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『薄明の鴉たち』  作者: 根古野 雀句


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第3話 もう嫌われてもいい

 ドラッグストアの通路で、宮下典子は足を止めた。


 スマートフォンの振動は、今日に限ってもう三度目だった。画面には、昼にも着信のあった利用者家族の名前が出ている。出る前から、ろくな用件ではないと分かっていた。


 典子は少しだけ目を閉じ、それから通話ボタンを押した。


「もしもし」


 相手は、名乗りもせずに用件から入った。

 早口で、当然のような口ぶりだった。明日の時間を早めてほしい、ついでに買い物もお願いしたい、前はもっと融通をきかせてくれた、そういうことを言っているのだろうと、典子は聞きながら思った。


 レジへ向かう途中、少し張った声が自分の喉から出た。


「それは無理です」


 典子はレジ横の通路に立ったまま、スマートフォンを耳に当てる。

 地味なコートの袖口を、反対の手が少しだけ握っていた。


「今日これからは行けません。最初にそう言いましたよね」


 相手の声はまだ続いている。

 言い方だけで分かる。断られる前提のない人間の押し方だ。


「私、便利屋じゃないので」


 通路の先で、誰かが立ち止まりかけた気配がした。

 視線がある。だが、今はそちらを気にしている余裕がない。


「その言い方はやめてください。断ってるのに何度も言われると困ります」


 自分の声が、店内の明るさの中で少しだけ浮いて聞こえる。

 感じがいいとは言えないだろうと思う。

 たぶん、少し怖くも聞こえる。


 それでも典子は、言葉を引っ込めなかった。


「今日はもう切ります」


 返事を待たずに通話を終える。

 小さく息を吐いてから顔を上げると、少し離れたところに若い女が立っていた。きれいにメイクした、仕事帰りらしい服装の女だった。レジかごを持ったまま、こちらを見ている。


 典子は一瞬だけ視線を返した。

 謝るでもなく、気まずそうにするでもなく、ただ、見たなら見たで別にいいという顔しかできなかった。


 そのまま栄養ドリンクを一本だけつかみ、レジへ向かう。


 若い女も、少し遅れて列に並んだ。


 ドラッグストアを出てから、典子は鞄の中のスマートフォンを見直した。相手は、昼にも着信のあった長谷川の息子だった。


 明日の時間を早めてほしい。

 ついでに買い物もしてほしい。

 前はやってくれたのに。


 そういう言い方を、典子はもう何年も聞いてきた。


 前はやっていた。

 正確には、やらされていた。

 もっと正確に言うなら、断れなかっただけだった。


 我慢強いですね、と言われることが昔から多かった。


 それは褒め言葉の顔をしている。

 けれど、実際にはたいてい「もう少し使っても壊れなさそうですね」の意味だと、典子は四十を過ぎてから知った。


 訪問介護の仕事を始めて十年以上になる。

 利用者本人に対して何かをすることは、嫌いではない。むしろ向いているのだと思う。身体の動きが遅い人に合わせること。何度も同じ話をする人に相槌を打つこと。食事の温度や、手の届く位置や、声をかける順番みたいな細かいことを気にすること。そういうものは、典子の性分に合っていた。


 問題は、いつもその周辺だった。


 家族。

 職場。

 親族。

 元夫。


 本人の介助とは関係のないところで、「ついでに」「宮下さんなら」「前もしてくれた」「少しだけだから」と言われる。誰かが困っているのを見ると断りづらい。その一回を引き受けると、それが次から前例になる。気が利く人、頼みやすい人、融通の利く人。そうやって呼ばれているうちに、仕事と善意の境目はどんどん曖昧になった。


 元夫も似たようなものだった。


 暴力はなかった。酒癖も悪くなかった。世間から見れば、穏やかな男だったのだと思う。だが穏やかさと優しさは別だ。典子が疲れていても、「お前が我慢すれば丸く収まるだろ」と言う男だった。義母の通院も、親族の集まりの皿洗いも、細かな段取りも、いつの間にか典子の役目になっていた。


 丸く収まる。

 誰にとって。


 今ならそう思う。

 当時は思っても、口に出せなかった。


 駅から離れた住宅街のアパートへ戻るころには、空気が少し冷えていた。典子はコートのポケットに手を入れたまま歩く。今日の買い物は、結局のど飴ではなく栄養ドリンク一本だけだった。飲みたいわけではない。ただ、今日一日を越えるための印のような気がした。


 部屋に入ると、いつもの静けさがあった。

 元夫と別れて五年。

 子どもはいない。

 ひとりの部屋にも慣れたが、慣れたことと好きなことは別だった。


 上着を脱いで椅子にかけ、台所で電気ケトルをつける。湯が沸くまでの数分、何も音がない。こういう静けさの中では、ときどき昔のことを思い出す。


 親族の集まりで、皆が食卓を離れても自分だけが片づけていたこと。

 義母が「典子さんは優しいから」と笑ったこと。

 元夫がテレビを見たまま「ありがとう」とだけ言ったこと。

 ありがとう、があれば何でも帳消しになるわけではないのに、その頃の自分は、ありがとうの一言にまで自分の意味を預けていた。


 ケトルが鳴る。

 典子はインスタントスープを作り、立ったまま飲んだ。食欲はなかったが、何かを胃に入れておかないと明日の朝まで持たない。生活というのは結局、そういう小さな処理の連続でできている。


 翌朝は六時前に起きた。

 ヘルパーの朝は早い。利用者の朝食介助や通院付き添いがある日は、出勤前の空気そのものが少し薄い。


 顔を洗い、髪を束ね、地味な色の服に着替える。鏡の中の自分は四十二歳の女だった。若くはない。だが、終わっているほどでもない、と最近は思うようになった。そう思えるようになったのは、何かが良くなったからではない。たぶん、怒れるようになったからだ。


 事業所へ行くと、主任の西村がすでに来ていた。五十代半ば。悪い人ではないが、現場の人間の我慢を在庫のように扱う癖がある。


「宮下さん、今日ちょっとお願いあるんだけど」


 上着をロッカーに入れながら、典子はもうその時点で嫌な予感がした。


「何ですか」


「山内さんち、明日の午後が人足りなくてさ。宮下さん、入れない?」


 明日は休みだ。

 その休みも、母の通院付き添いをずらしてようやく取ったものだった。


「無理です」


 西村が少しだけ眉を上げる。

 その表情を見るのにも、典子はもう慣れていた。


「明日休みだよね?」


「はい。だから無理です」


「でも、空いてるといえば空いてるでしょ」


 空いている。

 この言葉も便利だ。

 働いていない時間は、誰かのために差し出せる空白だと勝手に換算される。


「予定があります」


「そこ、何とか」


「何ともなりません」


 典子が平板に言うと、西村は一瞬、苦笑いみたいな顔をした。


「最近ちょっと厳しいね、宮下さん」


 その言い方に、典子は妙に静かになった。

 厳しい。

 以前ならその一言だけで自分が悪い気がしたかもしれない。今は違う。


「前が緩すぎただけです」


 西村は何か言いかけて、やめた。

 典子もそれ以上は言わない。


 仕事が始まれば、身体は淡々と動く。

 朝一番の訪問先では、独居の老女の朝食を手伝い、服薬を確認し、デイサービスの送り出しまで付き添う。次の家では清拭。次は通院同行。昼をまたいで、買い物付き添い。人の生活を支える仕事というのは、派手さはなくても容赦がない。体力だけでなく、言葉と気配りがずっと必要になる。


 典子はそれを、きちんとやる。

 きちんとやるから、余計に押しつけられてきたのだとも思う。


 午後の最後は、例の長谷川宅だった。

 利用者本人は八十代の女性で、足腰が弱く、ひとりでの家事が難しい。本人は素直で、典子に対して失礼なことを言う人ではない。問題は家族のほうだ。


 チャイムを鳴らすと、ドアを開けたのは利用者本人ではなく、若い男だった。孫だろうと、典子はすぐに分かった。


 スウェットの上下。寝癖。片手にコンビニ袋。昼なのに、今起きたばかりの顔をしている。典子よりひとまわり以上若い。二十代前半くらいだろうか。


「あ、どうも」


 男はそう言って、体だけ横にずらした。

 謝るでもなく、笑うでもなく、ただ通れる幅だけ作る動きだった。


 家の奥から、利用者の怒った声が飛ぶ。


「和也! ゴミ出しまだなの!」


「今やろうと思ってたって」


 ぼそっとした返事。

 だが、その声に切迫感はない。コンビニ袋の中身も、菓子パンとカップ麺らしかった。


 典子は靴を脱ぎながら、思わず眉間に力が入るのを感じた。

 こういう若いのが一番腹が立つ、と思う。動ける身体があって、昼間に家にいて、親に言われても今やろうと思ってたで済ませる顔がある。やる気がないのを、どこかで許されると思っている感じがある。


 男はそのまま台所のほうへ消えた。

 利用者本人は申し訳なさそうに笑う。


「うちの孫、夜勤でねえ。昼間だめなのよ」


「そうですか」


 典子は短く答えて、エプロンをつけた。

 夜勤だろうが何だろうが、親にゴミ出しをさせていい理由には見えない。少なくとも今の典子にはそう思えた。


 介助を終え、記録をまとめていると、

玄関のほうで物音がした。

背広姿の男が入ってきて、典子を見るなり言った。

「あ、ちょうどよかった。母の保険証のコピーとかって、ついでに取ってもらえます?」

長谷川の息子だった。電話口と同じ、当然のような言い方だった。


 ついでに。

 またその言葉だ。


「それは家族の方でお願いします」


「え、でもすぐですよ」


「ヘルパーの業務ではないので」


 男は少しだけ不満そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。

 言わないだけ、昨日よりはましなのかもしれない。

 けれど典子は、どちらにしても疲れた。


 事業所へ戻るころには、夕方の光がもう薄くなっていた。

 西村は外へ出ていて、ロッカー室には誰もいない。典子は上着を取り出しながら、今日一日で「無理です」を何回言っただろうと考えた。三回か、四回か。そんなものだろうか。もっと言った気もする。


 以前の自分なら、そのたびに自己嫌悪していた。

 感じが悪かった。

 空気を悪くした。

 協調性がないと思われた。

 そうやって、自分を責める仕事まで自分で引き受けていた。


 今も嫌な感じは残る。

 誰かが不機嫌になった顔も思い出す。

 だが、それでもなお、引き受けなかった自分のほうが少しましだった。


 帰り道、母からメッセージが入る。

 明日の病院、時間変わらないよね。

 たったそれだけの文面に、以前なら「念のため、何か他にいるものある?」と返していただろう。典子は画面を見て、少し考え、それから「変わらないよ。終わったらそのまま帰るね」とだけ返した。


 それで十分だと思った。


 夜道を歩きながら、典子は今日ドラッグストアで見た若い女の顔を思い出していた。きれいにしているのに、どこか少し疲れていて、何か別のところを見ているような目だった。あの年齢の女にも、たぶんあの年齢の女なりのしんどさがあるのだろう。そう思ったところで、別に優しくなれるわけでもない。ただ、世の中にはそれぞれのやり方で削れている人間がいるのだという、ぼんやりした事実だけが残る。


 部屋へ帰り、靴を脱ぎ、鞄を置く。

 誰もいない。

 静かだ。

 それでも今夜の静けさは、昔ほど悪くなかった。


 怒っているからかもしれない、と典子は思う。


 怒りは汚い。

 感じも悪くなる。

 人を遠ざける。

 実際、最近の自分は前より好かれにくいだろう。


 でも、怒らなかった頃の自分は、もっと簡単に削れていた。

 怒らないことを優しさだと思っていた頃のほうが、よほど危なかったのかもしれない。


 洗面台で顔を洗いながら、典子は鏡の中の自分を見た。

 疲れている。

 目元も少し重い。

 けれど、前よりは輪郭がある。


 もう嫌われてもいい、と思う。


 本当はよくない。

 嫌われたくないに決まっている。

 誰だって感じのいい人間でいたい。

 それでも、好かれるために自分を差し出し続けるくらいなら、そのほうがましだった。


 ベッドに入る前、典子は明日の予定をもう一度だけ確認した。

 母の通院付き添い。

 買い物。

 洗濯。

 それだけだ。


 それだけのことを、それだけで終わらせるためにも、怒りは必要なのだと思う。


 怒っているうちは、まだ自分を見捨てていない。


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