表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『薄明の鴉たち』  作者: 根古野 雀句


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/7

第5話 安心が買えるなら安いもの

 閉店後のレジ台には、その日一日の細かいものが残る。


 輪ゴム。

 小さなクリップ。

 値札を外した紙片。

 返品になった封筒の端。

 客に渡しそびれた紙袋。

 レシートの芯。

 おつり用に分けた百円玉。


 安西澄子は、それらを一つずつ手に取った。捨てるもの、残すものを目で分ける。店の奥には、同じような“まだ使えるもの”がいくつも箱に分けてしまってある。外した輪ゴム、折り目だけついた包装紙、サイズ別の紙袋、セロテープのまだ切れる端、景品でもらったボールペン、期限の近い乾電池、会計のときに使う小銭用の缶。


 他人が見れば、たぶん面倒くさい。

 あるいは、ケチくさい。


 澄子自身、そう見えることは分かっていた。

 分かっているけれど、捨てる気にはならなかった。


 まだ使えるものを捨てるとき、人はたいしたことではない顔をする。

 でも澄子には、その“たいしたことではない”が、いつも少し嘘に見える。


 店のガラス戸の向こうで、商店街のシャッターが一つずつ下りていく。

 駅前から少し外れたこの通りは、昔ほど人が歩かない。コンビニもドラッグストアも大型店も百円ショップもある今、文具店だけで食っていくのは楽ではなかった。ノートもペンも、たいていは別の場所でも買える。むしろ別の場所のほうが安いことすらある。


 それでも店を閉める気にはなれなかった。


 この店は、もともと夫の実家の店だった。


 澄子が嫁いだ頃には、すでに景気のいい店ではなかった。学校帰りの子どもと、町内会の爺さんと、たまに事務用品を買いに来る近所の会社員で、なんとか息をしているような店だった。義母は毎日きちんと店を開けていたが、儲かるから続けているというより、閉める理由がないから開けているようなところがあった。


 夫は若い頃から、この店を継ぐ気がなかった。


「こんな店、今どき継いだって食えないだろ」


 そう言って、外へ勤めに出た。

 それはたぶん間違っていなかった。文具店なんてもう先がない、と夫は本気で思っていたし、実際その通りの部分もあった。客商売にも向いていなかった。細かい在庫を数えるのも嫌いで、仕入れの帳面を見るとすぐ顔をしかめた。義母とも、店のやり方でよく揉めていた。


 だから澄子も、最初から自分がこの店をやることになるとは思っていなかった。

 嫁いでからしばらくは、別の店でパートをしながら、ときどき義母の手伝いでレジに立つ程度だった。包装紙の場所、仕入れ先の名前、鉛筆の箱の並べ方。そんなものは覚えたところで一生使わないだろうと思っていた。


 ところが結局、いちばん長く覚えていたのは澄子だった。


 閉店作業の手を止めて、澄子はレジ下の引き出しを閉めた。

 昔のことを考えるとき、いつも最初に浮かぶのは金のことだ。愛情でも怒りでもなく、まず金額が浮かぶ。家賃の引き落とし日。通帳の残高。病院の会計。財布の中の千円札が最後の一枚だった夜。


 夫が失業したのは、結婚して少したった頃だった。

 辞めたというのか、辞めさせられたというのか、そのへんは今でも少し曖昧だ。夫は最初、「すぐ次が見つかる」と言っていた。たぶん本気でそう思っていたのだろう。だが次はなかなか決まらず、失業保険と貯金でつないでいるうちに、家の空気がだんだん細くなっていった。


 店があるのだから戻ればよかったじゃないか、と言う人がいるかもしれない。

 けれど、あの頃の店は、戻れば一家を食わせられる場所ではなかった。


 義母が細々守っているだけで、生活の土台になるほどの売上はない。夫が戻ったところで、急に客が増えるわけでもない。むしろ、夫自身が店の仕事を嫌っていた。戻らなかったというより、戻れなかったに近い。そういう店だった。


 そのくせ、包装紙の場所も、仕入れ先の癖も、帳面のつけ方も、なぜか澄子のほうがよく覚えていた。


 あの頃からだ。

 澄子が、捨てなくなったのは。


 紙袋も、包装紙も、輪ゴムも。

 割引券も、封筒も、予備の乾電池も。

 使い切る前に次を買うようになったし、安いときには余分に買った。食料も現金も、目に見える形で少しでもあると落ち着いた。


 いちばん嫌だったのは、「足りなくなるかもしれない」という感覚だった。


 実際にゼロになったわけではない。

 餓えたわけでもない。

 家賃が払えなかった月も、ぎりぎりのところでなかった。


 でも、ぎりぎりだった。

 ぎりぎりの記憶は、それだけで長く残る。


 夫はそのうち機嫌が悪くなった。

 自分が情けないのだろうと思う夜ほど、声は大きくなった。澄子に手を上げるような男ではなかったが、ない金の話と、足りない仕事の話と、これからどうするのかという話をするたび、家の中には見えない棘みたいなものが増えていった。


 夫とは、その後、死別した。


 離別の可能性もあったのかもしれないが、その前に病気が来た。急だった。入院はあっという間で、そのくせ金は驚くほどあっという間に減った。保険で戻る分もあったが、いったん出ていく金の重さは現実そのものだった。


 澄子はその時にも思った。

 やっぱり、持っていてよかった、と。


 持っていたところで全部が救えるわけではない。

 死ぬものは死ぬし、なくなるものはなくなる。

 それでも、財布に現金があって、通帳に少しでも残高があって、棚に予備の電池と缶詰があって、連絡先の控えがまとまっているだけで、人は少しだけ落ち着いて動ける。


 その“少しだけ”が、案外大きい。


 翌朝、店を開けるとすぐに、常連の小学生が消しゴムを買いに来た。

 次に、町内会の爺さんが回覧板用のクリップを買いに来る。昼前には、近所の主婦が宅配便の伝票をもらいに来た。昔ほど儲からないとはいえ、店を開ければ誰かしら来る。文具だけ売っているわけではない。コピー、電池、封筒、宅配の取次、ちょっとした相談。そういう細かな用事の集まりで店はまだ息をしていた。


「おばちゃん、これ、前の値段と違わない?」


 主婦がボールペンを指して言う。


「メーカーのほうが上がったのよ」


「何でも高くなるねえ」


「高くなる前に買っとけばよかったのに」


 冗談半分で言うと、主婦は笑って「澄子さんみたいにはいかないわよ」と返した。


 そういうふうに言われることは多い。

 澄子さんは何でも取ってあるから。

 澄子さんは細かいから。

 澄子さんは損しないように生きてるから。


 その言い方には、半分の感心と半分の呆れがある。

 澄子は別に訂正しない。

 事実だからだ。


 午後、店の奥で帳簿をつけていると、商店街の外でサイレンが鳴った。救急車だった。珍しくない。高齢者の多い町だ。だが、その日は少し近かった。澄子はペンを置いて表へ出る。


 通りの向かいで、人が数人立ち止まっている。

 近所のアパートの前だ。

 顔見知りの主婦が「二階の佐伯さん、また倒れたみたい」と小声で言った。


 澄子は一度うなずいて、すぐ店へ戻った。

 こういう時に必要になるものがあるのを、彼女は知っている。


 小さめの紙袋。

 メモ帳。

 ボールペン。

 予備の電池。

 それからレジ横の引き出しに入れてある小銭用の封筒。


 しばらくして、さっきの主婦が顔を出した。


「澄子さん、悪いんだけど、佐伯さんとこの娘さんに連絡取れなくて。前にここで番号書いたこと、なかったっけ」


「あるかもしれない」


 澄子は迷わず、顧客メモをまとめている古い大学ノートを引っ張り出した。

 日付も順番もきれいではない。けれど捨てていない。

 何年前の宅配便の取次だろうと、名字が変わっていようと、念のため残してある。


「あった」


「ほんと?」


「たぶん携帯。前に学校用の封筒送るって言ってたときの」


 主婦は目を丸くした。

 澄子はメモを渡し、それから小さい紙袋も持たせた。


「保険証とか薬手帳とか、まとめるならこれに入れな」


「ありがとう、助かる」


 そう言って主婦が走っていく。


 それは別に、大事件ではなかった。

 澄子が誰かを劇的に救ったわけでもない。

 ただ、番号を捨てていなかった。袋を取っておいた。封筒を切らしていなかった。電池もあった。そういうだけのことだ。


 でも現実には、そういう“だけ”が人の手を少し速くする。


 夕方、油性ペンを買いに若い男が来た。

 スウェットの上下。少し眠そうな目。

 昨夜見た顔だと、澄子は遅れて気づいた。駅前の外れで時々見かける子だ。必要な物だけ買って、すぐ出ていくタイプの客。袋はいらないと言った。


「そう。小さい物だし、そのままでいいよね」


 澄子がそう言うと、男は少しだけ不思議そうな顔をした。

 店を出たあと、きっと細かい店だと思っただろう。

 それでよかった。


 閉店間際、シャッターを半分だけ下ろしたころだった。


 戸の外で足音が止まり、少し間を置いてから、ガラス戸が開いた。

 入ってきたのは、三十代くらいの男だった。スーツの上着は着ていない。シャツの襟元が少し緩んでいて、ネクタイももう外している。会社帰りなのだろうが、普通の会社帰りというより、何かを一度全部やり終えたあとの顔をしていた。疲れている。だが、酔っているわけではない。ただ、うまく力の抜けない疲れ方だった。


「まだ大丈夫ですか」


「閉めるとこだけど、いいよ」


 男は短く会釈して、店の奥までは入らず、入口近くの棚を見た。

 文具を買いに来たわけではないらしい。レジ横ののど飴、乾電池、ウェットティッシュのあたりをぼんやり見ている。


「そのへん、スーパーのほうが安いよ」


 澄子が言うと、男は少しだけ笑った。


「分かってます」


 分かっていて来る客は、たまにいる。

 急ぎの電池。

 今すぐ要る封筒。

 雨の日のビニール傘。

 そういう“高いと分かっていて買うもの”には、その人の事情が出る。


 男は結局、のど飴とウェットティッシュ、それに単三電池を一パック持ってきた。どれも急ぎならここで買うしかないが、急ぎでなければスーパーかドラッグストアのほうが安いものばかりだった。


「ずいぶん急ぎみたいだね」


「……まあ」


 それだけ言って、男は財布を開く。

 手つきが少し雑だった。必要なものだけを選んだはずなのに、そこへ来るまでにもうだいぶ削れている感じがした。


 澄子は品物を打ちながら、その顔を少し見た。

 まだ若い。

 でも、若い男の顔ではなかった。

 数字だの愛想だの気遣いだの、そういう目に見えないものでずっと擦られてきた顔をしている。頬は少しこけていて、目の奥だけが妙に冴えている。こういう顔の人間は、家に帰ってもそのままでは眠れないのだろうと思った。


「袋は」


「ください」


 即答だった。

 澄子は小さめの紙袋を出した。男はそれを受け取ると、また短く会釈した。


「どうも」


 外へ出る背中を見送りながら、澄子は、もっとちゃんとした店でまとめて買えば安いのに、と思った。

 そういう計算はすぐに浮かぶ。


 けれど同時に、あの男はたぶん今、金の得損で物を買っていないのだとも分かった。

 家に何があるか考えるのも面倒で、もっと安く買える場所まで行く余裕もなく、とにかく今日を終えるための最低限だけを手近なところで掴んだ。そういう買い方に見えた。


 美しいとは思わない。

 無駄がないとも言えない。

 でも、そうでもしないと越せない夜も、人にはあるのかもしれなかった。


 夜、シャッターを半分下ろしてから、澄子はレジの中の現金を数えた。

 たいした額ではない。

 昔のようには儲からないし、子どもとも今はたまにしか連絡を取らない。店を畳んだほうが楽なのではと思う日もある。何でもかんでも抱え込みすぎて、自分で自分の首を締めている気がする日もある。


 それでも、全部をやめる気にはなれなかった。


 安心が買えるなら安いものだ、と澄子は思う。


 紙袋ひとつ。

 輪ゴムひとつ。

 予備の電池。

 少し多めの現金。

 安売りで買った缶詰。

 昔の客の連絡先。


 美しくはない。

 がめついのだろうとも思う。

 でも、足りなくなるかもしれないという恐怖に比べれば、その程度のがめつさは安い。あの怖さをもう一度まともに食らうくらいなら、細かい人だと思われるほうがずっとましだった。


 シャッターを閉め、店の奥の灯りをひとつだけ残す。

 紙袋の束は棚に戻した。輪ゴムは缶に入れた。明日使うかもしれないものを、明日の手が届く場所に置く。


 捨てられないものが多い人生だった。

 けれど、捨てなかったから残った暮らしもあった。


 それで十分だと、今は思う。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ