校在籍記録が変更された。確認された変更は以下のとおり。
・在籍区分をInternational StudentからDomestic Studentへ変更。
・留学終了日の削除。
・次年度科目選択権限の付与。
・テリー家住所の恒久登録。
・テリー夫妻のガーディアン登録。
上記変更に対応する出生、市民権、移民、養育または児童保護関係文書は確認されなかった。
日本行き航空券、日本側在籍校の復帰予定および保護者との通信記録に変更はなかった。
>18:12:03–18:12:17
Queenstown広域観測網が環境ヒューム値96.9–103.4の反復変動を記録。最大振幅はLake Hayes観測区で発生した。
>18:13:06
NZ-AUX-03がPOI-KRT-01の位置を確定し、サイト-64NZへ優先警報を送信。
同人は成人現場班および他のNZ-AUX要員の到着前に、WRK-02を常時追跡構成から緊急固定構成へ移行した。
>18:15:21
WRK-02による対象者の人物・位置固定が成立。
NZ-AUX-03は、承認済み構成に含まれない実体拘束を追加した。
>18:16:08
WRK-02へ接続されていた携帯Sink六基が飽和。
半径約11mの植生に炭化および壊死が発生。開放火炎なし。
>18:18:44
NZ-AUX-01(James █████)およびNZ-AUX-02(Maia █████)が現場へ到着。
NZ-AUX-03に左手切創、鼻出血および右手指の感覚低下を確認。
>18:22:10
POI-KRT-01周辺で二度目のヒューム変動を検出。
学校ポータル上の在籍区分および住所情報が反復変化した。対象者の携帯端末、ホスト家庭側端末および>学校側サーバーで同一の変動を確認。
物理的位置の変化は記録されなかった。
>18:22:18–18:26:51
Lake Hayes地域の携帯型SRA二基が追加停止。Queenstown広域観測網は環境ヒューム値95.8–104.1の振動を記録した。
WRK-02の人物・位置固定は継続。
>18:27:32
サイト-64NZ現場班が到着。
携帯型SRA四基および補助安定化ユニット二基を河川敷外周へ展開。
>18:28:04
現場環境ヒューム値98.7。
>18:28:13
携帯型SRA四基の同期を確認。現場環境ヒューム値102.6。
>18:28:21
補助安定化ユニット二基を起動。現場環境ヒューム値104.9で安定。
広域観測網の反復変動は12秒以内に減衰した。
>18:28:29
現場指揮官の指示により、NZ-AUX-03がWRK-02の緊急固定構成を解除。
解除後の位置変化および追加改変なし。
>18:31
医療班がPOI-KRT-01へ接触。氏名、年齢、日付および所在国への応答を確認。
>18:47
POI-KRT-01をサイト-64NZオタゴ連絡室へ移送。
▼ 4. WRK-02運用記録
WRK-02は、NZ-AUX-03に登録された追跡・局所固定複合術式である。
常時追跡構成、緊急固定構成および携帯型SRAへの引渡し手順は、20██年9月3日付の運用承認に含まれる。
本インシデントでは、以下の承認外運用を確認した。
・成人現場要員の到着前に緊急固定へ移行。
・実体拘束十一体を追加。
・予備Sinkへの切替を行わず、使用中の六基を継続運転。
・術者の負傷後も出力を維持。
WRK-02本体、術式制御端末、使用済みSink八基および対象者由来の生体資料を回収した。
▼ 5. SRA運用記録
KRT-04開始時、Lake Hayes地域へ配置されていた携帯型SRA五基に異常が発生した。
三基は追跡環切断と同時に停止。二基は出力を維持したが、校正誤差が許容範囲を超過した。
五基は現場から撤去し、サイト-64NZ機材部門へ移送した。
現場班が追加展開したSRAおよび補助ユニットに停止、出力低下または位相誤差は記録されなかった。
▼ 6. 人的・環境被害
POI-KRT-01
両手首、両足首、肩部および腰部に圧迫痕。頭皮に軽度の擦過傷。奇跡論的催眠術による一過性の意識消失。
NZ-AUX-03
左手切創、鼻出血、右手第4指および第5指の一過性感覚低下、急性EVE消耗。
その他
NZ-AUX-01、NZ-AUX-02、現場職員および一般人の負傷なし。
環境
樹木9本に部分的または全周性炭化。低木および草地約34m²に壊死。河川への異常物質流入なし。
一般人による直接目撃は確認されていない。
▼ 7. 措置
・カバーストーリー「河川管理用除草剤の流出事故」を適用。POI-KRT-01は薬剤曝露後の経過観察を理由に専門医療機関へ移送されたものとし、河川敷の植生被害は同事故によるものとして処理。
・12月12日に予定されていた日本支部への通常再移管を停止。
・POI-KRT-01の管理をサイト-64NZへ継続。
・サイト-81██へKRT-04観測記録、学校記録差分、SRA稼働記録およびWRK-02運用記録を送信。
・NZ-AUX-03によるWRK-02の単独緊急固定運用を停止。
・POI-KRT-01の携帯電話を電源維持状態で保管。
・対象者が同行させていた犬をホスト家庭へ返還。
POI-KRT-01は、サイト-64NZオタゴ連絡室内の面談区画へ移送された。通常型拘束具は使用していない。
面談区画外周では携帯型SRA二基を環境ヒューム値103.2–104.0で運転している。
初回面談は20██年12月8日20:00 NZDTに開始予定。
面談担当: ███████研究員
同席: NZ-AUX-01(James █████)
作成: ███████分析官/サイト-64NZオタゴ連絡室
確認: ███████当直管理官/南島管区
日本支部受領: 20██年12月8日21:16 NZDT




