バスを一本遅らせる
五月の終わりには、山の白い部分が増えていた。
レイク・ヘイズ・エステート(Lake Hayes Estate)の家々は朝になると霜で縁取られ、犬の散歩へ出るたび、芝生が靴の下で細く鳴った。
日本では春が終わる頃だった。
こちらでは、冬が近づいていた。
母から送られてくる写真には、店先の鉢植えや、半袖で作業する職人が写っていた。
かるたは、窓の外に霜がある写真を返した。
〈寒そう。防寒着ちゃんと着てる?〉
〈着てる〉
実際には、その日も上着を学校へ忘れてきていた。
翌日、忘れ物置き場から見つけた。
誰にも取られていなかった。
▼▼▼
金曜日の放課後、ジアハオ(Jiahao)がファイブ・マイル(Five Mile)へ行くと言った。
大型の店がまとまっている場所で、学校からはバスか車で少し戻る。ジアハオは新しいイヤホンを見たいらしく、かるたは特に用事がなかった。
用事がないから行かない、という理由もなかった。
二人は制服のまま、バスへ乗った。
ジアハオは後部座席へ行こうとしたが、かるたは前方に立っていたYear 9の少年を見つけた。
少年も同じ路線へ乗り、運転席近くの仕切りへ腰掛けている。
学校から帰る方向とは違った。
「お前も買い物?」
ジアハオが英語で声をかけた。
少年は顔を上げた。
「母さんと会う」
それだけ答えた。
ジアハオは知り合いらしかったが、名前を呼ばなかった。少年も会話を続けず、スマートフォンへ戻った。
かるたは、同じ学校の人間なら全員どこかでつながっているのかもしれないと思った。
ファイブ・マイルに着くと、空はまだ明るかった。
駐車場を囲むように、スーパー、衣料品店、薬局、家電量販店、飲食店が並んでいる。観光地というより、生活に必要な物を一度に買うための場所だった。
ジアハオは家電量販店へ入ると、棚の前で十五分ほどイヤホンを見比べた。
値札より、箱の仕様を見ている。
「どれがいい?」
訊かれた。
「知らない」
「日本人、こういうの詳しいだろ」
「国籍に機械の知識はついてこない」
「アニメはついてくるのに?」
「それもついてこない」
結局、ジアハオは最初に手に取ったものを買った。
比較していた時間は何だったのか訊くと、比較した結果、最初のものがよいと分かったのだと言った。
かるたなら、十五分見た以上、別の商品を選ばなければ時間を損した気がする。
感覚が違った。
次に、二人はゲームや雑貨を置く店へ入った。
ジアハオは、日本語が印刷された菓子を見つけるたび、正しい商品か訊いた。
「これ、日本で人気?」
「見たことない」
「日本語ある」
「日本語があれば日本で人気だと思うな」
「じゃあ、これは?」
「それ韓国語」
「同じに見える」
「お前の名前をJasonって呼ぶぞ」
ジアハオは笑った。
店を出たあと、かるたは前から気になっていたことを訊いた。
「家でJacobって呼ばれたら、変な感じする?」
英語で言うと、ジアハオは少し考えた。
「家では誰も呼ばない」
「でも、呼ばれたら」
「先生がJiahaoって呼ぶ方が変」
「何で?」
「発音が変だから」
「そうじゃなくて。どっちの名前のとき、自分が違う感じするとか」
質問がうまく英語にならなかった。
ジアハオは眉を寄せた。
「違う感じ?」
「たとえば、Jacobのときは学校の自分で、Jiahaoのときは家の自分、みたいな」
「ああ」
理解したらしい。
しばらく考えたあと、首を振った。
「別に。学校では英語を話すからJacob。中国語ならJiahao。お前も英語で話すとき、ちょっと違うだろ」
「それは、喋れることが少ないから」
「俺も同じ」
「でも、名前まで違うじゃん」
「名前も言葉だろ」
ジアハオはそう言い、フードコートのメニューへ視線を移した。
悩んでいないというより、悩む場所が見当たらないようだった。
かるたには、その感覚が分からなかった。
分からないから、面白かった。
二人はハンバーガーを買い、窓際の席へ座った。
ジアハオは新しいイヤホンの箱をすぐに開けた。
包装を丁寧に残さない。
説明書も読まない。
接続できるまで画面を何度か押し、音が鳴ると満足した。
「片方貸して」
かるたが言うと、ジアハオは右側を渡した。
中国語の曲だった。
歌詞は一つも分からない。
「何の歌?」
「失恋」
「お前、失恋したの」
「してない。歌がいいだけ」
「分からん」
「分からなくていい」
一つのイヤホンを二人で使い、外の駐車場を見た。
買い物を終えた家族。
仕事帰りらしい人。
制服の生徒。
遠くの山。
特別な景色ではなかった。
それでも、日本にいた頃、放課後に誰かとこうして時間を潰した記憶はほとんどなかった。
何かを相談するでもない。
大事な話をするでもない。
帰宅を遅らせるためでもない。
ただ、バスが来るまで座っていた。
▼▼▼
美術の課題は、異なる景色をトリックアートのように重ねる案で進めることにした。
大きな紙へ、日本の道路とレイク・ヘイズ周辺の道路を薄く写し、違う色で重ねる。
その上へ、標識や文字を置く。
最初の一時間は順調だった。
二時間目に、道路の線をもっと正確にしたくなった。
三時間目には、正確にするとストリートビューを写しただけに見える気がした。
線を手で崩した。
崩すと、何の場所か分からなくなった。
教師へ見せると、面白いと言った。
「ただ、何を見せたいかは残した方がいい」
英語でそう言われた。
何を見せたいのか。
道路。
距離。
移動。
名前。
二つの家。
考えるほど増えた。
かるたは、作品の中央へ飛行機の形を入れようとした。
途中で、飛行機は安直すぎると思った。
消した。
消した跡が汚くなった。
それを雲に変えた。
雲にすると、道路との関係がなくなった。
新しい紙でやり直すことにした。
教師は止めなかった。
「期限は確認してね」
最後にそう言った。
かるたはうなずいた。
期限がいつかは、確認しなかった。
▼▼▼
店を出る頃には、暗くなっていた。
二人は停留所へ向かった。
時刻表を見ると、次のバスまで四十分あった。
その次が最終だった。
「歩ける?」
ジアハオが訊いた。
「無理」
「車なら十分」
「車ならな」
二人はスーパーへ戻り、暖かい店内で時間を潰した。
ジアハオは家族へ電話をかけた。
中国語へ切り替わった瞬間、声が少し低くなった。
話す速度も速い。
笑い方は同じだった。
電話を切ると、かるたが見ていたことへ気づいた。
「何」
「別に」
「また名前のこと考えてる?」
「ちょっと」
「変なやつ」
「お前がな」
停留所へ戻ると、Year 9の少年が一人で立っていた。
母親らしい人物と会ったはずなのに、もう別れたらしい。
少年は二人を見ると、時刻表を指した。
「これ、遅れてる」
「何分?」
ジアハオが訊いた。
「分からない。事故」
道路の先で、車のライトが列になっていた。
かるたはテリー夫人へ連絡した。
〈バスが遅れています〉
すぐに返信が来た。
〈迎えに行こうか?〉
かるたは断ろうとした。
一人で帰れる。
待てばよい。
そう打っている間に、指が冷たくなった。
ジアハオは配車アプリを開いている。
料金を見ても顔色を変えなかった。
Year 9の少年はポケットへ手を入れ、道路を見ていた。
かるたは入力した文章を消した。
〈お願いします〉
二十分後、テリー氏の車が来た。
ジアハオも送ろうかと訊かれたが、彼は既に車を呼んでいた。Year 9の少年は、自分の家は近いと言って乗らなかった。
車内で、テリー氏は怒らなかった。
「次は、帰る前に時刻を確認した方がいいな」
英語で言った。
「うん」
「でも、連絡してくれてよかった」
それだけだった。
家へ着くと、テリー夫人が温めた夕食を置いた。
誰といたのかは、既にメッセージで伝えていた。
相手の親の連絡先も、住所も訊かれなかった。
自分で決めた結果、自分で困り、助けを求めた。
助けてもらった。
次のための注意は一つだけだった。
それ以上、出来事を大きくされなかった。
かるたは夕食を食べながら、母ならどうしたかを考えた。
時刻表を印刷する。
帰宅時間を決める。
相手の名前と電話番号を確認する。
しばらく放課後の外出を止める。
どれも、心配した結果なのだろう。
テリー夫妻も、心配していないわけではない。
ただ、次に同じ間違いをするかどうかを、かるたへ残した。
その自由は、少し怖かった。
怖いまま、楽だった。




