誕生日・仲直り?
駅へ向かって歩いている間、小田の家の匂いが服へ残っていた。
カレー。
水槽。
湿った土。
誰かが朝に焼いたパン。
自分の家へ近づくにつれ、それらは少しずつ薄くなった。
玄関には、今夜の薬が置かれていた。
一回分の袋と水のペットボトル。
母の字で、〈帰宅したら連絡〉と書かれた付箋。
家の中には、誰もいなかった。
かるたは靴を脱いだ。
小田の家で揃えたのと同じ向きへ、一度だけ靴を揃えた。
違和感があった。
片方を蹴り、いつもの向きへ戻し、スマートフォンを開いた。
〈帰った〉
送信した。
少し考え、
〈薬もある〉
と付け足した。
母からは、すぐに既読が付いた。
〈飲んだら空袋置いておいて〉
それだけだった。
小田の家では、家族が全員、違うことをしていた。
父親は研究。
母親は仕事。
小田は料理。
妹は子どもでいること。
違うことをしているのに、一つの家の中へ収まっていた。
自分の家では、父がいなくなり、母が店へ泊まり、自分だけが戻ってきた。
誰も役割を間違えていない。
決められた手順も動いている。
薬は届く。
連絡も来る。
食べ物もある。
機能していないとは、言い切れなかった。
母は毎日働いている。
自分が寝ていても。
学校へ行かなくても。
怒鳴っても。
父を死なせても。
愛情と呼ばれるものが、必ず優しい形をしているとは限らない。
母がしていることも、社会的には、たぶん愛情だった。
働く。
金を出す。
病院へ連れていく。
薬を管理する。
学校へ連絡する。
留学へ行ける状態を作る。
全部、自分のためだった。
そう考えると、胸の内側が少しだけ苦しくなった。
だからといって、母のいる家へ戻りたいとは思わなかった。
抱きしめてほしいとも思わなかった。
話し合えば分かり合えるとも思えなかった。
自分が親不孝なだけなのかもしれない。
十六歳になる前。
反抗期。
ホルモン。
父親が死んだあとの混乱。
説明に使えそうな言葉はいくらでもあった。
どれも完全な嘘ではない。
だからこそ、どれかを選べば、それ以上考えずに済みそうだった。
かるたは薬を飲んだ。
袋を机へ置いた。
服を脱がずに布団へ入った。
その日は、もう何も考えたくなかった。
目を閉じると、小田の家の当番表が見えた。
父。
各自。
兄。
父。
カレー残り。
文字の形が崩れる前に、眠った。
泥の底へ沈むような眠りだった。
▼▼▼
三月十四日までの数日間、かるたは、なるべく深く考えないようにして過ごした。
学校へ行く。
遅刻する。
昼休みに誰かの話を聞く。
家へ帰る。
薬を飲む。
眠る。
起きられない。
母から連絡が来る。
留学の準備も進んだ。
予防接種。
保険。
緊急連絡先。
ホストファミリーの情報。
機内へ持ち込める薬の証明書。
必要な物は、母が一覧にした。
〈変換プラグ〉
〈常備薬〉
〈防寒着〉
〈英文診断書〉
〈現金〉
〈予備の眼鏡〉
かるたは、終わったものへ丸を付けた。
付け忘れたものへは、母が丸を付けた。
母との関係は、よくならなかったが、悪くもならなかった。
電話へ出れば、それ以上かかってこないし、薬を飲めば、母は空袋を回収する。
学校へ行けば、店から戻ってこない。互いに、相手を刺激しない手順だけが上達した。
三月十四日の夕方、母から電話が来た。
「今日、六時半に駅前ね」
「何で」
「何でって、誕生日でしょうが」
「ああ」
「忘れてたの?」
「別に。覚えてたけど」
「服、ちょっとマシなの着てきて。ジャージはやめて」
「どこ行くの」
「ご飯。お店の人たちも来るから」
「二人じゃないんだ」
「二人の方がよかった?」
「別に」
「じゃあ六時半」
電話は切れた。
誕生日は、ホワイトデーでもある。母は毎年、客や仕事仲間から菓子をもらう。
バレンタインに配ったものへの返礼なのか、誕生日祝いなのか、本人にも区別がついていないようだった。
待ち合わせ場所へ行くと、母は作業着ではなかった。
黒いパンツ。
薄い柄の入ったシャツ。
普段より少しだけ大きいピアス。
髪は下ろしていた。
「何、その顔」
「別に」
「似合ってるなら、似合ってるって言えばいいのに」
「言ってないじゃん」
「顔に書いてある」
母は先に歩き出し、連れていかれたのは、母の友人が経営する日本料理店だった。
表通りから一本入った場所にあり、入口には墨で書かれた店名と、小さな白い灯籠があった。
かるた一人なら、値段を見て入らない店だった。
奥の座敷には、既に母の仕事仲間が集まっていた。
印刷会社。
内装屋。
建築士。
小さな広告代理店。
スポーツバーの経営者。
子どもの頃から顔だけは知っている大人が何人もいた。
「主役来た!」
「おめでとう、十六やろ」
「もう酒飲める顔しとるな」
「飲ませたら捕まるわ」
大人たちは、よく喋った。
自分の話。
仕事の話。
昔の話。
誰かがいないときの、その人の話。
煙草を吸う者は店の裏口へ出て、戻ってくると、冷たい外気と煙の匂いを一緒に持ち込んだ。
酒が進むにつれ、声は大きくなった。
刺身。
焼いた魚。
小さな鍋。
白子。
名前を聞いても忘れそうな山菜。
最後に、鯛の身が入った土鍋ご飯。
どれも高そうだった。
「ニュージーランド行くんやって?」
「うん」
「ええなあ。俺も若い頃行っとけばよかった」
「お前、飛行機嫌いやん」
「船で行く」
「何か月かかんねん」
誰かが笑う。
別の誰かが、さらに大きな声で笑う。
かるたも笑った。
この場では、どう笑えばよいか知っていた。
大人の冗談は、意味を完全に理解していなくても、声の調子で参加できる。
小田の家とは違う温かさだった。
あちらは、誰かが何も喋っていなくても成立していた。
こちらは、全員が喋り続けることで、沈黙が入らないようにしていた。
どちらも、かるたの家にはなかった。
食事の最後に、店の照明が少し暗くなった。
白いケーキが運ばれてきた。
上には細い蝋燭が二本立っている。
一本は一。
もう一本は六。
「こういう数字のやつ、急に年寄りみたいじゃない?」
「十六本立てたら消防呼ばれるわ」
「吹いて吹いて」
かるたは蝋燭を消すと、拍手が起きた。
誕生日だから祝われた。
それだけだった。
誰かの代わりではなかった。
ケーキを切り分ける間、母は日本酒を飲み続けていた。
母は酒が強い、顔色は変わらない、呂律も回るし、歩き方も普通のまま。
ただ、酔うとよく喋る。
「あんた、小さい頃さあ」
「やめて」
「三歳ぐらいのとき、この人の店で、イクラだけ全部取って食べたんよ」
「覚えてないし」
「人の分まで取って。怒ったら、赤いのが俺を呼んだって」
「絶対、話盛ってる」
「盛ってないって。ねえ?」
「言うてた言うてた」
「この人ら、全員グルだから信用できん」
母は笑った。
笑いながら、かるたの肩へ腕を回した。
普段なら、肩をつかまれた時点で身体が硬くなる。
その日は、振り払わなかった。
母の腕は細くなかった。
看板や資材を持ち上げてきた腕だった。
父が死んだあとも、一人で店を動かしてきた。
母は、頬をかるたの頭へ一度付けた。
「十六かあ。早いなあ」
「何が」
「全部」
「意味分からん」
「分からんでいいの」
母は酔っていた。
だから言ったのかもしれない。
酔っていなくても、思っていたのかもしれない。
どちらでもよかった。
「母さんさ」
かるたは言った。
「何」
「もうすぐ俺、日本から出るじゃん」
「そうね」
「そろそろ家、帰ってきてもええんじゃないの」
母はすぐには答えなかった。
腕は、肩へ回したままだった。
「ああ」
少し遅れて言った。
「そうね」
それ以上、感情的な言葉は続かなかった。
「荷物も片づけないといけないし。冷蔵庫も空にしたいし、あんたのスーツケース、あのままじゃ閉まらんでしょう」
母親としての答え。
仕事を処理する大人としての答え。
帰りたい人間の答え。
どれが混じっているのかは、分からなかった。
「じゃあ帰ってくる?」
「帰るよ」
母はケーキを食べた。
「帰る帰る。はい、これ美味しいから食べなさい」
「子どもじゃないんだけど」
「今日ぐらい子どもでええやん」
フォークに刺した苺を、かるたの口元へ持ってきた。
「自分で食えるって」
「昔は食べてたのに」
「昔と一緒にすんな」
言いながら、食べた。
母は笑った。
帰りのタクシーでも、母は喋り続けた。
ホストファミリーへ渡す土産。
空港へ向かう時間。
現地での銀行口座。
薬の保管方法。
冬用の靴。
一つの話が終わる前に、別の話へ移った。
家へ着く頃にも、顔は赤くなっていなかった。
それでも、車から降りるとき、かるたの腕へ両手でつかまった。
「酔ってんじゃん」
「酔ってない」
「つかまってる時点で酔ってるって」
「親が子どもにつかまったらあかんの」
「歩けるなら歩いて」
「冷たいなあ、私のかわいい息子は優しいはずなのよ!」
母は笑った。
玄関へ入った。
母はそのまま二階へ上がり、自分の寝室の扉を開けた。
部屋の空気を一度嗅いだ。
「埃っぽ」
「自分の部屋じゃん」
「使ってない部屋は埃っぽくなるのよん」
母は窓を少し開けた。
帰るという話は、それで終わった。
翌朝、洗面所には母の歯ブラシが戻っていた。




