夜の方が簡単
家の持ち主が誰なのかは、最後まで分からなかった。
クイーンズタウン(Queenstown)の中心から少し離れた斜面に、湖を見下ろす大きな家があった。
玄関には靴が散らばり、リビングでは音楽が鳴っている。庭へ続くガラス戸は開け放され、冬の冷たい空気と、暖房で温められた空気が同じ部屋へ入っていた。
ルーカス(Lukas)は、到着してすぐに誰かと抱き合った。
次の相手とも抱き合った。
名前を知らない者とも、以前からの友人のように肩を組んだ。
かるたは靴をどこへ置けばよいか迷い、壁際の隙間へ押し込んだ。
誰も見ていなかった。
見られていないなら、間違えても問題にはならない。
最初の十分は、ルーカスの後ろを歩いた。
二十分後には、ルーカスがどこにいるか分からなくなった。
テーブルには、缶とボトルが並んでいた。
中身が酒なのか、ただの炭酸飲料なのか、見た目だけでは分からない。
風船を持って笑っている者がいる。
窓際では、甘いとも焦げたともつかない匂いがした。
誰かが巻いた煙草のようなものを回していた。
誰も、未成年であることを隠していなかった。
同時に、誰も年齢を確認しなかった。
かるたは、渡された缶を一口飲んだ。
苦かった。
「何これ」
英語で訊くと、相手は銘柄を言った。
聞き取れなかった。
二口目は、少し飲みやすかった。
▼▼▼
酒が入ると、英語が上手くなったわけではない。
間違いを修正する時間が短くなった。
何を言うか考え、文法を確認し、相手の反応を予想する。その途中の二つほどが抜け落ちた。
「日本には本当に自動販売機がどこにでもあるのか」
「ある」
「下着も売ってる?」
「知らない」
「アニメでは売ってた」
「アニメを資料にするな」
相手が笑う。
かるたも笑う。
話題はすぐに変わった。
自分の答えが正しかったかを、あとから検討する時間がなかった。
それが楽だった。
ルーカスが戻ってきた。
頬が赤く、髪が少し濡れている。外へ出ていたらしい。
「楽しんでる?」
「まあ」
「踊ろう」
「無理」
「できなくていい」
ルーカスはかるたの肩へ腕を回し、そのまま人の集まっている方へ引いた。
身体が近づいた。
汗と、酒と、強い制汗剤の匂いがした。
かるたの胸の内側が、場違いな速さで動いた。
音楽に合わせる方法は分からなかった。
ルーカスは気にせず、肩を揺らした。
かるたも真似した。
数秒後、ルーカスは別の男子を見つけ、同じように肩を組んだ。
特別ではなかった。
それでも、さっきまで触れていた腕の重さは残っていた。
なかったことにはならない。
それでよかった。
少しして、ルーカスと庭へ出た。
湖の向こうに町の光があり、その上へ山の黒い形が重なっていた。家の中の音楽は、ガラス戸を一枚隔てると低い振動だけになった。
ルーカスは手すりへ両腕を置いた。
「日本でも、こういうパーティーある?」
「知らない。行ったことない」
「何してたの?」
「家にいた」
「毎週?」
「だいたい」
ルーカスは驚いた顔をした。
「親、厳しい?」
母が厳しいのか。
自分が何も言わなかっただけなのか。
父がいた頃と、死んだ後と、どちらを説明するのか。
「ちょっと」
英語では、それだけになった。
ルーカスは家の中を指した。
「今はいないじゃん」
正確には、日本にいる。
しかし、ここにはいない。
それだけで、できることが増えていた。
「うん」
かるたは答えた。
ルーカスは缶をこちらへ軽く当てた。乾杯だった。
次の瞬間には、庭で誰かが叫び、ルーカスはそちらへ戻っていった。
かるたは一人で湖の光を見た。
自由とは、何かを許可されることより、許可を取る相手がその場にいないことなのかもしれなかった。
▼▼▼
庭の端で、誰かが吐いた。
周囲が一度だけ騒ぎ、すぐに別の場所へ移った。
体格のよい白人の上級生が、人の間を抜けてきた。
学校で器具を運んでいた男子だった。
制服ではない。
黒いTシャツの上から厚いジャケットを着ている。それでも胸板の形は分かった。
男子は吐いた生徒へ水を渡し、横向きに座らせた。ふざけて動画を撮ろうとした者へ、手のひらを向ける。
「やめとけ」
英語で短く言った。
怒鳴らなかった。
それでも相手はスマートフォンを下げた。
褐色の肌をした上級生の女子も来た。
女子は吐いた生徒の友人を探し、何を飲んだかを訊いた。次に、近くで撮影していた別の女子へ、投稿してよいか本人へ確認したのかと訊く。
大人ではない。
教師でもない。
しかし、こういう場で何が危険かを知っている動きだった。
かるたは、その二人を少し離れた場所から見た。
体格のよい男子が顔を上げた。
一瞬、目が合った気がした。
男子は、こちらを知っているような顔をしなかった。
すぐに、吐いた生徒へ視線を戻した。
▼▼▼
キッチンでは、背の低いブラジル人の女子が、かるたのInstagramを見ていた。
日本の写真を順番に開き、看板の写真で止まった。
「これ、家族の店?」
「母さんの」
「お父さんは?」
英語で訊かれた。
酒のせいで、考える前に答えが出た。
「死んだ」
女子は画面から顔を上げた。
「ごめん」
「別に」
日本語なら、その先に何か足したかもしれない。
事故。
今年。
仲はよくなかった。
自分のせいかもしれない。
英語では、必要な言葉を選んでいるうちに話題が動いた。
女子は、かるたがルーカスをよく見ていると言った。
「見てない」
「見てる」
「男が好きだからって、全員見るわけじゃない」
口から出た。
女子は一度だけまばたきした。
“haha, Okay fair enough.”
それから、冷蔵庫を開けた。
「水いる?」
「いる」
会話は終わった。
重大な告白をしたつもりはなかった。
それでも、日本で同じ言葉を口へ出すとしたら、相手と場所と、その後の反応を何度も考えただろう。
ここでは、冷蔵庫の扉が閉まるまでの出来事だった。
水を受け取った。
飲んだ。
誰も集まってこなかった。
世界は変わらなかった。
▼▼▼
午前一時を過ぎた頃、ルーカスはまだ帰る気がなかった。
かるたは眠くなり、テリー夫妻へ連絡した。
迎えを頼むのは二度目だった。
迷惑かもしれないと思った。
しかし、帰れなくなったら頼めと言われている。
テリー氏が来るまで、玄関近くで待った。
例の上級生の女子が、壁へ寄りかかっていた。
近くで見ると、目元に細いそばかすがある。
「帰るの?」
英語で訊かれた。
「うん」
「友達は?」
「まだいる」
女子はルーカスのいる方を見た。
「一人で帰れる?」
「迎え来る」
“Good.”
それだけ言った。
かるたの名前は訊かなかった。
テリー氏の車へ乗ると、暖房が強かった。
酒と煙の匂いが、自分の服から上がった。
怒られると思った。
テリー氏は窓を少し開けた。
「飲んだ?」
英語で訊いた。
嘘をつくほどの余裕がなかった。
「少し」
「気分は悪い?」
「大丈夫」
「水を飲んで寝なさい」
会話は、それで終わった。
家へ着くと、テリー夫人も起きていた。
「楽しかった?」
「うん」
「よかった」
彼女は台所のグラスへ水を入れた。
「明日の朝、犬は私が行くから寝てていいわ」
かるたはグラスを受け取った。
悪いことをした。
未成年で酒を飲んだ。
知らない家へ行った。
帰宅は深夜になった。
それでも、人生が終わるような話にはされなかった。
水を飲む。
眠る。
翌日、起きる。
次に同じことをするかは、そのあと決められる。
階段を上がると、ルーカスの部屋は空だった。
少しだけ寂しかった。
自分の部屋へ入り、服を脱いだ。
煙と酒の匂いが残っている。
布団へ入ると、耳の奥でまだ音楽が鳴っていた。
楽しかった。
それ以上の説明は、必要なかった。




