◆《特別番外編⑥》 石像夫人の微笑み(1)
長らく更新していませんでしたが、アンケートを見て久し振りに無性に書きたくなりました!結末決めずに見切り発車(笑)
■リクエスト内容『シュレイザーの恋のお話。やられっぱなし陛下の逆襲……も?』
「ふう……」
バルコニーに出たシュレイザーは、少し疲れたように重いため息をついた。
ヴァンパイア王国とオンディーヌ国との会談後の交流会。
王の右腕である彼にとって、いかに華やかなパーティーであろうと単なる仕事。美酒も美味い料理もほとんど口にせず、美しい女性らを尻目に、ただむさくるしい男どもと堅苦しい政治話をするだけ。
そんな日々をもう、何百年続けて来ただろうか。
シュレイザーは黒革の手帳を持つ手に力を入れた。
だが、この仕事を嫌だと思ったことはない。辞めたいなどとも思わない。
ただ少し、安息の場というものが欲しいと思うことはあった。
“あの王のように”
ちらりと見れば、ソフィアにべったりとくっついて離れようとしない王は、とても幸せそうで、穏やかな表情をしていた。
彼女と出会ってからあの王は、心に空いていた穴を埋めることができたのだ。一番身近にいた自分にはそれが分かる。彼女には、感謝してもしきれない。一時は自分でも手が付けられないほど荒んでいた時期もあったが、もうそうはならないだろう。決して。
顔を正面に戻すと、ふいに人影が、まるでカーテンから差し込む月明かりのごとく静かにバルコニーに下りてくる気配を感じた。
床に触れそうなほど長いドレスの裾が、緩やかに動くヒールの先を触っていた。
彼女は自分と同じようにバルコニーの手すりに白い手を重ねるように置き、顎を上げて星空を見つめる。
人間でいえば、年の頃は三十の半ばほどであろうか。
まるで噴水に置いてある白い像のような、ハッとするほど端麗な顔立ちであった。
しかし、どこかとても疲れているように見えた。そしてそれは、自分のようにこのパーティーのせいではない気がする。
憂う彼女の横顔を、風に靡く柔らかな髪の先が撫でていた。
「お前が呆けているとは珍しいな、シュレイザー」
不覚にも鋭く肩が反応してしまった。持っていたグラスの中身がポチャリと音を立てる。
どれくらい長い時間、意識を飛ばしていたのだろう。それほど長くはないと信じたいが。
「少々疲れが出てしまったもので、陛下。すぐに戻ります」
「いや、いい」
王は美しくも小憎たらしい笑みを浮かべながら、マジマジと漆黒の瞳でこちらを見つめる。かと思えば、その視線の先はすんなりと先ほどの女性の元へと注がれた。
少々幼稚で頑な面があるだけで、自分が仕えるこの貴人は基本的に鋭い。
「ほう、アークライト夫人か」
王の双眸が愉快そうに細められる。居心地の悪さがシュレイザーを包んだ。
“夫人”
つまりは既婚者。
それを聞いた瞬間、シュレイザーは吸った空気が重く感じられた気がした。それを微塵も表には出さぬが。
「やはりお前は熟女が好みらしいな」
「人間で言えば三十の半ば。熟したというにはまだまだ早いでしょう」
「……本物か」
「なんのことです」
「いや……。彼女は病で夫を亡くして独り身ではあるが、やめておいたほうがいい」
王はそう言うと、持っていたグラスを空けて、傍を通ったウエイターのミイラにそれを引き取らせた。
「あの美貌だ。当然お近づきになりたがる男は大勢いる。だが、彼女は頑なにそんな男どもを拒んできた。どれほどの男にアプローチされても、表情を動かさない。微笑みさえ浮かべない。おかげでついたあだ名が“石像夫人”。確か夫を亡くしたのはもう五十年も前になるが、それでも彼女はまだ、その亡き夫を想い続けているらしい」
それはとても美しい恋物語なのかもしれないとシュレイザーは思った。
だが、辛くないはずはない。
彼女を纏う憂いのオーラの元は、きっとそこにあるのだろう。
「石像夫人……ですか。随分とお詳しいんですね、私が知らぬと言うことは、このような公的な場に姿をお見せになったことがない方でしょうに」
「勘ぐるな。興味があるのはむしろ――」
「陛下、お久しぶりです」
若い女の持つキンとした響きの抜けた、落ち着きのある声がふわりと鼓膜を抜ける。
「これはこれは。お久しぶりです、アークライト夫人」
そう言った王と共に振り返ると、彼女がそこにいた。
「私が御国へ赴いた際、偶然お見かけして以来でしょうか」
「ええ」
王は夫人の白い手を取ると、身を屈めてその甲に恭しく口づけた。
近くで見れば、思った以上に華奢な体つき。見る人が見れば“やつれている”とも取れるであろうが、そういう不安定さには色気が伴うものであった。
「それとこれはシュレイザー。私の秘書官です」
「初めましてシュレイザー様」
彼女は一瞬目を合わせただけで、すぐに俯くと、軽く膝を折って表面的な挨拶をした。
愛想がないというより、他人に微笑む気力が削がれているように見えた。
「夫人、以前仰っておられた新たな孤児院や学校建設のお話は順調ですか」
アークライト夫人の大きな瞳に、光が宿る。
「覚えていてくださったのですね、陛下。おかげさまでもういくつも建設されております」
「救われた子どもたちは、きっと将来あなたに感謝するでしょう」
「ありがとうございます。ですが、わたくし一人の成果にございません。陛下もこのたびの会談にて、我が国に支援金の提供を約束して下さったと聞き及んでおります」
夫人の言葉には少し訛りがあったが、その独特な語調に胸をくすぐられる。
しかし、気になることがあった。
彼女は時折、王に向かって微笑を浮かべているのだ。
笑わない人ではなかったのか。だからこそ石像夫人などと。
相手が国王だから?
話の内容のせい?
それとも――
「私は元々そのような福祉事業に興味はありませんでしたが、ソフィア……“妻”が」
瞬間、夫人の瞳の光が小さくなっていくのが傍目にも分かった。
「そうですわ、陛下……ご結婚……なさったのでしたね」
「ええ。半年前に」
「遅ればせながら、お祝い申しあげます。おめでとうございます……。ソフィア様、素晴らしいお妃様ですのね」
張り裂けそうな、懸命に取り繕ったような健気な笑み。
彼女はこの王を好いていたのか。興味があるのは彼女の方。
ちらりとこちらを見やった王の勝ち気な顔が、無性に神経を逆なでた。
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「お坊ちゃま」
「いい加減お坊ちゃまは止めて下さい、バーネットさん。そんな年ではありません」
「申し訳ございません、お坊ちゃま」
朝の出かける前のひととき。
何百回とこのやりとりをしているが、この腰の曲がった白眉の執事が呼び方を変えることはない。シュレイザーはやれやれと軽く肩を竦めた。
玄関へ向かえば、その執事も年相応の緩やかな歩調でついてくる。普段でこそ、その辺にいる老人のような、干からびた体に合った所作振る舞いをするのだが、現役時代だった五百年前程前は若きドラゴンファイター(現在は廃止されている)として腕を鳴らしていたらしい。
いざというとき彼は、驚くほど俊敏で力強い動きをしてみせることをシュレイザーだけが知っていた。
「こうしてお坊ちゃまをお見送りをさせていただきますことはまことに光栄ではございますが、やはり一人というのは寂しゅうございます」
彼は執事役を増やして欲しいと言っているのではない。この老いた忠実な執事は、“奥様”と呼べる存在を求めているのだ。
シュレイザーは嘆息する。
「私にそのようなことを言っても無駄です、バーネットさん。私にとって一番大切なのは、この国とそれを統べるあの王であればいい」
「以前お越しになった、あの若いどこぞの国の姫様などは――」
「行ってきます。今日はそう遅くはならないでしょう」
「承知致しました。行ってらっしゃいませ、お坊ちゃま」
その存在がこの家にやってくるまできっと、あくまで彼は自分をお坊ちゃまと呼び続けるのであろう。
玄関の扉が閉じられるとすぐ、シュレイザーはまた小さくため息をついた。