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お前は、その意味を考えたことがないだろう―奇跡論者の現実改変記  作者: Hyman Godley
序:日本編

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12/27

誕生日・仲直り?

駅へ向かって歩いている間、小田の家の匂いが服へ残っていた。


カレー。

水槽。

湿った土。

誰かが朝に焼いたパン。


自分の家へ近づくにつれ、それらは少しずつ薄くなった。

玄関には、今夜の薬が置かれていた。

一回分の袋と水のペットボトル。

母の字で、〈帰宅したら連絡〉と書かれた付箋。

家の中には、誰もいなかった。


かるたは靴を脱いだ。

小田の家で揃えたのと同じ向きへ、一度だけ靴を揃えた。

違和感があった。

片方を蹴り、いつもの向きへ戻し、スマートフォンを開いた。

〈帰った〉

送信した。

少し考え、

〈薬もある〉

と付け足した。

母からは、すぐに既読が付いた。

〈飲んだら空袋置いておいて〉

それだけだった。

小田の家では、家族が全員、違うことをしていた。


父親は研究。

母親は仕事。

小田は料理。

妹は子どもでいること。


違うことをしているのに、一つの家の中へ収まっていた。

自分の家では、父がいなくなり、母が店へ泊まり、自分だけが戻ってきた。

誰も役割を間違えていない。

決められた手順も動いている。


薬は届く。

連絡も来る。

食べ物もある。


機能していないとは、言い切れなかった。

母は毎日働いている。

自分が寝ていても。

学校へ行かなくても。

怒鳴っても。

父を死なせても。

愛情と呼ばれるものが、必ず優しい形をしているとは限らない。

母がしていることも、社会的には、たぶん愛情だった。


働く。

金を出す。

病院へ連れていく。

薬を管理する。

学校へ連絡する。

留学へ行ける状態を作る。


全部、自分のためだった。

そう考えると、胸の内側が少しだけ苦しくなった。

だからといって、母のいる家へ戻りたいとは思わなかった。

抱きしめてほしいとも思わなかった。

話し合えば分かり合えるとも思えなかった。

自分が親不孝なだけなのかもしれない。


十六歳になる前。

反抗期。

ホルモン。

父親が死んだあとの混乱。


説明に使えそうな言葉はいくらでもあった。

どれも完全な嘘ではない。

だからこそ、どれかを選べば、それ以上考えずに済みそうだった。

かるたは薬を飲んだ。

袋を机へ置いた。

服を脱がずに布団へ入った。

その日は、もう何も考えたくなかった。

目を閉じると、小田の家の当番表が見えた。


父。

各自。

兄。

父。

カレー残り。


文字の形が崩れる前に、眠った。

泥の底へ沈むような眠りだった。


▼▼▼


三月十四日までの数日間、かるたは、なるべく深く考えないようにして過ごした。


学校へ行く。

遅刻する。

昼休みに誰かの話を聞く。

家へ帰る。

薬を飲む。

眠る。

起きられない。

母から連絡が来る。

留学の準備も進んだ。

予防接種。

保険。

緊急連絡先。

ホストファミリーの情報。

機内へ持ち込める薬の証明書。

必要な物は、母が一覧にした。


〈変換プラグ〉

〈常備薬〉

〈防寒着〉

〈英文診断書〉

〈現金〉

〈予備の眼鏡〉


かるたは、終わったものへ丸を付けた。

付け忘れたものへは、母が丸を付けた。

母との関係は、よくならなかったが、悪くもならなかった。

電話へ出れば、それ以上かかってこないし、薬を飲めば、母は空袋を回収する。

学校へ行けば、店から戻ってこない。互いに、相手を刺激しない手順だけが上達した。

三月十四日の夕方、母から電話が来た。


「今日、六時半に駅前ね」

「何で」

「何でって、誕生日でしょうが」

「ああ」

「忘れてたの?」

「別に。覚えてたけど」

「服、ちょっとマシなの着てきて。ジャージはやめて」

「どこ行くの」

「ご飯。お店の人たちも来るから」

「二人じゃないんだ」

「二人の方がよかった?」

「別に」

「じゃあ六時半」


電話は切れた。

誕生日は、ホワイトデーでもある。母は毎年、客や仕事仲間から菓子をもらう。

バレンタインに配ったものへの返礼なのか、誕生日祝いなのか、本人にも区別がついていないようだった。

待ち合わせ場所へ行くと、母は作業着ではなかった。


黒いパンツ。

薄い柄の入ったシャツ。

普段より少しだけ大きいピアス。

髪は下ろしていた。


「何、その顔」

「別に」

「似合ってるなら、似合ってるって言えばいいのに」

「言ってないじゃん」

「顔に書いてある」


母は先に歩き出し、連れていかれたのは、母の友人が経営する日本料理店だった。

表通りから一本入った場所にあり、入口には墨で書かれた店名と、小さな白い灯籠があった。

かるた一人なら、値段を見て入らない店だった。

奥の座敷には、既に母の仕事仲間が集まっていた。


印刷会社。

内装屋。

建築士。

小さな広告代理店。

スポーツバーの経営者。

子どもの頃から顔だけは知っている大人が何人もいた。


「主役来た!」

「おめでとう、十六やろ」

「もう酒飲める顔しとるな」

「飲ませたら捕まるわ」


大人たちは、よく喋った。

自分の話。

仕事の話。

昔の話。

誰かがいないときの、その人の話。


煙草を吸う者は店の裏口へ出て、戻ってくると、冷たい外気と煙の匂いを一緒に持ち込んだ。

酒が進むにつれ、声は大きくなった。


刺身。

焼いた魚。

小さな鍋。

白子。

名前を聞いても忘れそうな山菜。

最後に、鯛の身が入った土鍋ご飯。

どれも高そうだった。


「ニュージーランド行くんやって?」

「うん」

「ええなあ。俺も若い頃行っとけばよかった」

「お前、飛行機嫌いやん」

「船で行く」

「何か月かかんねん」


誰かが笑う。

別の誰かが、さらに大きな声で笑う。

かるたも笑った。

この場では、どう笑えばよいか知っていた。

大人の冗談は、意味を完全に理解していなくても、声の調子で参加できる。

小田の家とは違う温かさだった。


あちらは、誰かが何も喋っていなくても成立していた。

こちらは、全員が喋り続けることで、沈黙が入らないようにしていた。

どちらも、かるたの家にはなかった。


食事の最後に、店の照明が少し暗くなった。

白いケーキが運ばれてきた。

上には細い蝋燭が二本立っている。

一本は一。

もう一本は六。


「こういう数字のやつ、急に年寄りみたいじゃない?」

「十六本立てたら消防呼ばれるわ」

「吹いて吹いて」


かるたは蝋燭を消すと、拍手が起きた。

誕生日だから祝われた。

それだけだった。

誰かの代わりではなかった。

ケーキを切り分ける間、母は日本酒を飲み続けていた。

母は酒が強い、顔色は変わらない、呂律も回るし、歩き方も普通のまま。

ただ、酔うとよく喋る。


「あんた、小さい頃さあ」

「やめて」

「三歳ぐらいのとき、この人の店で、イクラだけ全部取って食べたんよ」

「覚えてないし」

「人の分まで取って。怒ったら、赤いのが俺を呼んだって」

「絶対、話盛ってる」

「盛ってないって。ねえ?」

「言うてた言うてた」

「この人ら、全員グルだから信用できん」


母は笑った。

笑いながら、かるたの肩へ腕を回した。

普段なら、肩をつかまれた時点で身体が硬くなる。

その日は、振り払わなかった。

母の腕は細くなかった。

看板や資材を持ち上げてきた腕だった。

父が死んだあとも、一人で店を動かしてきた。

母は、頬をかるたの頭へ一度付けた。


「十六かあ。早いなあ」

「何が」

「全部」

「意味分からん」

「分からんでいいの」


母は酔っていた。

だから言ったのかもしれない。

酔っていなくても、思っていたのかもしれない。

どちらでもよかった。


「母さんさ」


かるたは言った。


「何」

「もうすぐ俺、日本から出るじゃん」

「そうね」

「そろそろ家、帰ってきてもええんじゃないの」


母はすぐには答えなかった。

腕は、肩へ回したままだった。


「ああ」


少し遅れて言った。


「そうね」


それ以上、感情的な言葉は続かなかった。


「荷物も片づけないといけないし。冷蔵庫も空にしたいし、あんたのスーツケース、あのままじゃ閉まらんでしょう」


母親としての答え。

仕事を処理する大人としての答え。

帰りたい人間の答え。

どれが混じっているのかは、分からなかった。


「じゃあ帰ってくる?」

「帰るよ」


母はケーキを食べた。


「帰る帰る。はい、これ美味しいから食べなさい」

「子どもじゃないんだけど」

「今日ぐらい子どもでええやん」


フォークに刺した苺を、かるたの口元へ持ってきた。


「自分で食えるって」

「昔は食べてたのに」

「昔と一緒にすんな」


言いながら、食べた。

母は笑った。

帰りのタクシーでも、母は喋り続けた。

ホストファミリーへ渡す土産。

空港へ向かう時間。

現地での銀行口座。

薬の保管方法。

冬用の靴。

一つの話が終わる前に、別の話へ移った。

家へ着く頃にも、顔は赤くなっていなかった。

それでも、車から降りるとき、かるたの腕へ両手でつかまった。


「酔ってんじゃん」

「酔ってない」

「つかまってる時点で酔ってるって」

「親が子どもにつかまったらあかんの」

「歩けるなら歩いて」

「冷たいなあ、私のかわいい息子は優しいはずなのよ!」


母は笑った。

玄関へ入った。

母はそのまま二階へ上がり、自分の寝室の扉を開けた。

部屋の空気を一度嗅いだ。


「埃っぽ」

「自分の部屋じゃん」

「使ってない部屋は埃っぽくなるのよん」


母は窓を少し開けた。

帰るという話は、それで終わった。

翌朝、洗面所には母の歯ブラシが戻っていた。


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