知らない世界
小田は、すぐには出てこなかった。
校門から生徒が途切れず流れてくる。
自転車を押している者。
コンビニへ寄る相談をしている者。
部活着の上から制服の上着だけを羽織り、鞄を肩へ引っ掛けている者。
皆、帰る場所と、帰るまでに一緒にいる相手が決まっているように見えた。
かるたは自動販売機の横に立ち、顔を半分だけ隠した。
一本だけ短い黄色い星を探した。
しばらくして、透明な書類入れが見えた。
小田だった。
一人ではなかった。
同じ制服の男子が二人、小田の横を歩いている。一人は知らない顔で、もう一人は廊下ですれ違ったことがあった。
小田は何かを説明しており、二人のうち一人が笑い、小田も少し遅れて笑っている。
教室で見せる、笑ったことにしてもらうための動きではなかった。
口が開いていた。
肩も上がっていなかった。
かるたは、自動販売機の陰から出られなかった。
小田にも、普通に話す相手がいた。
考えれば当然だった。
内気で、喋り始める前に喉が鳴り、からかわれたときにうまく言い返せないからといって、学校中で一人でいるわけではない。
かるたが知らなかっただけだった。
知らないことを、存在しないことと同じにして、あいつは俺と同じようなものだと、勝手に、そう思っていた。
違った。
胸の奥に、細く冷たいものが入った。
小田は自分よりずっと真面目だった。
一年も前から留学の準備をして、妹のことを考えて辞退し、自分の悔しさを人前で散らさず、選ばれた人間へ行ってらっしゃいと言える。
内気なことと、弱いことは違う。
もしかすると、小田の中には、かるたよりずっと硬いものがある。
母と同じような。
自分が決めたことを、嫌でも続けられる人間だけが持っているもの。
そう考えると、校門へ近づく足がさらに動かなくなった。
小田へ何を確認するつもりだったのか。
本当にお前が辞退したのか。
妹は、本当に春から中学生なのか。
母親は、本当に単身赴任をしているのか。
そんなことを訊いて、何が分かるのか。
小田が答えれば、それが改変後の記憶なのか、最初からあったものなのか、かるたには判別できない。
自分だけが正しいと言い張るために、小田の生活を一つずつ疑うことになる。
情けなかった。
また涙が出そうになった。
今日は、もう十分に泣いている。
それでも、身体にはまだ残っているらしかった。
かるたは鼻から息を吸い、喉の奥へ押し戻した。
小田たちは交差点まで一緒に歩いた。
一人が自転車置き場へ曲がった。
もう一人も、その先の横断歩道で手を上げ、別の道へ入った。
小田が一人になった。
かるたは自動販売機の陰から出た。
名前を呼ぼうとしたが、声が出なかった。
二歩ほど近づいてから、ようやく言った。
「小田」
小田が振り返った。
最初に驚き、その次に、かるたが制服を着ていないことへ気づいた。
「何してるの」
「散歩」
「学校休んで?」
「午後から散歩したくなる日もあるっしょ」
小田は数秒、かるたの顔を見た。
目の周りの赤さに気づいたかもしれなかった。
何も言わなかった。
代わりに、少しだけ口の端を上げた。
「留学行けるからって、もう気を抜いたら駄目だぞ」
母と、ほとんど同じことを言った。
それなのに、腹は立たなかった。
小田は言い終わると、かるたの返事を待たずに歩き出した。
学校へ連絡したかとは訊かなかった。
明日は行くのかとも訊かなかった。
何時までに何をするかも決めなかった。
言葉のあとに、次の手順が続かなかった。
従わなくても、小田は何も取り上げない。
留学も。
スマートフォンも。
家から出る権利も。
小田の正しさは、かるたを直すための正しさではなかった。
だから、受け取らなくてもよかった。
受け取らなくてよい言葉なら、少しくらい受け取ることができた。
「いやあ、昨日あんま寝れんくてさ」
かるたは小田の横へ並んだ。
「なんか、分かんないけど」
一瞬、自分なんかが行っていいのかな。と、そこまで言いかけた。
小田の顔を見た。
その言葉は、席を奪われた人間へ向けて言うには、あまりにも都合がよかった。
自分を責めてほしいのか。
許してほしいのか。
小田に慰めさせたいのか。
どれであっても、失礼だった。
かるたは言葉の向きを変えた。
「今日さ、ちょっと遊ばね?」
小田が足を止めた。
「今日?」
「うん」
「今から?」
「今からじゃなかったら、今日じゃないじゃん」
「いや、そうだけど」
小田は透明な書類入れを抱え直した。
急に誘われたことを、どこへ置けばよいか分からない顔だった。
「僕、家に帰って、妹の飯作らないといけないんだよ」
「へえ」
「だから、どっかに行くのは無理だけど」
小田は一度、考えた。
「家でいいなら、別にいいよ」
断られなかった。
その事実だけで、胸の内側が少し軽くなった。
「マジで?」
「ただ、何もないけど」
「何もなくても家はあるじゃん」
「それは、あるけど」
小田はまた歩き出した。
かるたは、その隣を歩いた。
小田の家までは、学校から二十分ほどだった。
駅へ向かう生徒の流れから外れ、大通りを一本渡り、低い集合住宅と戸建てが混ざった地区へ入る。
小田は途中のスーパーへ寄った。
鶏肉。
玉ねぎ。
じゃがいも。
牛乳。
甘口のカレールー。
箱を籠へ入れる前に、裏面を確認した。
「それ、毎回見るの」
かるたが訊くと、小田は顔を上げた。
「何が」
「裏」
「ああ。メーカーによって違うから」
小田は箱の原材料表示を指でなぞった。
ピーナッツ。
落花生。
同一工場。
該当する表記がないことを確かめてから、籠へ入れた。
必要なものを、必要な場所で確認する。
小田は以前から、そういう人間だった。
レジを出たあと、かるたは袋を一つ持った。
「別に、持たなくていいよ」
「遊びに来て、何もせんのも変じゃん」
「遊びに来た人は普通、買い物袋持つものなの?」
「知らんけど。俺ん中では持つ」
小田は反論しなかった。
家は、同じ形の建物が六軒ほど並んだ区画の端にあった。
二階建ての、ツルツルした見てくれの白い外壁がついた綺麗な家
玄関脇に、自転車が三台。
一台だけ、籠に子ども向けの反射板が付いていた。
小田が鍵を開けた。
玄関へ入った瞬間、かるたは足を止めた。
水の音がした。
細く、途切れず、何かが流れている。
リビングの壁際に水槽が二つ置かれていた。
大きい方には、流木と水草の間を小さな魚が動いている。
もう一つには、水底へ張り付く、茶色く平たい生き物がいた。
テレビの横には、ガラス張りの飼育ケースがあった。
中の枝へ、灰色のトカゲが腹をつけている。
ケースの上のランプだけが、夕方の部屋には不自然なほど明るかった。
「え」
かるたは袋を持ったまま言った。
「何、これ」
「何って?」
「動物園?」
「水槽二個とヤモリで動物園にはならないだろ」
「ヤモリ、家ん中におっていいの」
「ケースの中ならね」
小田は靴を脱ぎ、玄関の端へ揃えた。
「それ、蓋開けないで。逃げるから」
「開けんわ」
かるたも靴を脱いだ。
置く向きが分からず、小田の靴と同じ向きに揃えた。
廊下には、小田の家の匂いがあった。
水槽の水。
乾いた餌。
紙。
少しだけ湿った土。
誰かが朝に焼いたパン。
家ごとに匂いが違うことを、かるたは初めて知ったような気がした。
自分の家は、何の匂いがするのだろう。
母の作業着についた糊。
父の工具の油。
冷蔵庫に並ぶ容器。
薬の袋。
そこまで考え、やめた。
「父親いないの?」
袋を台所へ置きながら訊いた。
「妹を迎えに行ってる。あとちょっとしたら帰ってくると思う」
「妹って、何歳だっけ」
「十二。来月から中学」
知っていた。
選考結果を聞いた日に、小田が言っていた。
妹が春から中学生になる。
母親が戻れない。
家にいた方がいいと決めた。
それでも、改変前のかるたは、小田に妹がいること、それだけしか知らなかった。
年齢は知らなかった。というよりは、覚えていなかった。
小田は冷蔵庫を開けた。
扉には、学校の予定表と、手書きの当番表が磁石で留められていた。
〈月 父〉
〈火 各自〉
〈水 兄〉
〈木 父〉
〈金 カレー残り〉
水曜日の横へ、赤いペンで、
〈にんじん小さく。大きいと食べない〉
と書かれている。
その下に、別の字で、
〈子ども扱いするな!〉
と返されていた。
小田が当番表を裏返した。
「見るなよ」
「仲よさそうじゃん」
「普通」
小田は鍋を出した。
かるたは、何をすればよいか分からないまま台所へ立った。
「何すればいい?」
「じゃあ、じゃがいも洗って」
「皮は?」
「剥いて」
「芽は?」
「取って」
「どれぐらい」
「食べたくないところまで」
「説明が急に雑じゃない?」
「じゃあ僕がやるから、玉ねぎ切って」
「それはもっと危ないだろ」
結局、小田が玉ねぎを切り、かるたがじゃがいもの皮を剥いた。
ピーラーは、母の店の控室にあるものと形が違った。
刃をどちらへ向ければよいのか迷い、最初の一個だけ妙に細くなった。
小田は笑わなかった。
「それ、もう少し皮だけでいいよ」
「分かってる。小さくした方が火通るじゃん」
「じゃがいもを削って火の通りをよくする人、初めて見た」
「効率化」
「可食部を減らしてるから効率悪いよ」
言い方は真面目だった。
冗談なのか判断するまで、一秒かかった。
かるたは笑った。
笑うと、小田も少し笑った。
鍋へ油を入れる音がした。
玉ねぎを炒める。
鶏肉を入れる。
白かった肉の表面が、少しずつ色を変える。
水槽の濾過器が、途切れず音を立てていた。
知らない家の台所にいる。
それだけで、何をするにも身体の位置が定まらなかった。
椅子へ座ってよいのか。
冷蔵庫の前を通ってよいのか。
手を洗ったあとのタオルはどれか。
水を飲みたいときは訊くのか。
戸棚を開けてコップを探してよいのか。
それぞれの家には、説明されない規則がある。
小田はその全部を知っていた。
かるただけが、他人の生活へ靴下のまま入り込んだ異物のようだった。
「何かあった?」
小田が訊いた。
鍋をかき混ぜたまま、こちらを見ていた。
「何が」
「ずっと、そわそわしてるから」
「いや」
かるたは手に付いたじゃがいもの皮を、水で流した。
「俺、あんま人ん家来たことないから。なんか新鮮なだけかも」
小田が振り返った。
「え。お泊まりとかは?」
「ん?」
「小学校の頃、友達の家でゲームしたりとか」
「ああ」
返事を出す前に、頭の中で記憶を探した。
学校が終われば、母の店へ戻った。
控室の小さなテレビ。
積まれた資材。
インクと糊の匂い。
母の仕事が終わるまで、字幕のない外国映画や、再放送の情報番組を見ていた。
近所に同年代の子どもがいなかったわけではない。
ただ、母は仕事仲間とは話しても、近所の親と立ち話をするような人ではなかった。父も、休日に家族ぐるみで誰かを呼ぶ人間ではなかった。
かるたが子どもの頃に連れていかれた場所は、公園より、ゴルフの打ちっぱなしだった。
母の自営業仲間の、腕の太い男たちが、フォームについて何時間も話している横で、ジュースを飲んだ。
開店前のスポーツバーで、大学生のアルバイトからゲームを借りた。
母の友人の集まりでは、酔った大人の冗談に笑い、意味を理解していないのに「分かるわ」と言った。
同年代との話し方より、大人が子どもへ何を話すかの方を先に覚えた。
公園では、どの遊びにどう入ればよいのか分からなかった。
鬼ごっこの範囲。
ドロケイの呼び方。
誰が勝手にルールを変えてよいのか。
帰るとき、全員へ声を掛けるのか。
「入れて」と言うだけで、本当に入ってよいのか。
何も分からないまま立っていると、もう遊びは始まっていた。
そういう記憶だけが、急に一つの塊になって戻ってきた。
「ないわけじゃないけど」
かるたは言った。
「久々ってだけ」
「ふうん」
小田は、それ以上訊かなかった。
鍋に水を入れた。
湯気が上がるまでには、まだ時間があった。
かるたは、剥き終わったじゃがいもを切った。
大きさが揃わなかった。
小田は何も言わず、大きすぎるものだけ半分にした。
「幼馴染とか、いるの?」
かるたが訊いた。
小田は包丁を置いた。
「いるけど」
「へえ。どんな」
「どんなって言われても」
少し考えたあと、小田は、明らかに小さい頃から使っていると分かる呼び名をいくつか口にした。
たっくん。
みっちー。
ガチャ。
「ガチャ?」
「保育園の頃、ずっとカプセルトイの空容器持ってたから」
「そいつ今もガチャって呼ばれてんの?」
「本人が直さなかったから」
「強いな」
小田は少し恥ずかしそうに、鍋へ視線を戻した。
小田が以前住んでいたのは、ここから電車で四十分ほど離れた町だった。
田舎というほどではない。
駅前には新しいマンションが並び、その外側に昔からの住宅地と畑が残っている。
大きな市へ通勤する人が多く、夜になると駅だけが明るい町だった。
この高校を受ける前に、今の市へ引っ越した。
「僕が通いやすくなるのもあったけど、父さんの大学にも近くなるから。別に僕だけのためじゃないよ」
小田は、念を押すように言った。
自分のために家族が生活を変えたと思われることが、少し恥ずかしいらしかった。
「じゃあ、そいつらとはもう会わんの?」
「たまに。長い休みとか」
「普段は?」
「メッセージ。あとはゲームしたり」
「ずっと?」
「ずっとっていうか、誰かが何か送ったら返す感じ」
「毎日?」
「毎日ではないよ。何日か空くこともあるし」
それでも、関係は続いている。
返事をしない日があっても、次の話題が来る。
会わなくなっても、相手の名前を友達の欄から消さなくてよい。
かるたには、その仕組みがよく分からなかった。
メッセージは、返さなければ終わるものであり、返しすぎても、面倒な人間になる。
何日空けるのが普通なのか。
どこからが無視で、どこまでは忙しいだけなのか。
小田は、それを考えなくてもできるのだろうか。
あるいは考えた上で、ずっと失敗せず続けているのだろうか。
どちらにしても、自分より社会性がある。
「寂しくないの」
かるたが訊くと、小田は少し驚いた。
「寂しいよ」
小田は答えた。
「だから、たまに戻りたいと思うけど。今の学校も嫌いじゃないし」
両方を持っていた。
前の町が寂しいが、今の学校も嫌いではない。
一つを選んだから、もう一つを悪く言う必要がない。
かるたには、その心の持ち方もよく分からなかった。
鍋の中で、湯が小さく沸き始めた。
小田は灰汁を取り、火を弱めた。
かるたは冷蔵庫へ貼られた予定表を見た。
母親の予定らしい文字は、ほとんどなかった。
「母親って、単身赴任なんだっけ」
「うん」
「遠いの?」
「電車で二時間弱。帰れない距離ではないけど、毎日だと無理」
「いつから?」
「一月の終わりぐらい」
改変が起きる前だった。
少なくとも、今の世界では。
「母さんの会社で、新しい部署を向こうに作ることになって。管理する人が必要だったから」
「へえ」
「うちは、母さんの方が稼いでるし」
小田はルーの箱を開けた。
「交通費と時間を考えたら、毎日こっちへ帰るより、向こうで小さい部屋を借りた方が安いんだって。週末は帰ってくるけど、今は忙しいから、二週間に一回ぐらい」
「母親が稼ぎ頭なんだ」
「そう」
小田は、それを特別なこととして言わなかった。
「なんか、うちと似てるかも」
かるたは言った。
似ているものを見つけると、急にここに居ても良いような気がした。
「うちも母さんが自営業で店やってて、売上だけなら父さんの何倍もあったし」
「そうなんだ」
「父さん、あんま役に立ってなかったからな」
小田の手が止まった。
ルーを鍋へ入れる前だった。
「そういうことは、あんまり言わない方がいいんじゃない」
真顔だった。
かるたは、何が問題なのかを一瞬理解できなかった。
父を敬う理由など、ほとんどなかった。
家族だからという理由で、死んだあとまで評価を上げなければならないのだろうか。
「だって、事実だし」
「事実でも」
小田は、言い方を探した。
「お父さんのことは、残念だったと思うし。関係が、あんまりよくなかったのかもしれないけど」
かるたはルーの箱を見た。
〈八皿分〉。
小田は続けた。
「家族だし、血は水より濃いっていうし。全然、愛情がなかったわけじゃないんじゃないかな」
普通の家で育った人間が、普通の慰め方をした。
悪意はなかった。
むしろ、かるたを傷つけないように、慎重に選んだ言葉だった。
それが分かった。
分かったから、何も言えなかった。
父が髪をつかんだ手。
ドライバーを渡した手。
耳を殴った手。
ねじを締めるとき、壊れる一つ前で止めろと教えた手。
同じ手だった。
愛情があったのかもしれない。
あったとして、それが何なのか。
答えれば、小田がさらに困る。
かるたは、小田が言ったことを聞かなかったように、話を変えた。
「小田の父親って、どんな人?」
小田は一度、かるたを見た。
話を逸らされたことには気づいたらしい。
戻さなかった。
「うーん」
鍋へルーを入れ、溶かしながら答えた。
「大学で働いてる。非常勤」
「先生?」
「授業もするけど、研究の方が中心。任期付きの研究員みたいなのと、非常勤講師を掛け持ちしてる」
「何の研究?」
「爬虫類の行動。もっと細かく言うと長くなるし、僕も正確には説明できない」
小田はテレビ横の飼育ケースを見た。
ヤモリは、さっきと同じ枝にいた。
「だから、あれ?」
「半分は趣味。研究対象とは違うらしいけど、生き物なら何でも飼いたがるから」
「儲かるの?」
「全然だね」
小田は即答した。
「研究職って、今は終身雇用みたいなの、なかなかないから。契約が切れたら次を探さないといけないし、給料も多くない」
「じゃあ、何で続けてんの」
「好きだからじゃない」
簡単に答えた。
「あと、学生の面倒見るのも好きみたい。卒論とか、授業の質問とか。夜まで大学にいるときもあるけど、授業が少ない時期は家にいるし、休みも普通の会社より動かしやすいから」
小田は味見用の小皿へ、カレーを少し取った。
「母さんが忙しいときは父さんが家のことする。僕が小さい頃も、学校の送り迎えはだいたい父さんだった」
「へえ」
「夏休みとか、研究会で海外へ行くときは、連れていってもらったこともあるよ。母さんの休みが合えば、途中から来たり」
「海外って、どこよ」
「オークランドとか。あとは、シンガポール。一回だけだけど」
低収入で、不安定で、自分の好きなことを優先している。
言葉だけを並べれば、父と似ている部分があった。
けれど、小田の父親は家にいた。
子どもの送り迎えをした。
妻の仕事が忙しいときは家事をした。
休みの日には家族を外へ連れ出した。
自分が優先したいものと、家族が必要とするものを、同じ生活の中へ置いていた。
上手に。
誰かへ恩を着せることもなく。
小田の母親は、その人を信頼して、家を任せていた。
だから遠くで働ける。
この家は、役割が普通と逆なのではなかった。
役割が動いても、壊れないようにできていた。
機能している。
その言葉が、頭へ浮かんだ。
かるたの父は、自分が父親であるという形だけを守っていた。
金を入れる。
命令する。
悪いことをした子どもは殴る。
家族らしい規則を、どこかで見たとおりに並べていた。
中身がなくても、外からは家庭に見えた。
張りぼてだった。
「じゃあ、母親はどんな人なの」
かるたは訊いた。
小田は味見をして、少し水を足した。
「母さん?」
「うん」
「よく分からない」
「母親なのに?」
「母親でも、全部分かるわけじゃないだろ」
もっともだった。
小田は火を弱めた。
「強い人だとは思う。さっぱりしてるというか。細かいことにはあんまり口出さない」
「放任?」
「父さんを信用してるからだと思う」
小田は少し考えた。
「でも、何か相談すると、父さんより客観的に見てくれる。父さんは、やりたいならやればいいってすぐ言うから」
「いいじゃん」
「いいけど、たまに現実的じゃない」
「母親は?」
「何が必要かとか、失敗したらどうするかとか、先に整理する。そのうえで、本当にやりたいなら、やってみればって言う」
背中を押してくれる。
小田は、最後だけ少し小さな声で言った。
照れたらしかった。
「何か、変かな」
「何が?」
「父さんが家にいて、母さんがほとんどいないって言うと、うち、普通と逆みたいに言われるから」
かるたには、何が問題なのか分からなかった。
家にいる人間が飯を作る。
稼げる人間が働く。
相談したい内容によって、相手を選ぶ。
よほど普通に見えた。
「別に。機能してんならいいんじゃね」
「機能?」
「いや、何でもない」
小田は首を傾げた。
それ以上は訊かなかった。
カレーができた。
小田は炊飯器を開け、米の残量を確かめた。
「味見る?」
「ピーナッツ入ってない?」
「僕に食べさせないつもり?」
「家主より先に死にたくないし」
「死ぬのは僕の方だよ」
「そうじゃん」
小田は小さい皿へ、ご飯とカレーを少しだけよそった。
かるたは食卓へ座った。
椅子の高さが、自分の家と違った。
正面の壁には、家族写真が何枚か貼られていた。
海。
動物園。
空港。
小田より背の低い女の子。
細身の父親。
スーツ姿の母親。
どの写真でも、全員が同じ方向を見ているわけではなかった。
それでも、一枚の中に収まっていた。
「そんなことより」
小田が向かいへ座った。
「留学のこと、本当に興味湧いてるの?」
スプーンを持ったまま、かるたは顔を上げた。
「嫌味で聞いてるわけじゃないよ」
小田は急いで付け足した。
「何か、向こうでやりたいこととかある?」
「まあ、あるっしょ」
「何」
訊かれると思っていなかった。
「英語」
「それは、留学したら大体みんなやる」
「外国の文化」
「面接の答えじゃなくて」
小田は少し笑った。
「ワカティプ・ハイスクール、冬は放課後にスキー場へ行くプログラムがあるらしいよ。毎日じゃないけど、選択したらバスで連れていってもらえる」
「マジで?」
「調べてないの?」
「これから調べようとは思ってた」
「あと、アウトドア系の授業が多い。山の安全管理とか、湖の水質調査とか。君が興味あるかは知らないけど」
小田は、自分が行くはずだった場所について話し始めた。
クイーンズタウン。
湖。
山。
冬のスキー場。
観光客の多い町。
学校から少し歩けば、ワカティプ湖が見えること。
「クイーンズタウンには行ったことないけど、オークランドなら、父さんの研究会についていったことある」
「ニュージーランド行ったことあんの?」
「北島だけ。クイーンズタウンは南島だから、全然違うと思う」
「何食った?」
「最初に食べ物?」
「大事じゃん」
小田は、ベイカリーではいろんな種類のパイがあってそれが名物なこと、ウニがキナ(kina)とよばれ珍味として食べられること、ボイズンベリー(boysenberries)、ホーキーポーキ(Hokey pokey)と聞いたこともないフルーツとアイスクリームの話をした。
かるたは笑った。
質問もした。
向こうのコンビニ。
気温。
英語の聞き取り。
飛行機の時間。
小田は答えられることを答え、知らないことは知らないと言った。
小田にとって、留学はすべてではなかったのかもしれない。
そう思った。
良い挑戦。
行ければ嬉しい。
行けなくても、今の生活が終わるわけではない。
家族もいる。
幼馴染もいる。
研究したいこともある。
来年もある。
それなら、自分が行っても。
そこまで考えたところで、別の考えが入った。
小田が留学を良い挑戦程度に捉えていること自体が、過去を変えた結果なのではないかと。
以前の小田は、一年前から準備していた。
湖沼生態系と海洋環境をつなげたいと話した。
採水方法も、現地の授業も、帰国後の進路も調べていた。
選ばれたとき、息を吸っていた。嬉しそうだった。
今の小田も調べている。
けれど、それは自分が行くから教えるためなのか。
自分が行くはずだった頃の知識が残っているのか。
どちらなのか分からない。
妹がいることは知っていた。
年齢は知らなかった。
母親が働いていることも、父親が大学にいることも、かるたは知らなかった。
知らなかったから、変わったかどうか確かめられない。
この家の当番表。
水槽。
ヤモリ。
幼馴染。
父親の不安定な仕事。
母親の単身赴任。
小田がオークランドへ行った記憶。
どこまでが、最初からあったものなのか。
自分が「小田が家庭の事情で辞退した」と押したとき、世界は、その理由を成立させるために何年前まで戻ったのか。
母親の異動だけを作ったのか。
妹の進学時期を動かしたのか。
父親の勤務先を変えたのか。
家族の役割を組み替えたのか。
小田自身を、家族のために留学を諦められる人間へ変えたのか。
それとも、この家は最初からこうだったのか。
かるたには分からなかった。
小田が話している。
学校のサイトに載っていた写真。
冬の気温。
山道で必要な靴。
現地で選べる授業。
声は聞こえている。
意味も分かる。
かるたは興味があるように相槌を打った。
「それ、向こうで買った方が安い?」
「物によると思う」
「スキーとかやったことないけど、死なん?」
「普通は死なないとおもうけど」
「普通じゃなかったら?」
「やべえ奴が来たって伝説になるかもね」
小田が笑い、かるたも笑う。
笑いながら、身体の中心だけが冷えていった。
自分は、小田から留学を取った。が、それだけではないかもしれない。
あり得た家庭を壊したのではなく、あり得なかった家庭を作ったのかもしれない。
どちらの方が悪いのかも分からない。
今の家は温かかった。
だから、よかった。
小田なら、これからもやっていける。
家族がいる。
友達もいる。
留学は最優先ではなかった。
自分の方が、ここから逃げる必要があった。
全部、都合のよい考えだった。
小田が傷ついていないと決めれば、自分が傷つけなかったことになる。
今の小田が幸せそうなら、消えた小田の望みを考えなくてよい。
誰も改変前を覚えていない。
誰も、自分が何をしたか知らない。
証拠もない。
言わなければ、ばれない。
そう考えた瞬間に、少しだけ安心した。
安心してしまったことへ、吐き気がした。
自分が何をしたかより、ばれるかどうかを先に考えている。
殺したいと思った。
誰を、とは考えなかった。
自分を。
世界を。
これ以上考える自分の頭を。
何もかもを。
考えは一つの形にならず、同じ場所を何度も通った。
小田は平気だ。
平気かどうか分からない。
家族は温かい。
その家族を自分が作ったのかもしれない。
作ったなら、よくしたのかもしれない。
人の過去を勝手に変えておいて、よくしたと思うのは最低だ。
でも、誰も困っていない。
困っていた小田が消えただけかもしれない。
消えたなら、今はいない。
いない人間へ謝る方法はない。
謝れないなら、仕方がない。
仕方がないと思う自分を、今すぐ消したい。
気づいたときには、皿が空になっていた。
いつ食べたのか、ほとんど覚えていなかった。
小田のスマートフォンが震えた。
画面を見た。
「父さん、あと十五分ぐらいだって」
「妹も?」
「うん」
かるたは立ち上がった。
「じゃあ、帰るわ」
「会っていけば?」
「いや。母さんに帰る時間言ってるから」
言っていなかった。
小田は引き止めなかった。
玄関まで来た。
かるたは靴を履いた。
「今日、ありがとな」
「別に。じゃがいも削っただけだけど」
「効率化な」
「次からは普通に皮だけ剥いて」
次があるような言い方だった。
かるたは返事をせず、笑った。
玄関の扉を開けた。
外は、もう暗くなり始めていた。
水槽の濾過器の音が、扉を閉める直前まで聞こえた。
道路へ出ると、角の向こうから車のライトが近づいてきた。
小田の父親かもしれない。
妹も乗っているのかもしれない。
かるたは顔を合わせる前に、反対方向へ歩いた。
早足になった。
走るほどではなかった。
ただ、追いつかれない速さで歩いた。
服には、カレーと、知らない家の匂いが付いていた。
水。
土。
小田の家の匂い。
それが最初から存在していたものなのか、かるたが作った過去から生まれたものなのか、確かめる方法はなかった。
匂いだけは、どちらでも同じだった。




