第5話 安心が買えるなら安いもの
閉店後のレジ台には、その日一日の細かいものが残る。
輪ゴム。
小さなクリップ。
値札を外した紙片。
返品になった封筒の端。
客に渡しそびれた紙袋。
レシートの芯。
おつり用に分けた百円玉。
安西澄子は、それらを一つずつ手に取った。捨てるもの、残すものを目で分ける。店の奥には、同じような“まだ使えるもの”がいくつも箱に分けてしまってある。外した輪ゴム、折り目だけついた包装紙、サイズ別の紙袋、セロテープのまだ切れる端、景品でもらったボールペン、期限の近い乾電池、会計のときに使う小銭用の缶。
他人が見れば、たぶん面倒くさい。
あるいは、ケチくさい。
澄子自身、そう見えることは分かっていた。
分かっているけれど、捨てる気にはならなかった。
まだ使えるものを捨てるとき、人はたいしたことではない顔をする。
でも澄子には、その“たいしたことではない”が、いつも少し嘘に見える。
店のガラス戸の向こうで、商店街のシャッターが一つずつ下りていく。
駅前から少し外れたこの通りは、昔ほど人が歩かない。コンビニもドラッグストアも大型店も百円ショップもある今、文具店だけで食っていくのは楽ではなかった。ノートもペンも、たいていは別の場所でも買える。むしろ別の場所のほうが安いことすらある。
それでも店を閉める気にはなれなかった。
この店は、もともと夫の実家の店だった。
澄子が嫁いだ頃には、すでに景気のいい店ではなかった。学校帰りの子どもと、町内会の爺さんと、たまに事務用品を買いに来る近所の会社員で、なんとか息をしているような店だった。義母は毎日きちんと店を開けていたが、儲かるから続けているというより、閉める理由がないから開けているようなところがあった。
夫は若い頃から、この店を継ぐ気がなかった。
「こんな店、今どき継いだって食えないだろ」
そう言って、外へ勤めに出た。
それはたぶん間違っていなかった。文具店なんてもう先がない、と夫は本気で思っていたし、実際その通りの部分もあった。客商売にも向いていなかった。細かい在庫を数えるのも嫌いで、仕入れの帳面を見るとすぐ顔をしかめた。義母とも、店のやり方でよく揉めていた。
だから澄子も、最初から自分がこの店をやることになるとは思っていなかった。
嫁いでからしばらくは、別の店でパートをしながら、ときどき義母の手伝いでレジに立つ程度だった。包装紙の場所、仕入れ先の名前、鉛筆の箱の並べ方。そんなものは覚えたところで一生使わないだろうと思っていた。
ところが結局、いちばん長く覚えていたのは澄子だった。
閉店作業の手を止めて、澄子はレジ下の引き出しを閉めた。
昔のことを考えるとき、いつも最初に浮かぶのは金のことだ。愛情でも怒りでもなく、まず金額が浮かぶ。家賃の引き落とし日。通帳の残高。病院の会計。財布の中の千円札が最後の一枚だった夜。
夫が失業したのは、結婚して少したった頃だった。
辞めたというのか、辞めさせられたというのか、そのへんは今でも少し曖昧だ。夫は最初、「すぐ次が見つかる」と言っていた。たぶん本気でそう思っていたのだろう。だが次はなかなか決まらず、失業保険と貯金でつないでいるうちに、家の空気がだんだん細くなっていった。
店があるのだから戻ればよかったじゃないか、と言う人がいるかもしれない。
けれど、あの頃の店は、戻れば一家を食わせられる場所ではなかった。
義母が細々守っているだけで、生活の土台になるほどの売上はない。夫が戻ったところで、急に客が増えるわけでもない。むしろ、夫自身が店の仕事を嫌っていた。戻らなかったというより、戻れなかったに近い。そういう店だった。
そのくせ、包装紙の場所も、仕入れ先の癖も、帳面のつけ方も、なぜか澄子のほうがよく覚えていた。
あの頃からだ。
澄子が、捨てなくなったのは。
紙袋も、包装紙も、輪ゴムも。
割引券も、封筒も、予備の乾電池も。
使い切る前に次を買うようになったし、安いときには余分に買った。食料も現金も、目に見える形で少しでもあると落ち着いた。
いちばん嫌だったのは、「足りなくなるかもしれない」という感覚だった。
実際にゼロになったわけではない。
餓えたわけでもない。
家賃が払えなかった月も、ぎりぎりのところでなかった。
でも、ぎりぎりだった。
ぎりぎりの記憶は、それだけで長く残る。
夫はそのうち機嫌が悪くなった。
自分が情けないのだろうと思う夜ほど、声は大きくなった。澄子に手を上げるような男ではなかったが、ない金の話と、足りない仕事の話と、これからどうするのかという話をするたび、家の中には見えない棘みたいなものが増えていった。
夫とは、その後、死別した。
離別の可能性もあったのかもしれないが、その前に病気が来た。急だった。入院はあっという間で、そのくせ金は驚くほどあっという間に減った。保険で戻る分もあったが、いったん出ていく金の重さは現実そのものだった。
澄子はその時にも思った。
やっぱり、持っていてよかった、と。
持っていたところで全部が救えるわけではない。
死ぬものは死ぬし、なくなるものはなくなる。
それでも、財布に現金があって、通帳に少しでも残高があって、棚に予備の電池と缶詰があって、連絡先の控えがまとまっているだけで、人は少しだけ落ち着いて動ける。
その“少しだけ”が、案外大きい。
翌朝、店を開けるとすぐに、常連の小学生が消しゴムを買いに来た。
次に、町内会の爺さんが回覧板用のクリップを買いに来る。昼前には、近所の主婦が宅配便の伝票をもらいに来た。昔ほど儲からないとはいえ、店を開ければ誰かしら来る。文具だけ売っているわけではない。コピー、電池、封筒、宅配の取次、ちょっとした相談。そういう細かな用事の集まりで店はまだ息をしていた。
「おばちゃん、これ、前の値段と違わない?」
主婦がボールペンを指して言う。
「メーカーのほうが上がったのよ」
「何でも高くなるねえ」
「高くなる前に買っとけばよかったのに」
冗談半分で言うと、主婦は笑って「澄子さんみたいにはいかないわよ」と返した。
そういうふうに言われることは多い。
澄子さんは何でも取ってあるから。
澄子さんは細かいから。
澄子さんは損しないように生きてるから。
その言い方には、半分の感心と半分の呆れがある。
澄子は別に訂正しない。
事実だからだ。
午後、店の奥で帳簿をつけていると、商店街の外でサイレンが鳴った。救急車だった。珍しくない。高齢者の多い町だ。だが、その日は少し近かった。澄子はペンを置いて表へ出る。
通りの向かいで、人が数人立ち止まっている。
近所のアパートの前だ。
顔見知りの主婦が「二階の佐伯さん、また倒れたみたい」と小声で言った。
澄子は一度うなずいて、すぐ店へ戻った。
こういう時に必要になるものがあるのを、彼女は知っている。
小さめの紙袋。
メモ帳。
ボールペン。
予備の電池。
それからレジ横の引き出しに入れてある小銭用の封筒。
しばらくして、さっきの主婦が顔を出した。
「澄子さん、悪いんだけど、佐伯さんとこの娘さんに連絡取れなくて。前にここで番号書いたこと、なかったっけ」
「あるかもしれない」
澄子は迷わず、顧客メモをまとめている古い大学ノートを引っ張り出した。
日付も順番もきれいではない。けれど捨てていない。
何年前の宅配便の取次だろうと、名字が変わっていようと、念のため残してある。
「あった」
「ほんと?」
「たぶん携帯。前に学校用の封筒送るって言ってたときの」
主婦は目を丸くした。
澄子はメモを渡し、それから小さい紙袋も持たせた。
「保険証とか薬手帳とか、まとめるならこれに入れな」
「ありがとう、助かる」
そう言って主婦が走っていく。
それは別に、大事件ではなかった。
澄子が誰かを劇的に救ったわけでもない。
ただ、番号を捨てていなかった。袋を取っておいた。封筒を切らしていなかった。電池もあった。そういうだけのことだ。
でも現実には、そういう“だけ”が人の手を少し速くする。
夕方、油性ペンを買いに若い男が来た。
スウェットの上下。少し眠そうな目。
昨夜見た顔だと、澄子は遅れて気づいた。駅前の外れで時々見かける子だ。必要な物だけ買って、すぐ出ていくタイプの客。袋はいらないと言った。
「そう。小さい物だし、そのままでいいよね」
澄子がそう言うと、男は少しだけ不思議そうな顔をした。
店を出たあと、きっと細かい店だと思っただろう。
それでよかった。
閉店間際、シャッターを半分だけ下ろしたころだった。
戸の外で足音が止まり、少し間を置いてから、ガラス戸が開いた。
入ってきたのは、三十代くらいの男だった。スーツの上着は着ていない。シャツの襟元が少し緩んでいて、ネクタイももう外している。会社帰りなのだろうが、普通の会社帰りというより、何かを一度全部やり終えたあとの顔をしていた。疲れている。だが、酔っているわけではない。ただ、うまく力の抜けない疲れ方だった。
「まだ大丈夫ですか」
「閉めるとこだけど、いいよ」
男は短く会釈して、店の奥までは入らず、入口近くの棚を見た。
文具を買いに来たわけではないらしい。レジ横ののど飴、乾電池、ウェットティッシュのあたりをぼんやり見ている。
「そのへん、スーパーのほうが安いよ」
澄子が言うと、男は少しだけ笑った。
「分かってます」
分かっていて来る客は、たまにいる。
急ぎの電池。
今すぐ要る封筒。
雨の日のビニール傘。
そういう“高いと分かっていて買うもの”には、その人の事情が出る。
男は結局、のど飴とウェットティッシュ、それに単三電池を一パック持ってきた。どれも急ぎならここで買うしかないが、急ぎでなければスーパーかドラッグストアのほうが安いものばかりだった。
「ずいぶん急ぎみたいだね」
「……まあ」
それだけ言って、男は財布を開く。
手つきが少し雑だった。必要なものだけを選んだはずなのに、そこへ来るまでにもうだいぶ削れている感じがした。
澄子は品物を打ちながら、その顔を少し見た。
まだ若い。
でも、若い男の顔ではなかった。
数字だの愛想だの気遣いだの、そういう目に見えないものでずっと擦られてきた顔をしている。頬は少しこけていて、目の奥だけが妙に冴えている。こういう顔の人間は、家に帰ってもそのままでは眠れないのだろうと思った。
「袋は」
「ください」
即答だった。
澄子は小さめの紙袋を出した。男はそれを受け取ると、また短く会釈した。
「どうも」
外へ出る背中を見送りながら、澄子は、もっとちゃんとした店でまとめて買えば安いのに、と思った。
そういう計算はすぐに浮かぶ。
けれど同時に、あの男はたぶん今、金の得損で物を買っていないのだとも分かった。
家に何があるか考えるのも面倒で、もっと安く買える場所まで行く余裕もなく、とにかく今日を終えるための最低限だけを手近なところで掴んだ。そういう買い方に見えた。
美しいとは思わない。
無駄がないとも言えない。
でも、そうでもしないと越せない夜も、人にはあるのかもしれなかった。
夜、シャッターを半分下ろしてから、澄子はレジの中の現金を数えた。
たいした額ではない。
昔のようには儲からないし、子どもとも今はたまにしか連絡を取らない。店を畳んだほうが楽なのではと思う日もある。何でもかんでも抱え込みすぎて、自分で自分の首を締めている気がする日もある。
それでも、全部をやめる気にはなれなかった。
安心が買えるなら安いものだ、と澄子は思う。
紙袋ひとつ。
輪ゴムひとつ。
予備の電池。
少し多めの現金。
安売りで買った缶詰。
昔の客の連絡先。
美しくはない。
がめついのだろうとも思う。
でも、足りなくなるかもしれないという恐怖に比べれば、その程度のがめつさは安い。あの怖さをもう一度まともに食らうくらいなら、細かい人だと思われるほうがずっとましだった。
シャッターを閉め、店の奥の灯りをひとつだけ残す。
紙袋の束は棚に戻した。輪ゴムは缶に入れた。明日使うかもしれないものを、明日の手が届く場所に置く。
捨てられないものが多い人生だった。
けれど、捨てなかったから残った暮らしもあった。
それで十分だと、今は思う。




