混乱・親不孝・自分勝手
目を覚ましたとき、スマートフォンは十三時四十七分を表示していた。
朝は、もう終わっていた。
カーテンの隙間から入った光が、床の途中まで移動している。
制服は椅子の背に掛かったまま。
鞄は机の横。
昨日、母が店から持ち帰った留学関係の資料は、赤、青、緑の付箋を付けられ、机の端へ積まれていた。
部屋は、昨日までと同じだった。
かるたは布団の中でスマートフォンを開いた。
小田とのメッセージ履歴を、もう一度見る。
二月二十六日。
〈家庭の事情で辞退することにした〉
その下に、自分から送られた返信がある。
〈マジか。残念だね〉
〈じゃあ俺ワンチャンある?〉
自分の言葉だった。たしかに書きそうな言葉だった。
それでも、書いていない。
履歴を上へ戻った。
留学の問題集。
面接の練習。
小田が直した英文。
かるたが送った、意味のないスタンプ。
そこまでは記憶どおりだった。
二月二十六日だけが、知らない自分によって書き足されている。
過去を変えた。
たぶん。
そう考えれば、昨日の出来事には説明がついた。
小田が選ばれた。
自分が、小田が辞退したことにした。
その過去から今までが、最初からそうだったようにつながった。
けれど、それなら、いま布団にいる自分は何なのだろう。
メッセージを送った自分。
母から小田の辞退を聞いた自分。
次席になったと知って、喜んだかもしれない自分。
その自分が過ごしたはずの十日間を、かるたは一秒も覚えていない。
この世界の自分ではない。
そう思った。
思った途端、部屋のものが急に他人の持ち物に見えた。
机の傷。
剥がれかけた壁紙。
カーテンの裾についた黒い汚れ。
押入れの二段目へ押し込んだ父の工具箱。
どれも知っている。
どれも、自分がここで暮らしてきた証拠だった。
母との関係も変わっていない。
父は死んだまま。
階段の手すりには、新しいねじが入っている。
薬は一回分ずつ分けられている。
冷蔵庫には、母の字で食べる順番が書かれている。
世界が変わったなら、もっと変わっていてもよかった。
何も変わっていないなら、小田の辞退だけが存在する理由が分からない。
かるたは両手を見た。
昨日、世界へ触れたときの感覚を思い出そうとした。
机の上にあったもの。
紙ではないもの。
まだ決まっていない世界の内側。
触れられると思った。
押せると思った。
実際に押した。
目を閉じ、同じことをしようとした。
机の位置を変える。
カーテンを閉じたことにする。
スマートフォンの時刻を、十三時四十七分ではなく、朝の七時にする。
小田が選ばれたことに戻す。
何も起きなかった。
指先には布団の感触しかない。
今の自分は、傍から見たら布団の中で両手を挙げているだけで、滑稽に見えていることは理解できた。
耳の奥で圧力も変わらない。
世界は固かった。
昨日の自分が何をしたのか、もう一度やって確かめることもできなかった。
それなのに、自分がニュージーランドへ行くことだけは決まっていた。
行く。自分が。一年間。
選考結果確認書には、自分で署名した。
母は喜んでいた。
学校も受入校も、かるたが来るものとして手続きを進める。
あとほんの二十三日で出発する。
冷たい汗が、脇から背中へ流れた。
自分が行ってよいはずがなかった。
小田が準備していた。
小田が勉強していた。
小田が選ばれた。
自分は、それを取った。
そんな人間が留学へ行って、何を学ぶのか。
現地で笑っている写真でも撮ればよいのか。
帰国して、「マジで良い経験になりました★」、と作文へ書けばよいのか。
選ばれたふりを、一年間続けるのか。
呼吸が浅くなった。
肺へ空気が入っているのに、身体の中まで届かなかった。
玄関の鍵が開いた。
かるたは顔を上げた。
誰もいなかった家へ、靴音が入ってくる。
扉が閉まった。
鍵を置く音。
母だった。
現実の音だった。
かるたはスマートフォンを伏せた。
母は階段を上がり、返事を待たずにドアを開けた。
作業着の上へ薄いジャンパーを羽織っている。髪には、切り抜いた看板用シートの細い破片が付いていた。
「なんだ、あんた起きてるやん」
「うん」
「学校から電話あったけど」
母は部屋の時計を見た。
「まだ来てないって。何してるの」
「寝てた」
「見たら分かる」
母は怒鳴ってはいなかった。
仕事を中断して戻ってきた人間の声だった。
「あんた昨日、寝たの何時?」
「知らない」
「薬は飲んだ?」
「飲んだ」
「じゃあ何でこんな時間まで寝てるの」
「寝れなかったから」
「寝られなかったなら、朝の時点で学校か私に連絡よこしなさいよ」
かるたは返事をしなかった。
「連絡ぐらいできるでしょう。留学が決まった翌日に無断で休むって、学校からしたらどう見えると思う?」
「…別に、一日ぐらい」
「一日ぐらいの話をしてないの。決まった途端に気が緩んでると思われるでしょうって言ってる」
母は机の上の資料を確認した。
昨日と同じ順番で積まれているかを見るように、端を揃えた。
「あと三週間しかないんだよ。荷物もいるし、向こうへ出す書類もある。英語だって、選ばれたから終わりじゃないでしょう」
「分かってるって」
「分かってる人が、学校にも連絡しないで昼まで寝る?」
「寝れなかったって言ってるじゃん」
「だから、最初からそう言いなさいって」
同じ場所を回っている。
かるたは布団を蹴った。
「もういいって」
「何がもういいの」
「うるさい」
母の手が止まった。
「いま、私に怒るところ?」
「帰ってきて早々ずっと言ってくるからだろ」
「学校から、あんたが来てないって連絡があったから帰ってきたの。電話にも出ないし、また公園かどこかにいるのかと思った」
「頼んでない」
「頼まれなくても確認するよ。親なんだから」
親だから。
その言葉は、鍵の掛かる音に似ていた。
「せっかく留学に行けることになったんだから、今度こそちゃんとしなさい。向こうへ行ってから、寝られませんでした、気分が悪かったです、だから連絡しませんでした、では通らないよ」
「分かってる!」
声が裏返った。
母は眉を寄せた。
「ぜんぜん分かってないから言ってるんでしょうが」
「もう言わんでええって!」
「そうやって怒鳴れば話が終わると思わないの。海外じゃ、知らない子どもが癇癪を起こしても、いちいち事情を察して待ってはくれないよ」
知らない子ども。
母の口から出ると、自分のことではないように聞こえた。
「ここでは私が相手をしてるから、怒ったり黙ったりしても最後まで待ってもらえるけど、向こうで同じことをしたら、ただ印象の悪い子になるんだからね」
母は間違ったことを言っていなかった。
連絡は必要だった。
学校へ行くべきだった。
留学前に英語を勉強するべきだった。
他人へ当たり散らすべきではなかった。
全部、分かった。
分かることと、受け取れることは違った。
母の声は聞こえている。
言葉の意味も理解できる。
ただ、自分へ話しかけられている感じがしなかった。
母との間に、透明なビニール袋が一枚ある。
音だけが膜を通って届く。
身体が、自分より半歩後ろにいる。
手を動かすと、遅れて指が付いてくる。
母は正しい。
正しい母の言葉を受け取れない自分が悪い。
恩知らず。
英語なら、ungrateful。
母は子ガチャを外したのかもしれない。
そう考えた。
すぐに、違うと思った。
自分が親ガチャを外した。
それも違う。
もっとひどい家庭はいくらでもある。
食事はある。
学校にも通わせてもらっている。
必要な金なら、母は働いて出す。
殴られるとしても、毎日ではなかった。
父はもういない。
こんなことで耐えられない自分が弱いだけだと。そう世界が言っている。
それでも嫌だった。
何が嫌なのかは、説明できなかった。
説明できなければ、存在しないのと同じだった。
身体の中に溜まったものが、出口を見つけられず、内側から腐っていく。
暴れたかった。
机を倒したかった。
資料を破りたかった。
母の整えた付箋を、全部剥がしたかった。
そうすれば、母は冷たい目で見る。
あるいは、また警察へ説明できるように、落ち着いた声で腕をつかむ。
どちらにしても、自分だけがみじめになる。
かるたは髪をつかんだ。
強く引いた。
頭皮が痛んだ。
「やめて」
母が言った。
かるたはもう一度引いた。
「やめなさい。何してるの」
「やめてくれ」
「何を」
「もう、一人にしてよ!」
母が一歩近づいた。
手を伸ばしかけ、止めた。
前に警察を呼ばれたときのことを、覚えているらしかった。
「急に何なの。髪を引っ張ったって、何もよくならないでしょう」
「分かってる!」
「分かってるならやめなさい」
「だから、もう喋らないで!」
「あのさ、なんか状況が悪くなったならまだ分かるけどね」
母は本当に分からない顔をしていた。
「状況はよくなったんじゃん。あんたがあれだけ行きたがってた留学にも行ける。欲しかったものが手に入ったのに、何でこんなことするの」
何かが切れた。
声にする言葉はなかった。
喉から、これまで出したことのない音が出た。
高くも低くもない。
人の声になる前に壊れた音だった。
母が身体を引いた。
かるたは布団を蹴り飛ばして立ち上がった。
母はベッドとドアの間にいた。かるたが近づくと、ぶつかるのを避けるように半歩ずつ後ろへ下がった。
「ちょっと、何よ」
母の背中がドア枠を越えた。
かるたはそのまま母の肩を押しのけるようにして戸口まで進み、母が廊下へ出た瞬間、自分だけ部屋の中へ戻った。
ドアを閉め、鍵を掛けた。
「かるた!」
ノブが回った。
「開けなさい」
かるたは床に落ちた服を拾った。
下着。
シャツ。
パーカー。
順番はどうでもよかった。
脚を通し、袖へ腕を入れ、鞄へ財布とスマートフォンを突っ込んだ。
「何してるの」
母がドアを叩いた。
「開けて。何するつもり?」
返事をしなかった。
ノブの中央へ、硬いものを当てる音がした。
外から簡易錠を開けようとしている。
「部屋に閉じこもったって、なんの解決にもならんでしょう。冷静になりなさい」
冷静。
その言葉で、もう一度叫びそうになった。
かるたは鞄の肩紐を握った。
ここで叫べば、母は入ってくる。
また腕をつかまれる。
警察。
児童相談所。
病院。
記録。
留学が止まる。
小田から取ったものまで、失う。
呼吸を止めた。
一度、目を閉じた。
次に開けたときには、顔から力を抜いた。
鍵を開けた。
母が、ノブへ硬貨を当てた姿勢のまま止まった。
かるたは普通の声を作った。
「着替えてただけ」
「は?」
「昨日、全然寝れなくて、朝からもうイライラしてたところに、立て続けにいろいろ言われたから、もっとイライラして、あんまりしゃべる気にならんかっただけ。」
完全な嘘ではなかった。
完全な本当でもなかった。
母は硬貨を下ろした。
「じゃあ最初から冷静に、着替えるから、とか言えばいいじゃない。いきなり叫んで扉閉めても伝わらないわよ」
胸の中で、何かがまた暴れた。
かるたは両手を背中へ回した。
片方の手で、反対の手首を握る。
爪を立てた。
皮膚へ食い込む痛みだけを、数えられる強さにした。
「ごめん、ごめん」
口だけが言った。
謝罪ではなかった。
これ以上壊されないための言葉だった。
「小田に会ってくる」
「いまから?」
「うん」
「学校は?」
「もう終わるくらいだから、外で待つ」
「何のために」
「昨日のことあるし。あいつのこと、ちょっと心配だから」
それは嘘ではなかった。
何を心配しているのかを言っていないだけだった。
母は、かるたの顔を見た。
さっきまで叫んでいた人間が、急に普通に話していることを不自然に思っている。
それでも、問い詰めなかった。
「学校には連絡して」
「する」
「小田くんにも、先に連絡しなさいよ」
「分かった」
「帰る時間も」
「分かったって」
声が少し強くなった。
母の眉が動く前に、かるたは玄関へ向かった。
靴を履いた。
鍵を持った。
「心配しなくていいから」
言い残し、外へ出た。
玄関の扉が閉まった途端、涙が出た。
家の近くにいる間は拭かなかった。
しばらくたって、袖で顔をこすった。
止まらなかった。
悲しいのか、怒っているのか分からない。
どちらも強すぎて、区別する意味がなかった。
悪いとは思っていなかった。
学校へ連絡しなかったことではない。
母へ叫んだことでもない。
母に謝ったことについて、自分が悪いとは一つも思っていなかった。
謝らなければ家から出られなかった。
それだけだった。
理不尽だった。
不正義だった。
母の言うことが正しいほど、何も言い返せない自分だけが悪いことになる。
歩きながら、手首を握った。
痛みが強くなるまで力を入れ、耐えられなくなると緩めた。
少し歩く。
また握る。
胸の内側にあるものが消えないと、今度は拳で胸を叩いた。
一度。
二度。
息が苦しくなるまで繰り返し、咳が出ると止めた。
通行人が来ると、スマートフォンを見ているふりをした。
誰もこちらを見ていない場所を探した。
駅から外れた小さな公園に、公衆トイレがあった。
子どもはいなかった。
遊具の近くに、飲みかけの紙パックが落ちている。
かるたは男子トイレへ入り、一番奥の個室の鍵を掛けた。
便座の蓋を下ろして座った。
声を抑えようとした。
抑えるほど、喉の奥から変な音が漏れた。
袖口を噛んだ。
手首を握った。
胸を叩いた。
髪を引いた。
どれも何も解決しなかった。
痛みがある間だけ、考えるものが一つになった。
痛みが薄れると、母の言葉が戻ってきた。
欲しかったものが手に入ったのに。
そのたび、また痛くした。
「もう勘弁してよぉ…」
情けない声でつぶやいた。
何度繰り返したのか分からなかった。
泣き疲れても、涙は少しずつ出続けた。
トイレへ人が入ってくるたび、息を止めた。
小学生らしい声。
清掃員の道具が床を擦る音。
老人の咳。
誰も個室を叩かなかった。
スマートフォンの時刻だけが進んだ。
十四時十二分。
十四時五十九分。
十五時三十八分。
学校が終わる時間になった。
かるたは洗面台で顔を洗った。
目の周りは赤かった。
冷たい水を何度か当て、前髪を下ろした。
手首は袖で隠した。
鏡の中には、朝と同じ顔があった。
世界が変わっても、泣いたあとの顔は変わらなかった。
学校の正門までは行かなかった。
生徒に見つかれば、今日休んだ理由を訊かれる。
一本外れた道路の、自動販売機の横に立った。
小田へ連絡はしなかった。
何と送ればよいか分からなかった。
昨日、本当に辞退したのか。
俺が何かしたと思わないか。
お前が行くはずだった世界を覚えていないか。
どれも送れなかった。
校舎から、下校を知らせる音が聞こえた。
少しして、制服姿の生徒が校門から流れ出した。
かるたは自動販売機の陰へ半分隠れた。
透明な書類入れ。
一本だけ短い、黄色い星。
それだけを探した。




