帰る場所が増える
学校へ通い始めて三週間ほど経つと、ネクタイは鏡を見なくても結べるようになった。
きれいな形にはならない。
結び目が少し右へ寄り、細い方が長く余る日もあったが、学校へ着けば似たような状態の生徒がいくらでもいた。シャツを出している者も、ネクタイそのものを鞄へ入れている者もいる。
誰にも直されなかった。
だから、直さなかった。
朝のバスでは、毎日同じ席に座る必要がないことも分かった。
空いているところへ座る。
隣に知っている人がいれば話し、いなければスマートフォンを見る。
降りる場所だけ間違えなければ、途中をどう過ごしてもよかった。
最初の一週間は、昼休みになるたび、ビー(Bea)たちがいる場所を校舎の反対側から確認していた。
見つからなければ、一人で食べる理由を考える。
見つけても、呼ばれていないのに行ってよいのか迷う。
その間に誰かがこちらへ気づき、手を上げてくれると、ようやく歩き出せた。
四週目の月曜日、ビーたちはいつもの中庭ではなく、図書館脇の低い階段へ座っていた。
かるたは誰にも呼ばれなかった。
それでも近づいた。
ビーが鞄を横へずらした。
「今日、遅かったね」
英語でそう言った。
「教室、遠かった」
かるたも英語で答え、空いた場所へ座った。
許可はなかった。
追い返されもしなかった。
それで十分だった。
ニチャー(Nicha)は、ホストマザーが作った炒飯を持っていた。プローイ(Ploy)は食パンを二枚重ね、その間へポテトチップスを挟んでいる。
「それ、食べ物?」
かるたが訊くと、プローイは真顔でうなずいた。
「ニュージーランド料理だね」
ハナ(Hana)が日本語で言った。
「絶対違う」
かるたは思わず日本でつっこんだ
「違わないよ。この国、パンの間に入れたら何でも食事になるから」
「じゃあ、米挟んでも?」
「それは寿司」
「寿司ではないだろ」
2人で日本語を使うと、ほかの者が会話から外れる。
最初の頃、かるたはそのことに気づかなかった。
ビーがプローイへ、何を話しているのか訊いた。
ハナが英語で説明した。
そこから、米をパンへ挟んだものを何と呼ぶかという、どうでもよい議論が始まった。
ジソ(Jisoo)は〈rice sandwich〉でよいと言い、リン(Lin)はスマートフォンで実在する商品を探した。ニチャーは、タイには甘い米を果物と一緒に食べる料理があるので、パンもいけるのではないかと主張した。
かるたは途中から内容を追えていなかった。
それでも、誰が賛成し、誰が馬鹿にしているかは分かった。
分からない単語があっても、会話全体が消えるわけではなかった。
昼休みの終わりを告げるベルが鳴ると、全員が別の方向へ散った。
次に会う約束はしない。
翌日になれば、また誰かが同じ場所にいる。
その関係が、かるたには楽だった。
▼▼▼
美術(Art)の最初の課題には、決まった題材がなかった。
教師は英語で、身近な場所、記憶、人物、物、何でもよいので、自分がしばらく考え続けられるテーマを選ぶように言った。
しばらく。
どれくらいかは分からない。
一時間か。
一週間か。
提出まで全部か。
周囲の生徒は、家族の写真、山、動物、靴、ゲームの画面などを開いていた。
かるたは学校から貸与されたノートパソコンで、日本の町を地図から見た。
自宅。
学校。
駅。
母の店。
閉鎖施設へ向かう途中で見たはずの道。
後半は覚えていない。
画面を縮小すると、どの道も同じ太さの線になった。
ニュージーランドの地図を別のタブで開く。
レイク・ヘイズ・エステート(Lake Hayes Estate)。
学校。
空港。
クイーンズタウン(Queenstown)。
日本から見れば、地図の端にある場所だった。
二つの地図を重ねたら面白いかもしれない。
家から学校までの道と、ホストファミリーの家から学校までの道。
同じ人物が毎朝通る、二つの経路。
次に、いろんな道路標識を使いたいと思った。
止まれ。
一方通行。
ハリネズミ注意。
これらの日本語や英語の標識。日本とニュージーランドの地理的な形、その自然な形と対比するようにいろんな標識の人工的で直線的な形を混ぜた、抽象的な作品。
さらに、飛行機の経路も入れたくなった。
名前もロゴみたいにしてもいいかも。
かるた。
Karuta。
教師へ説明する前に、スケッチブックの見開きが文字と矢印で埋まった。
教師はページを見て、しばらく黙った。
かるたは、意味が分からないのだと思った。
「たくさん考えているね」
教師は英語で言った。
否定ではなかった。
「どれが一番大事?」
訊かれると、急に分からなくなった。
全部つながっている。
どれかを消せば、別の意味になる。
“Roads.”
とりあえず答えた。
教師は、何か中心となる構図がいるといい、道路を中心にして、ほかの要素は必要になったときに足せばよいと言った。
決められた。
その瞬間、少しだけ興味が減った。
それでも、最初の下描きは進んだ。
▼▼▼
放課後、ジアハオ(Jiahao)とは、バスで会えば話した。
会わない日もあった。
彼はいつも同じ時間に帰るわけではなく、学校の図書館に残ったり、別の中国人留学生と町へ行ったりした。
会った日は、前後の説明なしに会話が始まった。
「今日、数学どうだった?」
英語で訊かれた。
「簡単」
「嘘つけ。最後の問題、見せて」
「金払え」
「一ドル」
「安すぎる」
ジアハオは、かるたのノートを奪うように開き、途中式を見た。
計算そのものより、かるたが数字をどの順番で置いたかを確認しているらしかった。
「何でここ飛ばすの」
「分かるから」
「先生、説明書けって言っただろ」
「答え合ってるじゃん」
「試験だと点なくなる」
「未来の俺が何とかする」
「未来のお前、信用できない」
英語では、皮肉も短くなった。
日本語なら、相手が本気で馬鹿にしているのか、冗談として返すべきなのかを考えたかもしれない。
ジアハオの顔を見れば、ただ笑っている。
だから、かるたも笑った。
レイク・ヘイズ・エステートの停留所では、Year 9の少年もよく降りた。
少年は、同学年らしい生徒と歩く日もあれば、一人で先へ行く日もあった。かるたやジアハオと同じバスに乗っていても、わざわざ話しかけてはこない。
一度だけ、降りるときに、かるたの鞄から落ちた鉛筆を拾った。
「これ」“Here.”
「ありがとう」”Thanks”
少年はありがとうを受け取ったようにうなずき、すぐに歩き出した。
名前を訊くほどの会話ではなかった。
学校の体育館前では、上級生がトレーニング用の器具を運んでいた。
その中に、やたらと胸板の厚い白人の男子がいた。
二人で持つような重さの器具を一人で抱え、友人に何かを言われて笑っている。
太い腕より、首が目についた。
首から肩までが、そのまま一つの部品のようにつながっていた。
近くには、褐色の肌と明るい茶色の髪を持つ女子生徒がいた。マオリ系にも白人系にも見え、制服のスカートを短くし、耳へ大きな輪のピアスを付けている。
女子は器具を持つ男子へ何か叫び、男子が片手を上げた。
二人とも、学校が自分たちの場所であることを疑っていない歩き方だった。
かるたは、すれ違うときに男子の腕を見た。
見たあとで、前を向いた。
何も起きなかった。
それも、この学校では楽だった。
▼▼▼
五月のある金曜日、ジアハオから、放課後に何か食べないかと訊かれた。
場所は、リマーカブルズ・パーク(Remarkables Park)だった。
学校から歩いて行ける。
帰りのバスを一本遅らせればよい。
かるたはテリー夫人へメッセージを送った。
〈ジアハオと食べてから帰ります。少し遅くなります〉
誰かと出かけることを、母へ送るような日本語で書いた。
送信してから、英語に直していないことへ気づいた。
慌てて削除しようとすると、既読が付いた。
数秒後、返信が来た。
〈Sweet. Let us know if you need a ride.〉
内容を翻訳するまでもなかった。
ジアハオへ画面を見せると、彼は言った。
「何で日本語で送ったの」
「間違えた」
「読めないじゃん」
「でも通じた」
「お前、絵文字だけでも生きていけそう」
二人で、フードコートの揚げ物を食べた。
高くはなかった。
安くもなかった。
かるたは財布の残金を確認してから注文した。
ジアハオは値段を見ず、飲み物と追加の料理を頼んだ。
食べきれなかった分は、そのまま残した。
「もったいなくない?」
かるたが訊くと、ジアハオは皿を見た。
「お腹いっぱいだから」
「持って帰れば」
「冷めたらまずい」
正しいのかもしれない。
それでも、かるたにはできなかった。
残ったポテトを何本かもらった。
食べ終わる頃、外は暗くなっていた。
帰宅すると、夕食は冷蔵庫へ入っていた。
テリー夫人は、誰と何を食べたのかを訊かなかった。
「楽しかった?」
英語でそれだけ訊いた。
「うん」
「よかった。明日、犬を少し長めに歩かせてもらえる?」
「いいよ」
会話はそこで終わった。
かるたは自分の部屋へ入り、母へは何も送らなかった。
隠したい出来事があったわけではない。
今日のことを説明しなくても、今日がなくならない。
その感覚が、まだ少し不思議だった。




