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『薄明の鴉たち』  作者: 根古野 雀句


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第4話 平和に生きることに決めた

 帰って、すぐやるつもりではあった。


 ほんとに、そこは嘘じゃない。


 コンビニの袋をぶら下げて家に入ったとき、長谷川和也はたしかに一度、玄関の脇に積んであるゴミ袋を見た。見たし、ああ出さなきゃな、と思った。思ったこと自体はほんとうだ。

 ただ、その前に一回だけ座ろうとも思った。


 夜勤明けの頭は、いつも変な感じになる。眠いというより、身体のどこに力を入れたら立っていられるのかがよく分からなくなる。足の裏がふわふわして、目の奥だけが乾いていて、コンビニの照明とか朝の白い空とか、そういうものが妙に薄く見える。家まで帰ってきた時点で、和也の中ではもうその日はだいたい終わっていた。


 駅前の交差点を渡るとき、信号の色をちゃんと見ていたはずなのに、途中で自分が何色で歩き始めたのか分からなくなった。コンビニで缶コーヒーを選ぶときも、棚の前に立ったまましばらく動けなかった。ブラックにするか、甘いのにするか、その程度のことに決める力が残っていなかった。結局、よく分からないままいつものやつを取った。

 夜勤明けは、そういう細かい判断がいちいち遠い。


 玄関で靴を脱いで、冷蔵庫の前まで行って、コンビニ袋を食卓に置いた。菓子パン、カップ麺、缶コーヒー。別に誇れる買い物じゃないけど、夜勤明けに腹へ入るものなんてそんなに種類はいらない。座って、靴下を脱いで、それから少しだけ背中を丸めた。


 そのタイミングで、奥から母親の声が飛んできた。


「和也! ゴミ出しまだなの!」


 和也は目を閉じたまま答えた。


「今やろうと思ってたって」


 それも嘘じゃなかった。

 ただ、もう立つのがめんどくさかった。


 奥からまた声がする。


「思ってたって、朝からずっとそこにあるでしょ!」


 朝から、と言われても、和也にとっては今が朝だった。いや、実際にはもう昼近かったけど、夜勤から帰ってきた人間にとっての朝なんてそんなものだ。世間の時計と自分の時計はずっと少しずれている。ずれているのに、家の中では世間の時計で怒られる。


 和也はソファにもたれたまま、うすく口を開けて天井を見た。

 立てばいいのは分かっている。ゴミ袋を掴んで、玄関を出て、集積所に置いてくるだけだ。それだけのことだし、たぶん五分もかからない。でも、その五分の前に一度座ったら、もうだめだった。


 こういうのを母親は理解しない。

 理解しないというか、理解したくないのだと思う。

 昼に起きている自分を見ると、まず腹が立つのだ。夜勤がどうとか、帰ってきて何時間だとか、そういうことより先に、「昼間に家にいて、だらだらしてる息子」という像が立つ。その像に向かって母は毎回しゃべる。


 まあ、母の気持ちも分からなくはない。

 分からなくはないけど、だからって急にちゃんとできるわけでもない。


 台所には昨夜の洗っていない皿が二枚あった。シンクの隅には麦茶の空ボトルが転がっていて、テーブルの端には祖母の薬の殻が小さく三つ残っている。母親が一人で回している家の痕跡だった。

 自分がもう少し動けば、母の機嫌は少しはよくなるのだろう。皿を洗うとか、ゴミを出すとか、そういうことで空気は少し軽くなる。分かっている。分かっているのに、身体がそこまで届かない。


 ちゃんと、という言葉はいつも曖昧なくせに重い。

 ちゃんと起きる。

 ちゃんと働く。

 ちゃんと家のこともやる。

 ちゃんと親に心配をかけない。

 どれも意味は分かる。分かるけど、自分にとってそれは一個ずつ片づける項目じゃなく、いきなり胸の上に載せられる大きな板みたいなものだった。


 やれと言われると、余計に身体が固まる。

 立てば済む五分が、立てないことで一時間になる。

 そういうことが、和也には昔からあった。


 小学校のころ、夏休みの宿題もそうだった。最初の一問を書けばいいだけなのに、ノートを開いた瞬間に「全部やらなきゃいけない」が一気に来て、机の前で固まる。母親に「一ページだけでいいから」と言われても、頭の中ではすでに一ページじゃ済まない。絵日記も自由研究も読書感想文も、提出日も、先生の顔も、全部が同時に来る。

 その同時に来る感じを、うまく説明できたことがない。怠けているようにしか見えないのだろうと思う。実際、外から見ればそうなのだろう。


 チャイムが鳴った。


「あ、もう来た」


 母の声が少し低くなる。

 和也は顔だけをそちらへ向けた。今日ヘルパーが来る日だったな、と遅れて思い出す。祖母の世話の時間だ。最近は週に何回か、ああいう人が来る。


「和也、ちゃんとしなさいよ」


 ちゃんとしなさい、は便利な言葉だ。

 何をどうすればいいのかは言わないくせに、とりあえずこっちが足りてない感じだけは出せる。


 和也は立ち上がった。立たないと余計面倒になるのが分かっていたからだ。

 玄関へ向かう足取りは重い。重いままドアを開ける。


 外に立っていたのは、四十代くらいの女だった。地味な色の服に、大きめのバッグ。顔立ちがどうこうというより、ちゃんとしている人の顔だった。起きる時間に起きて、人に会う前に最低限整えて、約束の時間を守る人生の顔だ。そういう顔の人は、だいたい和也を見ると少し嫌そうな目をする。


「あ、どうも」


 和也はそう言って、体を横にずらした。

 ちゃんと「こんにちは」くらい言ったほうがいいのは分かっていたけど、そこまで頭が回らなかった。愛想よくするには少しだけエネルギーが要る。その少しが今はなかった。


 ヘルパーの女は何も言わずに中へ入る。

 たぶん、だらしないやつだと思われてるんだろうな、と和也は思った。


 奥から祖母の怒った声が飛んできた。


「和也! ゴミ出しまだなの!」


「今やろうと思ってたって」


 ぼそっと言い返す。

 自分でも覇気がないと思う。

 でも覇気ってどうやって出すんだっけ、と最近よく分からない。


 コンビニ袋を持ち直して台所へ行く。中身は菓子パンとカップ麺と缶コーヒー。シンクには朝の皿が残っていた。母親は祖母のことでいっぱいいっぱいなのだろうし、自分が少し洗えばいいだけなのだろうけど、その少しが、今日はひどく遠い。


 廊下の向こうから、ヘルパーの女の声が聞こえる。

 丁寧で、抑えた声。祖母にはそういう声で話せるのだなと思う。さっき自分が開けたときの空気とは少し違う。そりゃそうか、と和也は思う。祖母は世話される側で、自分はその横でだらついているだけの孫だ。


 べつに怒られ慣れてないわけじゃない。

 母親にも、高校の先生にも、短大を辞めたときにも、就活失敗したときにも、さんざん言われた。ちゃんとしろ。先のことを考えろ。本気を出せ。若いうちは無理しろ。そういうことを言う人は、いつも同じ顔で言う。悪気があるわけじゃないのも分かる。分かるけど、聞いたところでこっちが別人になるわけじゃない。


 高校のときは、まだ少し違った。

 教室の後ろでだらっと座って、成績も真ん中より少し下で、体育祭にも文化祭にもそこそこ参加して、別に問題児ではなかった。先生に睨まれるほどでもなく、期待されるほどでもない。そういう位置は、和也にはわりと居心地がよかった。

 だからたぶん、自分もそのまま何となく大人になれるのだと思っていた。周りと同じ速度で動けなくても、同じ方向にだけは進めるのだと。


 短大に入ったのも、その延長だった。

 行きたい学部があったわけでもない。就職率がどうとか、家から通えるとか、その程度の理由だ。

 最初の数か月は、それでも何とかやっていた。朝起きて、電車に乗って、教室に座る。課題も出す。友達もいないわけじゃなかった。


 でも、だんだん無理になった。

 授業が嫌だったというより、みんなが自然にやっていることを、いちいち自分だけ準備しないとできない感じがしんどかった。朝起きる。服を選ぶ。人と並んで昼を食う。グループワークで意見を言う。就活の話題にあいづちを打つ。その全部が少しずつ面倒で、少しずつ怖かった。


 特にしんどかったのは、就活の空気だった。

 二年になってすぐ、教室の前の掲示板に企業説明会の紙が増えた。みんながスーツの話をし始め、エントリーシートの締切だの、インターンだの、筆記試験だのを口にする。そのたびに和也は、自分だけ何も持っていない感じがした。

 何がやりたいかと聞かれても、何もない。

 何に向いているかと聞かれても、よく分からない。

 よく分からないまま「まだ決めてない」と笑っていると、だんだん本当にそこへ行けなくなった。


 ある日一回休んだら、次に行くのがもう少し大変になった。

 次を休んだら、もっと大変になった。

 気づいたら、行かないほうが楽になっていた。


 辞めると言ったとき、母親は怒るより先に呆れた顔をした。

 父親は「中途半端だな」とだけ言った。

 和也も、自分でそう思った。

 でも、続ければ何かがよくなる感じもしなかった。むしろ、続けるほうがどこかおかしくなりそうだった。


 だから辞めた。

 辞めたら辞めたで、「逃げ癖がつく」と言われた。

 逃げ癖。

 そうかもしれない。

 でも、逃げなかったらどうなっていたのかを考えると、あまり明るい想像はできなかった。


 短大を辞めたあとの半年は、ひどかった。

 昼夜が逆転して、親と顔を合わせる回数が減って、コンビニで買ったものを食って寝るだけの日が増えた。スマホの充電が切れてもそのまま、風呂も一日おき、ひげも伸びっぱなし。

 あの時期の自分を、和也は今でもあまり思い出したくない。

 怠けていた、と言われればそうだ。

 でも同時に、あれ以上何かをさせられたら、本当にどこかへ消えたくなっていた気もする。


 ある夜、母親と派手に言い合いになったことがある。


「いつまでそうしてるつもりなの」

「知らねえよ」

「知らねえじゃないでしょ。みんなちゃんとやってるのに」

「みんなって誰だよ」


 そこまで言ってから、急に何も喋れなくなった。喉の奥が詰まって、言い返したいことはあるはずなのに言葉にならない。母親も泣きそうな顔で黙った。

 そのあと和也は、自分の部屋で布団をかぶって朝まで起きられなかった。


 あの時、死にたいと思ったわけじゃない。そこまで大げさではない。

 ただ、起きているのが無理だった。人と話すのも、自分の先のことを考えるのも、全部が急に無理になった。


 そういう経験があるから、和也は「頑張れ」に妙に警戒する。

 頑張ればどうにかなるのは、頑張っても壊れない人だけだろうと思う。

 自分はたぶん、そっちではない。


 ゴミ袋は結局、そのときは出さなかった。

 出せよ、と思う自分もいる。

 でも、まず座って、それから少しだけスマホを見て、気づいたらそのまま意識が飛んでいた。


 次に目を開けたとき、部屋の空気は少しだけ夕方に寄っていた。

 テーブルの上の缶コーヒーはぬるくなっている。台所のほうで母親が何か物を置く音がした。怒鳴ってはいない。怒鳴っていないときのほうが、逆に空気が重いことがある。


 和也はゆっくり起き上がり、顔をこすった。

 スマホの画面には、バイト先のグループLINEが少し動いていた。夜勤のシフト確認と、誰かの欠勤連絡。倉庫の仕事は単純だ。段ボールを運んで、仕分けて、積んで、流す。人と深く話さなくていいし、責任も正社員ほど重くない。そのかわり生活は締まらない。締まらないけど、和也にはそれくらいのほうがちょうどよかった。


 倉庫の仕事を選んだのも、別に夢があったからじゃない。

 夜勤なら時給が少しましで、昼間に人と関わる時間が減る。ただそれだけだ。

 最初は、夜勤なんて続くのかと思った。けれど実際には、昼勤よりましだった。みんな眠そうだし、余計な雑談が少ないし、黙って手だけ動かしていればそれなりに時間が過ぎる。

 フォークリフトの音、段ボールが擦れる音、バーコードを読む機械音。そういう単調な音の中にいると、自分の頭も少し静かになる。

 朝日を見るころには身体は終わっているけど、終わっていることが逆に楽でもあった。これ以上何も考えなくていい、という意味で。


 一度、正社員の内定が出たことがある。

 就職浪人みたいな時期の終わりに、物流会社の営業所勤務。内定通知を見たとき、母親は泣きそうなくらい喜んだ。父親も珍しく機嫌がよかった。高校のときの担任にまで連絡したらしい。和也も、そのときはさすがにこれで普通になれるのかもしれないと思った。


 研修に行くまでは。


 朝礼で、声が小さいと怒鳴られた。

 若いうちは詰められて覚えるものだと笑われた。

 先輩の失敗の尻拭いを新人が学びとして受け取る空気があった。

 「今どき優しくしても育たないからな」と言う上司の顔を見た瞬間、和也は、あ、無理だ、と思った。


 その日だけで無理だったわけじゃない。

 二日目も三日目も、自分に言い聞かせた。ここで辞めたらまた同じだ、今度こそ続けろ、みんな最初はきついんだから、慣れれば大丈夫だ、と。

 でも、慣れる前に朝が来るのが嫌になった。

 目覚ましが鳴る前に目が覚めて、布団の中で心臓だけが先に起きる。会社へ向かう駅のホームで、胃のあたりが重くなる。怒鳴るほどじゃない軽い圧、笑いながらの詰め、できて当然の空気。そういうのが少しずつ積もっていく。

 たぶん他の人なら耐えられるのだろう。

 たぶん大したことではないのだろう。

 でも、自分には大したことだった。


 べつに殴られたわけじゃない。

 すぐ辞めるほどひどい目に遭ったわけでもない。

 でも、あの場所で何年か過ごしたら、自分はたぶん壊れると思った。


 ある朝、出勤前にネクタイを締めながら急に吐きそうになった。

 吐いたわけではない。洗面台に手をついて、しばらく水の音を聞いていただけだ。

 その時に、和也は「ああ、自分はこれ以上やるとまずいんだな」と妙にはっきり分かった。

 頑張りどころ、ではなかった。

 もう少し踏ん張れば越えられる坂、ではなかった。

 越えようとしてはいけない線のほうだった。


 結局、辞退した。

 友達には甘いと言われた。

 親には根性がないと言われた。

 そうかもしれないと思う。

 でも、行っていたら今ごろもっとひどかった気もする。


 無理なもんは無理。

 和也はそういうことだけ、昔から妙にはっきり分かる。


 それは才能と呼ぶほど立派なものじゃない。

 ただ、どこから先が自分に無理かを知るのが少し早いだけだ。早すぎるのかもしれない。人よりもずっと手前で、もうだめだと思ってしまう。でも、そのせいで助かっている部分も、たぶんある。


 たとえば、今こうして生きていることとか。


 立派ではない。

 胸を張れる生活でもない。

 母親に呆れられ、父親には半分見限られ、親戚の集まりでは「今何してるの」と聞かれるたび適当にごまかす。昔の同級生の結婚報告も昇進報告も、なるべく見ない。

 それでも少なくとも、あの研修の延長線上で毎朝胃を痛くしている自分よりは、今のほうがましな気がした。夜勤明けにゴミも出せずソファで寝落ちするような人間でも、壊れて病院へ行くよりは、まだましだと思いたかった。


 和也は立ち上がって、今度こそゴミ袋を掴んだ。

 玄関を開けて、階段を下りる。外の空気はまだ明るい。近所の小学生が自転車で通り過ぎていく。世間は普通に動いているのに、自分だけ一日の始まりを何度もやり直しているみたいだと思う。


 ゴミ置き場までの短い道で、和也は昔の同級生を見かけた気がして顔を伏せた。違った。

 違ったのに、心臓だけが一瞬速くなる。

 まともな生活をしていそうな相手に会いたくない。別に責められるわけじゃないのに、勝手に縮む。

 こういうところも、自分は感じ悪いと思う。昔は普通に喋れた相手に、今は先に避けたくなる。


 ゴミを出して戻ると、母親がキッチンに立っていた。

 振り向きもしないで言う。


「さっきのヘルパーさん、あんたのこと見て呆れてたわよ」


 和也は靴を脱ぎながら、「ふうん」とだけ言った。

 本当にそうだったかは分からない。

 でも、たぶんだいたいそういう感じだったのだろう。


 呆れられるのは慣れている。

 慣れているけど、まったく平気というわけでもない。

 ただ、そのたびにちゃんとした人間になろうとしても、だいたいうまくいかなかった。


「少しはおばあちゃんのこと手伝おうとか思わないの」


 母親が今度はちゃんと振り向いて言った。

 怒鳴ってはいない。怒鳴っていないのに、そっちのほうが刺さる。


「思ってるって」


「思ってるだけでしょ」


「……そうだけど」


「そうだけど、じゃないのよ」


 和也は言い返さなかった。

 言い返せば長くなる。

 長くなれば、結局また「将来どうするの」「いつまで夜勤のバイトなの」「あんたは逃げてばっかり」という話まで行く。行く前に止めるのが、最近の和也のやり方だった。

 言い返さないのは負けているみたいで嫌だが、言い返して疲れ切るよりはましだった。


 なら、どうするか。


 和也は部屋へ戻って、カップ麺に湯を注いだ。

 三分待つあいだに、友人の大輝からメッセージが来ていた。


今度うちの会社、正社員募集あるけど受ける?

夜勤しんどいだろ


 大輝は高校の同級生で、今は建材の営業をしている。収入は和也よりずっといい。彼女もいたが、この前別れたらしい。最近は酒の写真が増えた。休みの日も「寝て終わった」とよく書いている。それでも本人は、「ちゃんとしなきゃ」と言い続けている。


 高校の頃の大輝は、もっと気楽なやつだった。授業中に寝て、テスト前だけ焦って、部活の先輩の悪口を言って笑っていた。そういうやつが、今では毎日ネクタイを締めて数字を追っている。大人ってそういうものなのかもしれない。みんな何かを我慢して、多少壊れながら、それでも前へ進んでいく。

 でも和也は、そこまで行く前に止まってしまう。

 止まってしまうから、いまだに比較の土俵にも上がっていない感じがする。


 和也はスマホを見ながら少し考えて、返信を打った。


いや、いいや

俺たぶん向いてない


 それだけ送って終わる。

 長い説明をしても仕方がない。

 根性なしだと思われるなら、まあそうなんだろう。

 でも、自分で向いてないと分かる場所にわざわざ戻る気にはならなかった。


 送ったあとで少しだけ自己嫌悪が来る。

 こうやってまた逃げた、という感じだ。

 その感じは毎回ある。

 毎回あるけど、それでも送信取り消しはしない。


 カップ麺を食べ終えたあと、部屋の隅に積んである洗濯物へ目がいった。昨日取り込んだままのやつと、今日取り込むべきやつが混ざっている。畳めばいいのは分かっていた。分かっているが、分かっていることがそのまま身体を動かすわけではない。


 こういうのを母親は「だらしない」でひとまとめにする。

 たぶん世間もそうだろう。

 実際、だらしないのだと思う。

 でも自分の中ではもう少し細かい。

 今やれることと、今やると次の夜勤まで響くことがある。

 洗濯物を畳み始めると、ついでに部屋も片づけろ、皿も洗え、明日のことも考えろ、履歴書も書け、みたいに全部が一気に来る。その一気を想像した瞬間、何もやりたくなくなる。


 だから和也は、ときどき最初から諦める。

 最初から諦めて、一個も始めない。

 それは明らかに良い方法ではない。分かっている。

 でも、始めて全部に飲まれるくらいなら、何もやらずに少しだけ体力を残すほうを選んでしまう。


 その選び方で、ここまで来た。


 もちろん、その副作用もある。

 部屋は散らかる。

 親は苛立つ。

 自分でも自分が嫌になる。

 時々は、もう少しまともな人間だったらなと思う。

 怠けているから苦しいのか、苦しいから怠けているのか、自分でも分からなくなる夜がある。


 夜勤に出る前、祖母の部屋をのぞくと、祖母はもう寝息を立てていた。

 母親は台所で薬を分けている。和也は少しだけ迷ってから、「俺、今日出る前に洗濯物だけ取り込んどく」と言った。


 母親が振り返る。少し意外そうな顔だった。


「……じゃあお願い」


「うん」


 それだけだ。

 和也は洗濯物を取り込んだ。ちゃんと畳みはしなかった。椅子の上に置いただけだ。でも何もしないよりはましだった。何もかも完璧にはできない。できないけど、少しならやれる。少しやって、続けて自分を削るほどはやらない。それくらいでちょうどいいのだと、最近は思う。


 実際、母親の顔色もそれで少しだけ変わった。

 喜んだというほどじゃない。

 でも、さっきまでの刺々しさが少し薄れた。

 それくらいでいいのだと和也は思う。劇的に見直される必要はない。全部をひっくり返す必要もない。今日一日、家の空気が少しだけましになるくらいで十分だ。


 家を出ると、夜の空気は昼より少しましだった。

 世間の人間が活動を終え始める時間のほうが、和也には落ち着く。みんなが働いている昼に寝ていると罪悪感があるくせに、みんなが帰る時間に自分だけ出勤するのは少し楽だった。世間から半歩ずれていることが、そのまま隠れ場所になる夜がある。


 駅前へ出る途中、商店街の角で足を止めた。

 昔からある文具店の前に、「コピーできます」「電池あります」と手書きの札が出ている。店のガラス戸は少し曇っていて、外から見ると中は薄暗い。子どもの頃から前は通っていたが、入るのは久しぶりだった。


 バイト先で使う黒の油性ペンが切れかけていたのを思い出したのだ。


 戸を開けると、小さな鈴が鳴った。

 中は思ったより物が多かった。ノート、封筒、電池、ファイル、画鋲、レジ横の駄菓子、棚の上の紙箱、奥には古い包装紙の束まで積んである。売り物なのか、そうでないのか分からないものも多い。

 こういう店、まだあるんだなと思う。

 コンビニや百円ショップがいくらでもあるのに、わざわざここで買う人がいるのかと少し不思議になる。でも同時に、こういう場所が残っている町は嫌いじゃなかった。


「いらっしゃい」


 レジの奥から声がした。

 五十代くらいの女が立っている。エプロン姿で、髪は後ろでひとつにまとめていた。きつそうというほどではないが、やわらかい感じでもない。レジの横では、外した輪ゴムがいくつも小さな缶にまとめられていて、紙袋もサイズごとにきっちり畳まれている。


 和也はなんとなく、ああ、こういうタイプかと思った。

 細かい人だ。


 棚の上にあるものが、どれも「あとで使うため」にそこへ置かれている感じがした。飾りではない。何かあった時にすぐ取れるように、無駄のなさそうな位置にある。輪ゴム一個までちゃんと戻す人なのだろう。

 自分とは真逆だと思う。

 自分は、あとで使うかもしれないものほど、どこへ置いたか分からなくする。


「油性ペンあります?」


「あるよ。細いのと太いの、どっち」


「普通のやつで」


「普通って人によって違うからね」


 そう言いながらも、女はすぐ棚から二種類持ってきた。

 和也は少しだけ面倒くさくなったが、一本選んでレジへ持っていく。


 会計は数百円だった。和也が千円札を出すと、女は受け取る前にその端を揃え、小銭入れからきっちり釣りを出した。レシートの紙が少し斜めに出ると、それすらまっすぐ引き直す。ついでに、小さなビニール袋へ入れようとして、ふと手を止めた。


「袋、いる?」


「いや、別に」


「そう。小さい物だし、そのままでいいよね」


 その言い方が、節約というより信条みたいに聞こえた。

 レジ横には、客に渡しそびれたらしい古いポケットティッシュや、輪ゴムで束ねた紙片まで取ってある。


 なんでも取ってあるな、と和也は思う。

 ケチというか、細かいというか、少し怖い。

 でも店の中は妙に整っていて、必要なものはちゃんとある感じもする。


 女は釣り銭を渡したあと、すぐレジの下に手を入れて、使い終わった輪ゴムをまた缶へ戻した。そんなものまで取っておくのか、と和也は少しだけ笑いそうになる。


 表へ出ると、夜の商店街はほとんど閉まりかけていた。

 手の中の油性ペンは軽い。数百円の買い物なのに、さっきの店では何かを無駄にしないことに妙な気迫があった。


 和也は歩きながら思う。


 ああいうの、疲れないんだろうか。

 なんでも取っておいて、なんでもきっちりして、少しも損したくないみたいに見える。

 自分にはあそこまで面倒くさい生き方は無理だ。


 でも、ああいう人がいるから、古い商店街の店ってまだ残ってるのかもしれない、とも少し思った。

 輪ゴムを取っておくとか、紙袋を畳むとか、そういう細かさで何かを持たせている人が世の中にはいる。自分には分からない執念だ。でも、分からないまま否定するほど、今の和也は元気でもなかった。


 倉庫へ向かう道で、ネオンの明かりがアスファルトに薄く伸びていた。和也はスマホを取り出して時間を見た。あと二十分で始業だ。間に合う。間に合うだけで十分だと思う。

 誰かみたいに先のことを考えて、資格を取って、正社員になって、結婚して、家族を養う。そういう速度に乗れなかったぶん、自分の世界はずいぶん狭い。

 でも、その狭さの中でどうにか呼吸している。

 それもまた、ひとつの生き方なのかもしれないと、最近は少しだけ思う。


 夜勤帰り、空が白みかけたころにその店の前をもう一度通ると、シャッターは半分閉まっていた。中ではさっきの女が、紙袋を畳んで棚へ戻しているのが見えた。ひとつも雑にしない動きだった。


 和也は少しだけ立ち止まった。

 朝の光の中で見ると、その店は夜よりさらに古く見える。古いのに、まだそこにある。誰かが毎日開けて、閉めて、数えて、取っておいて、足りないものが出ないようにしているからだろう。

 自分とは違う生き方だと思う。

 細かくて、面倒で、たぶんあれはあれでしんどい。

 それでも、ああいうやり方で残る暮らしもあるのだ。


 平和に生きることに決めた、と思う。


 べつに立派じゃなくていい。

 母親に呆れられても、ヘルパーの人にだらしないと思われても、さっきの店の女みたいに何もかも抱え込んで生きるより、自分には、これくらいのゆるさのほうがましだった。


 無理なもんは無理だ。

 それでだめなやつだと思われるなら、まあ、そうなんだろう。

 でも、死ぬほど頑張るくらいなら、そのほうがまだましだった。


 コンビニ袋をぶら下げたまま、和也は朝の道を歩いた。

 世間から見れば冴えない。

 母親から見れば腹の立つ息子だろう。

 ヘルパーの人から見れば、夜勤を言い訳に昼間だらついてる若いのだ。

 それでも少なくとも、今日もまだ壊れていない。


 それだけで十分な日がある。

 いや、十分とまでは言えなくても、とりあえずそれ以上を求めないことで助かる日がある。


 家へ着いたら、またゴミ袋があるかもしれない。

 母親に何か言われるかもしれない。

 洗濯物も、皿も、履歴書も、将来のことも、何一つ片づいていないままかもしれない。


 それでも、全部をいっぺんにちゃんとしようとは思わない。

 少しだけやる。

 やれない日は、やらない。

 やらないことで空いたぶんの力で、次の夜勤へ行く。

 そのくらいでいい、と決める。


 平和に生きることに決めた。


 それはたぶん、向上心のある人間から見れば、ただの逃げだ。

 親から見れば、腹立たしい開き直りだろう。

 自分で思うこともある。もう少し頑張れたんじゃないか、もう少しまともな道があったんじゃないか、と。


 でも、無理をしすぎて壊れるくらいなら、少しだらしないまま生きているほうがいい。

 ちゃんとしていないぶんだけ、まだ残っている体力がある。

 その残りかすみたいな体力で、今日も働いて、家へ帰って、また一日を越える。


 それでいい。

 少なくとも今の自分には、それがいちばん平和だった。

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