あたまが、パンクしそう
昼休みのあとは、数学(Mathematics)だった。
教師は一通り説明すると、英語で、近くの人と一緒に問題を解くように言った。
かるたには、その「近く」が誰なのか分からなかった。
机は一列に並んでいない。
全員、好きな向きへ座っている。
迷っていると、近くにいた、立派な髭を生やした白人の男子が椅子を引いた。
“You good?”
体調を訊かれたのか。
問題が分かるかを訊かれたのか。
ここから一緒にやるか、という意味なのか。
英語で話す時間が増えてから、頭の中の日本語は以前よりうるさくなった。
口へ出せないぶん、余計な連想まで勝手に続く。
自分が、よりがたいのいい男性に惹かれることは理解していた。
けれど、まさか学校そのものが、宝石だらけのパラダイスになるとは思っていなかった。
“Yeah.”
と答えた。
何に対する肯定かは分からなかった。
男子はプリントを二人の間へ置いた。
結果として、正しい返事だったらしい。
教師は教室の前に立ち続けなかった。
生徒の間を歩き、質問されたところだけを説明した。
分からない者を見つけて指名しない。
分からない側が呼ぶまで来ない。
自由には、呼ぶ能力が必要だった。
かるたは、男子が書いた式を見て、自分の答えを書いた。
数学だけは、数字が英語にならなかった。
それだけで助かった。
午後の長い休みになると、再びビー(Bea)たちのところへ行った。
今度は、どこへ行けばよいか分かった。
それだけで、朝とは別の学校に見えた。
“Instagram?”
ビーがスマートフォンを出した。
全員が順番にユーザー名を見せた。
かるたも、自分の画面を開いた。
日本で使っていたアカウント。
学校の友人。
母の店で撮った看板。
誕生日の料理。
何となく保存した風景。
小田が映り込んだ写真はなかった。
小田が付けた「いいね」だけが、いくつか残っていた。
一瞬、別のアカウントを作ろうかと思った。
ニュージーランドにいる自分だけを入れるアカウント。
日本にいた自分を知らない人間へ見せるためのもの。
けれど、ビーが画面を待っていた。
考える時間はなかった。
そのまま見せた。
フォロー通知が、一つずつ増えた。
ビー(Bea)。
プローイ(Ploy)。
ニチャー(Nicha)。
ジソ(Jisoo)。
リン(Lin)。
ハナ(Hana)。
六人。
初日の朝には、誰とも話せないと思っていた。
午後には、知らない国の人間が六人、自分の過去を少しだけ見られるようになった。
増えたのは数字だけだった。
それでも、帰る場所が一つ増えたような気がした。
▼▼▼
授業が終わると、校舎の外へ大量の生徒が流れ出した。
駐車場の一角に、スクールバスが何台も並んでいる。
同じような白い車体。
似たような緑と橙色の線。
行き先は、フロントガラスの内側に小さく表示されていた。
〈Lake Hayes〉
〈Shotover〉
〈Arrowtown〉
〈Queenstown〉
〈Arthurs Point〉
どれが自分のバスなのか分からない。
朝は家の前で待っていれば、来たバスへ乗るだけだった。
帰りは、自分で探さなければならない。
自由だ。
ふざけるな。
かるたは、時間割と一緒にもらった紙を開いた。
〈Route〉の欄に番号が書かれている。
しかし、バスのどこに番号があるのか分からない。
一台ずつ前へ回り込んで確認していると、背後から声がした。
“Yo.”
振り返った。
朝、同じバス停にいたYear 9の少年だった。
かるたより、かなり小さい。
褐色の肌。
黒い髪の前側だけを、明るい茶色に染めている。
制服のネクタイは緩く、シャツの裾が少し出ていた。
年下には見える。
しかし、自分より学校の使い方を知っている。
それだけで、かるたは少し緊張した。
少年は、かるたの紙を覗いた。
“Lake Hayes?”
“Yeah.”
“You lost?”
否定しようとした。
けれど、ほかの言い方が出なかった。
“A little.”
少年は顎で一台のバスを示した。
“That one.”
“Oh.”
“Come on.”
ついていく。
少年は、自分より小さい身体で、生徒の間を迷わず進んだ。
誰かとぶつかりそうになると、相手が先に避けた。
同学年の中では、おそらく、いけている側にいる。
そういう歩き方だった。
“Thanks.”
かるたが言うと、少年は肩をすくめた。
“All good.”
名前を訊く前に、バスへ乗った。
かるたは前の方の座席へ座った。
少年は、運転席と生徒席の間にある、クッション付きの仕切りへ腰掛けた。
座席ではない。
朝、人がぶつかることを前提にしていると思った場所だった。
少年はそこでスマートフォンを開き、誰かへ短い動画を送っていた。
運転手も注意しない。
いったい、何なのだろう。
親切だった。
それだけなのか。
朝、同じ停留所にいたから、帰る場所を知っていただけなのか。
考えても分からなかった。
バスが動き始めた。
かるたは窓の外を見た。
学校。
駐車場。
リマーカブルズ・パーク(Remarkables Park)の建物。
遠くの山。
すべてが後ろへ流れていく。
「オイ、オマエ!」
突然、日本語が聞こえた。
かるたは振り返った。
ふくよかな中国系の男子が座っていた。
大きな黒縁の眼鏡。
丸い頬。
制服の上から、光沢のある黒いジャケットを着ている。
手首には、学生が着けるには少し重そうな時計があった。
男子は、自分を指した。
「ニホンの人、だろ?」
日本語の単語は合っている。
しかし、一つずつ別の箱から取り出して、机へ並べたような発音だった。
「そうだけど」
「マンガ、見るか?」
「まあ、見る」
男子は満足そうにうなずいた。
そして、急に声を低くした。
「お前はもう、死んでいる」
かるたは黙った。
今日は、もうこれ以上、新しいものを処理できない。
男子は期待した顔で待っている。
かるたは、とりあえず拳を出した。
「うぇーい」
男子も拳を合わせた。
反応としては正しかったらしい。
“Good! You know it!”
そこから、男子は英語へ切り替えた。
漫画とアニメの話をした。
ドラゴンボール。
北斗の拳。
ワンピース。
ジョジョ。
日本人なら、全部知っていると思っているらしい。
かるたは、見たことのない作品についても、題名だけ知っていればうなずいた。
男子の英語は速かったが、文が短かった。
分からないときは、スマートフォンで画像を見せた。
ビーたちとの会話と同じだった。
言葉だけで理解する必要はない。
“What’s your name?”
かるたが訊いた。
男子は胸へ手を置いた。
“Jacob.”
かるたは顔を見た。
黒縁の眼鏡。
丸い頬。
艶のある黒髪。
ジェイコブ(Jacob)。
もう一度、顔を見た。
“Wait, wait.”
“What?”
“How the fuck is your name Jacob?”
男子は一秒黙り、大声で笑った。
“What do you mean?”
“You’re not Jacob.”
“I look like Jacob!”
“No! You don’t!”
“What does Jacob look like?”
訊かれると分からなかった。
少なくとも、目の前の男子ではない。
かるたは笑った。
ジェイコブも笑った。
前方のYear 9の少年が、一度だけこちらを見た。
“My Chinese name is Jiahao.”
男子が言った。
“Jiahao?”
“Yeah. But people here can’t say it. Teachers say Ji-ho, Jai-how, whatever. So I use Jacob.”
“Did you choose it?”
“My English teacher gave me three names: Jacob, Jason, Justin.”
“They all start with J.”
“Easy to remember.”
ジアハオ(Jiahao)。
ジェイコブ。
本名を何度も言い直して、相手に覚えさせるのではない。
最初から、相手が覚えやすい形へ自分を変える。
名前も、使いやすいものへ持ち替えられるらしい。
知ってもらおうとするより、知りやすい存在になる。
かるたにはなかった発想だった。
自分なら、間違えられるたびに笑いながら訂正し、途中で面倒になって諦める。
ジェイコブは、最初から面倒が起きない方を選んでいた。
逃げているようにも見える。
賢いようにも見えた。
たぶん、その二つは同時に成立する。
“Your family in Japan?”
ジェイコブが訊いた。
“Yeah.”
“What do they do?”
“Business.”
答えてから、少し広すぎると思った。
しかし、それ以上を説明する英語が出なかった。
“What business?”
“Signs. Printing. My mum makes signs for shops.”
“Oh, cool. My dad has a business too.”
“What kind?”
“Cars. He’s a dealer.”
Dealer。
車の販売員。
その程度に思った。
“He buys cars from Europe. Germany, Italy. We ship them to China.”
ジェイコブはスマートフォンを開いた。
港。
何十台もの車。
巨大な倉庫。
ショールーム。
父親らしい人物が、高そうな車の横に立っている。
販売員ではなかった。
販売する場所ごと持っている側だった。
“Oh.”
かるたは画面を見た。
“That’s……big.”
“Normal.”
“Not normal.”
ジェイコブは笑った。
“Your parents rich?”
“No. Different kind of business.”
父はもういない。
そう説明することもできた。
事故。
階段。
二月。
英語へ直すためには、一つずつ順番を決めなければならない。
決めれば、思い出す。
かるたは言わなかった。
“My mum works a lot.”
それだけにした。
ジェイコブは、それ以上訊かなかった。
次のアニメの話へ移った。
日本語では、何を言うかを考えすぎて、会話が遅れることがある。
英語では、知っている表現が少ない。
少ないから、出せるものを出すしかない。
嫌い。
好き。
分からない。
面白い。
それ何。
マジで。
思ったことが、考える前に口へ出た。
日本にいるときより、少しだけ自分が速かった。
バスはショットオーバー・カントリー(Shotover Country)を抜け、レイク・ヘイズ・エステート(Lake Hayes Estate)へ入った。
見慣れ始めた道路。
似た家。
低い塀。
芝生。
降りる停留所が近づいた。
かるたは立った。
“This is where I get off.”
“Okay. See you tomorrow.”
ジェイコブが拳を出した。
かるたも拳を合わせ、日本語で言った。
「また明日」
「お前はもう、死んでいる」
ジェイコブが、もう一度言った。
「それ、毎日やる気?」
“Yes.”
「やめろ」
笑いながらバスを降りた。
一日分の英語が、頭の中でまだ動いていた。
Morning。
Mackenzie。
Possum。
Instagram。
Jacob。
家へ向かう。
鞄が重かった。
肩も痛い。
疲れた。
何も考えたくなかった。
バスが発車した。
朝のYear 9の少年も、同じ停留所で降りていた。
スマートフォンから顔を上げ、一瞬だけ、こちらを見たような気がした。
目が合ったのかは分からない。
少年はすぐに画面へ視線を戻し、ほかの生徒たちと同じように歩き去った。
かるたは、まだ名前すら知らなかった。
今日一日で、理由の分からない親切は二つになった。




