第6話 背徳は最高の美味
閉店間際の文具店で買ったのは、のど飴とウェットティッシュと電池だけだった。
どれも今すぐ必要というほどではない。
文具店の女は、そのへんスーパーのほうが安いよと言った。亮介は「分かってます」と答えた。
ただ、家に帰る前にどこかへ一度寄って、仕事帰りの流れを切らないと、そのまま部屋へ戻るのがしんどかった。
いきなりコンビニへ入ると、そのまま食うためのものばかり籠に入れそうだった。
だから亮介は、商店街の端に残っているあの文具店へ先に入って、急ぎでもない実用品を三つだけ買った。
文具店を出てから、篠塚亮介は駅前のコンビニに入った。
そこで初めて、今夜を終わらせるための食い物を選び始めた。
ビールを二本。
カップ焼きそば。
おにぎりを二つ。
唐揚げ。
ポテトチップス。
レジ横のチーズ鱈。
迷ってから、プリンも入れる。
食いすぎだろ、と自分でも思う。
思うが、その「思う」は手を止めるほど強くない。
むしろ、これくらい罪深いほうがいい、とすら思う。
油。
塩。
糖分。
酒。
体に悪そうなものが並ぶほど、今夜はこれで沈めるのだ、という感じが少しだけ出る。
亮介は三十一歳で、広告代理店に勤めている。
勤めている、と言うと整って聞こえるが、実際には毎日なんとかしがみついているだけだ。営業寄りの部署で、クライアント対応と社内調整の真ん中にいる。数字も追う。愛想も使う。社内では下から突かれ、上から急かされ、クライアントには夜でも返事が遅いと言われる。
ひとつひとつなら、そこまで特別にきつい仕事ではないのかもしれない。
だが、それが毎日重なると、人は少しずつ擦り減る。
昼間の亮介はだいたい笑っている。
笑ったほうが早く済むからだ。
電話でも、メールでも、打ち合わせでも、とりあえず感じのいい人間の顔をする。先方の苛立ちを受けても、一度飲み込んで整理して返す。社内では、ちょっと面倒を頼みやすい人間の一人に分類されている気がする。自分でもそういう空気を使ってしまう。使ったほうが、その場は回るからだ。
でも、回ることと削れないことは別だった。
レジで会計をしているとき、後ろに並んだ高校生らしい二人組が、ちらっとこちらの籠を見た気配がした。
亮介は見ないふりをする。
みっともない食い方をする大人なのだろう。
それもまあ、その通りだった。
部屋に帰ると、ネクタイを外すより先にテーブルへ袋を置いた。
靴を脱ぎ、シャツのボタンを二つ外し、冷蔵庫を開ける。水を一口飲む。そこまでやってから、ようやく一息ついた。
食う前の一瞬だけ、少し空腹がきれいに感じる。
もうすぐ静かになる、という予感があるからだ。
ビールを開ける。
まず一口。
冷たさが喉を落ちていく。
次に唐揚げ。
レンジで少し温める。
熱くなりすぎないうちにかぶりつく。
塩気。
油。
肉の繊維。
咀嚼する。
飲み込む。
それだけで、昼間からずっと頭の内側に貼りついていた細かな声が少し遠のく。
クライアントの修正依頼。
部長の「これ今日中に返せる?」
後輩の確認不足。
打ち合わせで笑いながら言った適当な相槌。
無理な納期を「調整します」と受けてしまった自分。
そういうものが、まだゼロにはならないまでも、咀嚼のリズムに合わせて少し鈍る。
亮介は焼きそばにも湯を入れた。
唐揚げ、おにぎり、焼きそば。
ビール。
そのあいだにポテトチップス。
指が油で少しべたつく。
静かだ、と思う。
食べている間だけ、世界は少しだけ静かになる。
誰にも返事をしなくていい。
何かに気を遣わなくていい。
咀嚼して、飲み込んで、喉を通して、胃に落ちていく、その順番だけを追っていればいい。
だからやめられない。
体に悪いことくらい分かっている。
だらしないことも分かっている。
仕事で疲れたからって、深夜にこんな食い方をする三十一歳は、どう考えても褒められたものではない。
でも、これを取り上げられたらたぶんもっと危ない。
酒だけが増えるかもしれない。
衝動買いに走るかもしれない。
壁を殴るかもしれない。
何もせずに布団へ入って、そのまま消えたい気持ちだけが大きくなるかもしれない。
それなら、今のところはいちばんましなのがこれだった。
焼きそばの麺をすすっている途中で、スマホが震えた。
画面を見る。
クライアントからではなかった。
大学時代の友人、江崎だった。
> 金曜だし飲まない?
亮介は麺を噛みながら、少し笑った。
飲みには行けない。
今はもう、外へ出て誰かと話す体力がない。
話すなら、今日一日がまだ生々しいうちじゃなく、少し距離が出てからのほうがいい。
> ごめん、今日ちょっと無理
> また今度
そう返して、スマホを伏せる。
また一口、ビール。
唐揚げの最後の一つ。
おにぎり。
そのあいだに、ポテチをつまむ手は止まらない。
食う順番に美しさはない。
満腹になるためだけの並べ方だ。
それでも、胃が重くなってくると少し安心する。
もうこれ以上、今日のことを細かく考えなくて済みそうだと思える。
金曜の夜はとくにひどい。
週のあいだに溜まったものが、その夜だけ一気に出る。
月曜から木曜までは、なんとか人間らしい範囲に収めているふりができる。昼はサラダを足そうとか、夜は炭水化物を控えようとか、そういう小さな理性がまだ残っている。金曜はだめだ。あれが切れる。
今夜もそうだった。
昼の会議で、部長は亮介の出した提案を「まあ、無難だね」と言った。
否定ではない。
褒めてもいない。
こういう半端な反応が、いちばん身体に残る。
あとからクライアントには「もう少し攻めた案を見たい」と言われ、その火消しも亮介がすることになった。
後輩には「先方、そんなに怒ってました?」と聞かれた。
怒ってるよ、と思う。
でもそこでイライラを出しても仕方がないので、「まあ、ちょっとね」とだけ返す。
そういう返し方ばかり覚えてしまった。
数字も落ちている。
去年より確実に。
上は口にこそ出さないが、見ているのは分かる。
見ているし、今後の並びを考えている。
亮介自身も分かっている。
このままではよくない。
もっと強く、もっと器用に、もっと図太く、もっと切り分けて働ける人間になれたらいいのだろう。
なれないから、こうして食っている。
プリンの蓋を剥がす。
少しだけ傾けて、カラメルが端に寄る。
スプーンを入れる。
柔らかい。
甘い。
その甘さだけで、頭の内側にかかっていた細い緊張がもう一段ゆるむ。
罪深いな、と亮介は思う。
こういう夜に食うものは、たいてい罪深い。
体に悪いほど、だいたい旨い。
背徳感みたいなものまで含めて、ひとつの味になっている気がする。
背徳は最高の美味だ。
少なくとも、今のところは。
食べ終えるころには、胃がしっかり重くなっていた。
満足というより、鈍化に近い。
その鈍さがありがたかった。
テーブルの上には空き容器が散らかっている。
ビールの缶。
ポテチの袋。
唐揚げの容器。
焼きそばのカップ。
プリンの空。
見た目だけなら、ひどい部屋だ。
亮介はそれをしばらく見て、それから一つずつまとめた。
全部を完璧に片づける気力はない。
でも、朝の自分がもう少し嫌にならない程度にはまとめておく。
シャワーを浴びる気にはなれず、顔だけ洗った。
鏡の中の自分は、少しむくんでいる。
当然だと思う。
それでも、食う前よりはましな顔に見えた。
少なくとも、もう今すぐ何かに反応しなくていい顔だった。
翌日、土曜の夕方。
亮介はひさしぶりにバーへ行った。
よく行く店というほどではない。
仕事帰りにたまに寄る、駅裏の細いビルの二階にある小さな店だ。
騒がしくないのがよかった。
酒に詳しいふりをしなくてもいい。
黙って座っていても、店の空気がなんとかしてくれる。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうで、女が笑った。
二十代後半くらい。
髪を後ろでゆるくまとめていて、笑うと距離が一気に近くなる顔をしている。派手ではないのに、目を合わせた相手に「自分は今ちゃんと迎えられている」と思わせるのがうまい。
「お久しぶりですね」
「そうだっけ」
「三週間ぶりくらいです」
そう言って、女はすぐにグラスを置いた。
覚えているのか、覚えているように見せるのがうまいのか、たぶん両方だろうと思う。こういう仕事の人だ、と分かる。分かるのに、少しほっとする。
「仕事、忙しかったですか」
「まあ」
「顔に出てますよ」
亮介は苦笑した。
そうかもしれない。
昨日みたいな夜を越えた顔は、案外隠せていないのかもしれない。
女はそれ以上踏み込まない。
でも、引きすぎもしない。
その距離の取り方が妙にうまかった。
人に好かれるのがうまい人間、というのはいる。
亮介はぼんやりそう思う。
仕事の場にもいるし、こういう場所にもいる。
でもこの女は、単に愛想がいいだけではなく、相手が今どれくらいの温度を欲しがっているのか測るのがうまい気がした。
「何か、食べます?」
「いや、今日はいい」
そう言いながら、カウンターの端に置いてあるミックスナッツへ一瞬目が行く。
女はその目線に気づいたのか、小さな皿へ少しだけ取り分けた。
「サービスです」
「いや、悪いよ」
「こういうのは、ちょっとあるほうが落ち着くじゃないですか」
亮介は少しだけ笑って、皿を受け取った。
ナッツを一粒噛む。
昨夜みたいな暴力的な食い方ではない。
でも、口に何かを入れていると少し楽になる感じだけは似ていた。
女は別の客の注文を受けながら、ときどきこちらへ視線を戻す。
そのたびに、ちゃんとここにいていい気がする。
そう思わせるのが、たぶんこの人はうまいのだ。
危ないな、と亮介は少し思う。
こういう安心に慣れると、人はそこへ意味を乗せたくなる。
でも今は、意味まで欲しくはなかった。
ただ、静かに飲んで、少しだけ人の体温のある場所にいて、それで帰れれば十分だった。
昨夜、文具店でのど飴や電池を買ったときのことを、ふと思い出す。
店番の女は、自分の買い方を見て、たぶん無駄だと思っただろう。
その通りだ。
でも昨夜の自分には、まずああやってどこかに寄って、仕事帰りの流れを切ること自体が必要だった。
今日の自分には、昨夜ほどの量はいらない。
その代わり、誰かに迎えられる感じが少しだけ要る。
人はたぶん、日によって必要な麻酔が違う。
家に帰るとき、コンビニには寄らなかった。
それだけで今夜が健全だとは思わない。
ただ、昨夜ほどはひどくないというだけだ。
冷蔵庫に入っていた水を飲み、ソファへ座る。
腹は減っていたが、今すぐ何かを詰め込みたいほどではない。
バーでもらったナッツの塩気が、まだ少し残っている。
こういう夜なら、なんとか普通に眠れるかもしれないと思った。
亮介はスマホを見た。
仕事の通知は来ていない。
静かだ。
食べることでその日を終える夜がある。
人の気配で少し浮上できる夜もある。
どちらもたぶん、あまり褒められたやり方ではないのだろう。
それでも、何もないよりはずっとましだった。
金曜の夜みたいに、世界を黙らせるために一気に食べる日が、これからもたぶんある。
そのたびに体には少しずつ悪いだろう。
だらしないとも思うだろう。
でも、その時点ではあれが一番ましな麻酔なのだ。
亮介は電気を落とし、暗い部屋で目を閉じた。
胃の重さがない夜は、それだけで少しだけ頼りない。
けれど今夜は、別の静けさがあった。
それなら、それでいいと思った。




