第7話 求められること即ち
出勤前、環は駅前のガラスに映る自分を見た。スマートフォンの黒い画面を鏡代わりにして、口紅の輪郭だけ指で軽く押さえる。今日の顔は悪くないと思う。派手すぎない。隙がありすぎもしない。笑えば近づきやすく、黙れば勝手に想像してもらえるくらいの顔。それを自分で分かっているところが、少し嫌だった。
「いらっしゃいませ」
男が階段を上がってきた時点で、だいたい分かった。
今日のその人は、しゃべりたいわけではない。
でも、完全に放っておかれるのもたぶん嫌だ。
ひとりで来て、ひとりで飲める顔をしているくせに、ひとりのままでは少し持たない夜の顔をしている。
環はカウンターの内側でグラスを拭きながら、入口に立った男を見た。
三十代くらい。
シャツの襟元が少し緩んでいて、ネクタイはもう外している。上着は持っていない。会社帰りなのだろうが、まっすぐ家に帰って、風呂に入って、適当なものを食べて寝る、という流れをこなせる人間の顔ではなかった。うまく力の抜けない疲れ方をしている。目の奥だけが妙に冴えていて、そのくせ身体はもう今日を終えたがっている顔だ。
「お久しぶりですね」
環がそう言うと、男は少しだけ目を細めた。
「そうだっけ」
「三週間ぶりくらいです」
たぶん、本当は二週間と少しくらいだった。
でも、そのくらいの誤差は問題にならない。大事なのは、ちゃんと覚えていましたよという顔を、相手に無理なく渡すことだ。環はそういうことが得意だった。
男はカウンターの端に座った。
環は水を置いて、注文を急がせない間を少しだけ作る。メニューを差し出す角度も、視線を引くタイミングも、全部もう半分は癖になっている。詰めすぎるとしんどい客もいる。放っておかれると、それはそれで自分の存在が薄くなるような顔をする客もいる。この男はたぶん後者だった。
「仕事、忙しかったですか」
「まあ」
短い返事。
それ以上聞いてほしいわけではないが、黙りきりでもいられない。そういう温度。
「顔に出てますよ」
環が少しだけ笑って言うと、男も苦笑した。
そういう笑い方を引き出せたら、だいたい最初の一歩はうまくいっている。
バーの仕事は、酒を出すだけではない。
相手のほしがっている扱われ方を、なるべく角のない形で返すことだと環は思っている。慰めてほしい人もいれば、放っておいてほしい人もいる。褒められたい人、話を聞いてほしい人、自分のことをちゃんと見てもらった感じだけがほしい人。その全部を、客自身より少し早く察して、ちょうどいい温度で渡す。
環はそれがうまい。
昔から、人に好かれるのがうまかった。
その“うまさ”は、べつに自慢できる種類のものではない。
相手が求めている顔をするのがうまいだけだ。声の高さ、相槌の置き方、目を合わせる長さ、笑うタイミング。何を言えばこの人が少し安心するのか、何を言わないほうがいいのか。そのへんが、なぜだか昔から分かった。
だから仕事にもなった。
だから恋愛にもなった。
そしてたぶん、それだけでは済まなかった。
「何か、食べます?」
「いや、今日はいい」
そう言いながら、男の目がカウンターの端に置いてあるミックスナッツへほんの少しだけ落ちたのを、環は見逃さなかった。
小皿を取って、少しだけ盛る。
「サービスです」
「いや、悪いよ」
「こういうのは、ちょっとあるほうが落ち着くじゃないですか」
男は少しだけ笑って、小皿を受け取った。
その笑い方で分かる。今日この人は、ちゃんと救われたいわけではない。ただ、自分が今ここにいてもいいと確認できる程度のやわらかさが少し要るだけだ。
環は別の客のグラスを拭きながら、たまに視線を戻した。戻すたびに、男の肩の力がほんの少しずつ抜けていく。そういう変化を見るのが嫌いではない。嫌いではないどころか、その瞬間だけ、自分の輪郭まで少しはっきりする。
ああ、今この人は自分を必要としているのだな、と思う。
必要とされる。
それは環にとって、思っているよりずっと大きいことだった。
閉店は午前二時を回る。
最後の客を送り出して、グラスを洗って、カウンターを拭いて、照明を少しずつ落としていく。店に人がいる間は、環は自分がちゃんとそこにあると分かる。誰かが名前を呼ぶ。注文をする。目を合わせる。笑う。そういうものの中で、自分は輪郭を保てる。
だが、店の灯りを落としきったあとがいちばん危うい。
更衣室でピアスを外し、髪をほどき、スマホをバッグにしまう。鏡の中にいる女は、さっきまで客の前にいた女と少し違う。メイクの端が落ちて、口紅も薄くなっている。仕事終わりの顔だ。自分の顔のはずなのに、急に借り物みたいに見える時がある。
ビルを出ると、夜はもうだいぶ薄い。
コンビニの明かりだけが妙に白い。
人通りは少ない。
駅前のざわつきも、この時間になると急に遠くなる。
部屋へ帰る途中、環はスマホを見た。
通知が二つ。
一つは店のグループ連絡。
もう一つは、名前をつけにくい男からのメッセージだった。
> まだ起きてる?
環は歩きながら、その文字を少し見た。
べつに特別な相手ではない。恋人とも言いにくいし、将来がどうこうなる相手でもたぶんない。会えばそれなりにやさしいし、体温もある。そういう人だ。
返信はすぐにはしなかった。
しなかったが、消しもしなかった。
部屋に帰る。
鍵を開ける。
靴を脱ぐ。
電気をつける。
たったそれだけの動作で、空気が急に薄くなる。
誰もいない部屋は、いつも少しだけ広すぎる。
ベッド。
小さなテーブル。
脱ぎっぱなしのカーディガン。
飲みかけの水。
昨日の自分の痕跡ばかりで、今の自分を引き留めるものがない。
環はバッグを置いて、そのまま床に座った。
静かだった。冷蔵庫の低い音だけがしている。こういう静けさの中に入ると、ときどき自分がひどく曖昧になる。別に今すぐ死にたいわけではない。泣きたいわけでもない。ただ、自分がひとりの部屋に置かれた瞬間、輪郭が少しずつ薄くなっていく感じがある。
誰にも見られていない。
誰にも呼ばれていない。
誰にも求められていない。
この感覚がいつからあるのか、環にもよく分からない。学生のころには、もう少し違う形だった気がする。友達と一緒にいても、ときどき自分だけ急に平たくなる瞬間があった。皆で笑っているのに、自分の笑い声だけ少し遅れて届く感じ。恋人と会っていても、帰りの改札で背中を向けた瞬間、自分の顔がさっきまでと同じものか自信がなくなる感じ。店の仕事を始めてから、その薄くなり方はもう少しはっきりした。夜のあいだ濃くなった分だけ、ひとりになったときの反動も強くなった。
そう思うと、自分が急に手触りのないものになる。
環はスマホを開いた。
さっきのメッセージはまだそこにある。
> まだ起きてる?
呼ばれている。
必要とされているかどうかは分からない。
でも少なくとも、今この瞬間、誰かの意識の端に自分がいる。
それだけで少し息がしやすくなるのを、環は知っていた。
スマホを持ったまま、しばらく動かなかった。
こういうとき、自分が何をしているのかくらいは分かっている。寂しいのだ。たぶん。それを認めるのは少し悔しいし、ずいぶん安い人間みたいでもあるけれど、ほかに言い方がない。
恋をしているのかと言われると、違うことも多い。
好きな相手はいる。いたこともある。
でも、好きだから会う夜と、沈まないために会う夜は、きれいに分かれていない。
環は一度だけ、返事をせずにシャワーを浴びたことがある。その夜は、部屋の床に座ったまま髪も乾かさず、気づいたら朝の四時を過ぎていた。通知は来ない。呼ばれない。誰にも必要とされていない感じだけが、静かに濃くなった。翌日は店でうまく笑えなかった。たったそれだけのことなのに、声の角度が決まらず、客の冗談に返すタイミングが遅れた。ああ、自分はこういう夜を何もなしで越えるほど強くないのだと、その時はっきり分かった。
環は返信した。
> 起きてるよ
数秒もしないうちに返事が来る。
> これから少し会える?
環は画面を見て、小さく息を吐いた。
会える。
会ってしまえば、そのあいだは少なくとも自分がどこにもいない感じからは逃げられる。相手が求める顔をして、相手の腕の中にいるあいだだけは、自分の輪郭がぼやけない。
それがいいことかどうかは、たぶん別の話だった。
シャワーだけ浴びて、軽く化粧を直した。
深夜に誰かと会う女の顔になる。そういう顔は、自分でもよく知っている。派手すぎない。隙がありすぎもしない。相手にとって都合のいいやわらかさを持っていて、自分でもその都合のよさを少し分かっている顔だ。
待ち合わせたのは駅から少し離れたビジネスホテルの前だった。
男は先に来ていた。
環より少し年上で、既婚か未婚かは曖昧なままの男だ。最初は店の客だった。そこから先は、よくある話だと思う。環は笑って、相手は少しだけ勘違いして、でも勘違いだけでは済まなくなって、それで会うようになる。
「ごめん、遅くなった」
「全然」
男はそう言って、環の顔を見る。
その見方だけで分かる。今日はちゃんと、会いたかったのだ。体だけではなく、今夜の自分を受け止めてくれるものとして環を呼んだ。その求め方が、環には少しだけ心地よかった。
ホテルに入って、部屋のドアが閉まる。
そういう場面になるまでの流れは、もうだいたい決まっている。コンビニの袋を机に置く。上着を脱ぐ。たわいもない話を一つする。触れるまでの数分で、お互いに少しだけ今日の顔を脱ぐ。
環は、こういうときに相手が何を欲しがっているかをほとんど反射で読める。
やさしさ。
甘さ。
少しの無防備。
自分だけは拒まれていない感じ。
相手の求める温度に合わせることは、環にとって難しくない。
難しくないことが、少しだけ悲しい時もある。
触れられる。
肩に手が乗る。
首筋に息がかかる。
髪に指が入る。
その一つひとつで、自分の身体がようやく自分のものになる気がした。ひとりで部屋にいるとき、自分の腕や脚が少し借り物みたいに感じることがある。誰かの手がそこへ触れると、急に輪郭が戻る。ここにいる。まだ消えていない。そう思える。
まだ大丈夫。
まだ私は、誰かの体温の届くところにいる。
その安心は、本当に一瞬だけだ。
けれど一瞬でも、ないよりずっとましだった。
男は環の頬に触れながら、「最近どう?」と聞いた。
こういうときに限って、人は少しだけ真面目なことを言う。
「どうって?」
「いや、店とか。ちゃんと寝れてる?」
環は少しだけ笑った。
「寝れてるよ」
半分、嘘だった。
寝れていないわけではない。
でも、寝る前に誰とも繋がっていない感じが濃くなる夜はある。
男はそれ以上聞かなかった。
聞かないのが、この関係の正しいところでもある。
ほんとうの意味で大事にしようとはしていないからこそ、深いところまで踏み込まれない。
踏み込まれないからこそ、今夜みたいに会える夜もある。
それでも、その浅さに救われる夜がある。
朝方、男が眠ったあと、環はひとりで天井を見ていた。
カーテンの隙間が少し白くなり始めている。眠れないわけではない。ただ、安心が一度引いたあとの身体は、すぐには静かにならない。
隣に人がいる。
さっきまでの体温がまだシーツに残っている。
そのこと自体は、確かに救いだった。
でも同時に、少しずつ別のものも戻ってくる。
これが何になるわけでもないこと。
この人はたぶん、自分が思うほど自分を必要としていないこと。
自分もまた、この人を人生として欲しがっているわけではないこと。
会って、触れて、少し楽になって、それで朝になるだけだということ。
環は自分が誠実とは言いにくいことを知っていた。
相手に期待を持たせている夜も、たぶんあった。
自分だって、誰かの手を借りて自分の輪郭を確かめているだけのくせに、その場では少しだけ本気の顔をすることもある。
ずるいなと思う。
汚いなとも思う。
自分自身を雑に使っている感覚も、ちゃんとある。
それでもやめないのは、やめたあとの静けさを知っているからだった。
男が起きる前に、環は先に部屋を出た。
顔を洗って、髪を結び直して、スマホを見る。特に重要な通知はない。朝の街はもう普通に動き始めている。通勤の人、コンビニの袋を持つ人、犬の散歩をしている老人。夜のあいだだけ許されていた曖昧さが、朝になると急に場違いになる。
駅まで歩きながら、環は少しだけ空腹を覚えた。
コンビニでおにぎりを買う。鮭と、昆布。ついでに温かいお茶。そういう普通の買い方をしている自分が、少しだけおかしかった。
部屋へ戻ると、昨日脱いだ服がそのままだった。
鏡を見る。
化粧の薄い顔。
少し疲れているが、別に悲劇の顔はしていない。
それがいちばん厄介だ、と環は思う。
人は本当に壊れそうなとき、分かりやすく壊れた顔をしてくれない。少なくとも自分はそうだ。ちゃんと笑えるし、仕事もできるし、人に好かれる顔もできる。そのまま静かに薄くなっていくことだってある。
ベッドに倒れ込む。
冷えたシーツに触れた瞬間、さっきまでそこにあった他人のぬくもりだけが、逆にはっきりと思い出された。
求められること即ち――
その先を、環はまだうまく言えなかった。
愛なのかもしれない。
ただの錯覚かもしれない。
もっと別の、あまりきれいではない何かなのかもしれない。
それでも今は、これで沈まずに済んでいる。
夕方、また店に出た。
カウンターを拭き、氷を足し、ボトルを並べる。客が来る前の時間、店はまだ誰のものでもない。環は鏡代わりのボトル棚に映る自分を見て、口元だけを少し直した。
営業が始まれば、また何人かの男が入ってくる。女同士の客も来る。愚痴を言いたい人、黙って飲みたい人、少しだけ慰められたい人。環はたぶん、またその人たちにちょうどいい顔をする。そして相手の中に自分の居場所を少しだけ借りる。
危うい。
たぶん傷も増える。
いつかはしっぺ返しも来るのかもしれない。
それでも今のところ、これがないよりはあったほうがましだった。
カウンターの端に昨夜の男が座った席を、ふと目でなぞる。あの人はあの人で、食べることで夜を終わらせているのだろうと思う。たぶん世の中には、そういうふうにしか今日を越えられない人が、思っているよりたくさんいる。
自分を特別だと言い聞かせて立っている人もいる。
人を羨んで、まだ欲しいのだと確かめる人もいる。
怒ることでようやく自分を守れる人もいる。
頑張れないまま壊れずに済んでいる人もいる。
なくなる前に抱え込んで眠る人もいる。
食べて、胃を重くして、やっと一日を黙らせる人もいる。
自分はたぶん、求められることでどうにか沈まないでいる。
きれいじゃない。
立派でもない。
でも、それで今日も仕事に出られる。
それで今日も、部屋の静けさに完全には飲まれずに済んでいる。
開店の時間になって、最初の客が階段を上がってくる。
環は顔を上げて笑った。
「いらっしゃいませ」
その声は、ちゃんと今夜の自分の声だった。
求められることで、今夜も沈まずに済んだ。
たぶん今は、それでいいのだと思う。
白でも黒でもない、まだ名前のつかない薄い明るさの中で、人は案外そういうふうに生き延びているのかもしれなかった。




