91 息を殺してじっと待っていたの
森の中を駆け抜けた為に上がってしまった息を整えて、グレイペコーは二区へ続く鉄柵の扉を開いた。
既に夕暮れは色濃く広がり、目の前の伝言局を赤く染め上げている。
二区の伝言局は他区画より規模が小さいものの、区画自体の敷地が広い為か、森へ続く門と裏口までの距離が大きく取られている。
この時間帯では、残っている局員もいないのだろう。耳が痛い程に静まり返ったその空間をゆっくり埋めるようにして歩いているグレイペコーは、赤い瞳を眇めて裏口の扉に背を預けている男を見た。
「……フィスカス」
「やっぱり、お前が来たか」
大袈裟に息を吐き出したフィスカスは、扉から身体を離して肩を竦めた。
軽薄そうに見える跳ねた赤髪に、猫のように細められた明るい緑の瞳。
いつものように不真面目そうで、視界に入れただけで苛立たしい笑みを浮かべているのに、それがやけに作りものめいて見えるのは、きっと気のせいではないのだろう。
使い古した革製のケースに包まれたナイフが腰に下げられているのを見て、グレイペコーは手にしていたハンマーの柄に僅かに力を込めた。
「忠告、したのにな」
言葉の上では残念そうに、けれど、声の抑揚からは然程感情が込められていなさそうに、彼は言う。
「あんな謎かけじみた言葉、忠告って言わないと思うけど」
溜息を零してそう言えば、フィスカスはわざとらしく肩を竦めてみせた。
彼は全てを知っていたのだろう。ガーラという女性が教えてくれた通りに。
その事に、グレイペコーは落胆も軽蔑もしなかった。
それらが本当に事実だとしたなら、今までの彼の行動には全て納得出来たからだ。
だからといって、全てを許せるわけではないけれど。
フィスカスは珍しく軽口を叩く事なく、じっとグレイペコーの様子を伺っている。
その手が、腰のナイフをいつでも取り出せるようにしているのを、グレイペコーは視界の隅に捉えていた。
ぴり、と緊張感でひりつく空気の中、二人の間に響いたのは、この場にはそぐわない明るい声。
「あれ、先輩? フィスカスさんも。こんな時間に配達ですか?」
ふわふわの茶色の髪を揺らして現れたのはアルティで、二人を交互に見やると不思議そうに首を傾げている。
速達業務は緊急時に関しては時間を問わず行き来をする事があるけれど、大抵が伝言局の業務時間内に行われている。
だからこそ、こんな夕暮れに速達担当の配達員が二区へ訪れているのを、アルティは疑問に思っているのだろう。
「アルティ、ジルバはどこ?」
フィスカスから視線を外したグレイペコーが問いかけると、アルティは困ったように眉を下げた。
「すみません、実はさっきから姿が見えなくて……」
アルティも探しているんですけど、と肩を落とす彼女は、後追いの子供のようにも思えなくもない。
それだけジルバを信頼しているのだろう。
二人の間にある強い繋がりは、端から見ていたグレイペコーにもよくわかる程だ。
だからこそ、今の状況は彼女にとって、不安が募ってしまうだろう、とも。
フィスカスはそんなアルティを見て、は、と息を吐き出して笑っている。
「なあ、アルティ。その小芝居、いつまで続ける気なんだ?」
「え?」
呆けた顔で、アルティが声を零した。
グレイペコーは視線だけでフィスカスに言葉の意図を問いかけるが、彼はそれに答えるつもりはないらしい。ただじっと、アルティを見つめている。
笑みを浮かべているのに、その鮮やかな緑色の瞳は、いつになく冷たく見えた。
「えっと……フィスカスさん、ご機嫌斜めですか? 何だか怖いですよ」
戸惑うようにして苦笑いを浮かべ、肩を縮めたアルティに、フィスカスは笑みを消して、彼女を見る。
周囲には沈黙が漂うばかりで、誰も口を開こうとしない。
フィスカスは一度視線を外し、深く長く息を吐き出すと、口端を引き上げて再びアルティに顔を向けている。
「妹だけ残したのはわざとか? 案外、意地が悪いんだな」
その瞬間、フィスカスに向かって、何かが勢いよく襲いかかっていた。
空気を引き裂くような音を立てて飛んでくるそれを、けれど、フィスカスは瞬き一つせずに、ハンマーによって叩き落とされるのを見つめている。
耳障りな甲高い金属音が辺りに響いて、グレイペコーは眉を寄せながら自らが払い落とした物を見た。夕暮れの赤に染まる中、それは鈍い光を反射している。
「もう、意地悪なのはフィスカスさんの方じゃないですか」
からからと回転し、地面に転がる手斧を気怠げに拾い上げた少女は、いつもと全く変わらない明るい笑顔を浮かべてみせた。
手にした物とそっくり同じ使い込まれた手斧が、もう片手にも握られて、いて。
少女が持つにはあまりに不似合いである筈なのに、妙に馴染んで見えるのは、彼女と共に研鑽を積んだ日々があったからだろう。
「アルティは猫を被るのあまり得意じゃないんです。手を煩わせないで下さいね」
もっとも、そんな言葉を吐いた彼女が浮かべる、背筋が凍る程の笑顔を、グレイペコーは一度たりとも目にした事はなかったのだけれど。
「驚かないんだな」
視線も合わせずにフィスカスが言うけれど、グレイペコーはそれに答える事はない。
ただ、対峙するアルティを真っ直ぐに見つめて、微かに震える息を吐き出していた。
「……やっぱり、ジルバだったんだね」
伝言局を、ボク達を裏切っていたのは。
唇を噛み締めて、グレイペコーはハンマーの柄を強く握り締める。
信じたくはなかった。
けれど、事実を知った時、妙に納得がいった。
イヴルージュが信頼を置いていて、内部の情報を細やかに知れる人物。
尚且つ、それら全てを欺けて動けると言うのなら、そんな人間は彼しかいない、という事は、グレイペコーも理解していたのだ。
彼の目的もその理由も分からないし、分かるかどうかと聞かれれば、きっと、否を唱えただろうけれど。
「アルティ、ジルバはどこにいるの」
先程と同じ問いかけではあるけれど、意図は違う。
その事にアルティも気付いているのだろう。面倒そうに息を吐き出して、くるりくるりと手斧を回している。
「先輩。もしかして、この状況でもアルティが師匠を庇ってるって思ってます?」
くすくすと吐息混じりに笑う彼女を、フィスカスは無表情のまま、グレイペコーは僅かに眉を寄せて見つめている。
もう、おっかしいなあ、と呟いて、アルティはいつものように明るく朗らかな笑顔を浮かべて見せた。
「優しいですね、先輩は」
言いながら、アルティは片手の手斧をくるりと回してしっかりと握り締めている。
「本当、優しいです。──反吐が出るくらいに」
手斧を構えて、いつもの笑顔のまま冷たい眼差しを向けてくるアルティに、グレイペコーは愕然として、震える唇を噛み締める。
彼女がこうするだろう事は、ジルバを疑った時点で想定していた。
アルティは誰よりもジルバを信頼しているし、慕っていると、彼女を知っている者なら誰もが口にしただろうから、きっとジルバを庇うだろう、と。
けれど、実際にこうして対峙してみると、言いようのないやるせなさに苛まれそうに、なる。
フィスカスは芝居がかったような仕草で肩を竦めて大きく息を吐き出すと、何処か呆れたように笑みを浮かべていた。
「三区で起きた貴族の毒殺事件。あれは、お前がやったんだろ?」
グレイペコーはその言葉に、眉を顰めた。
彼の言っているのは、少し前にアルティの実家で起きた殺人事件ついてに違いない。
彼女の両親と複数の使用人が犠牲になり、生き残ったのはアルティの妹と勤務していなかった僅かな使用人達だけと聞いている。
「屋敷の飲み水に高濃度の薬物が投げ込まれてたとか。まさか、誰も飲み水にそんなものが入ってるなんて思わないだろうからな。一体、誰から手に入れた物なんだか」
妹だけ残した、という先のフィスカスの言葉は、この事だったのだろう。
父親には関心を持たれず、母親からは疎まれ蔑まされてきたアルティの過去からして、真っ先に疑われるのは彼女であり、自らの罪をなすりつける為に、妹を残して他の人間を殺害した。そう考えれば確かに辻褄も合う。
普段の彼女を知っている者なら、直ぐにそれを否定しただろうけれど。考えて、グレイペコーは彼女を見た。
口元にしなやかな指を添え、くすくすと吐息混じりに笑う彼女は、フィスカスの言葉に僅かも動揺する様子はない。
それどころか、楽しげに、「へえ、そうなんですか? 怖いですねえ」などととぼけた言葉を吐き出している。
「きっと、苦しくて辛くて耐えられない程の痛みで、みっともなく地面でのたうち回りながら絶命したんでしょうね! ああ、とってもかわいそう!」
今まで一度だって聞いた事のない彼女の、耳障りで甲高い笑い声が辺りに響いた。
それまで完璧に隠し切っていた本性をようやく曝け出した事を悦ぶかのように、アルティは身体を折り曲げて愉しげに笑っている。
夕日で照らされ、赤く染まる中で、それは異様な光景に見えた。
「……アルティ、どうして」
掠れた声でグレイペコーが問いかけると、アルティはぴたりと笑い声を止め、笑みを貼り付けたままに、ことりと首を傾けている。
「どうせこの国の人間なんてブルーブロッサムに侵食されて全員いなくなっちゃうんですから、ちょっとくらい時期が早まったって、良くないですか?」
アルティはゆらゆらと手斧を揺らして、唄うように言う。
だって、子供を虐めるような悪い人がいなくなったって誰も困らないじゃないですか。
それを見て見ぬふりをする酷い人達なんていなくなった方がいいじゃないですか。
師匠みたいな優しい人だけがいればいいじゃないですか。
淡々と粛々と、彼女はそう言って、揺らした手斧をくるりと回してから、しっかりと持ち直した。
「師匠は、あの人達に傷つけられたアルティに、同じように苦しめる方法を教えてくれたんです。アルティみたいな思いをしている人の為に、師匠は動いているだけなんですよ」
だから、邪魔しないで下さい。
アルティは明るい緑の眼でグレイペコー達を冷たい眼差しで見つめると、鋭く研ぎ澄まされた切先を真っ直ぐに向けている。
「聞こえがいい言葉だけ並べているようにしか思えないけどな」
フィスカスは呆れたような口調で、蔑むような言葉を吐き出した。
その様子を見たアルティは今までの笑みを消し、何の感情も乗せない顔で、言う。
「アルティはアルティの信じる事を、信じるままに動いているだけです。それの、何が悪いって言うんですか?」
くるり、回した手斧に力が入っているのが分かったのは、彼女の指先が白くなっていたからだ。
それが怒りからなのか悲しみからなのか、それとも、どれとも全く違う別の感情からくるものなのか。それは、グレイペコーには全く分からなかった。
「そうやって自分を正当化する為に自分に言い聞かせてるのは、そうでもしないと自分を保てないからなんだろ」
だから、自分の中身がどれだけ腐り切っているのかも気付かない。
呟いたフィスカスは、珍しく嫌悪の感情をありありとその横顔に映している。
対して、グレイペコーは彼とは同じようにはなれなかった。
気持ちは酷く凪いでいて、胸底は冷え切ったように感じられる程に。
「いいか悪いかは、アルティが決めればいい事だけれど……」
そう言って、グレイペコーは手にしているハンマーの柄を握り直した。
グレイペコーが自分の生き方を自分で見つけたように、アルティが何を考え、何を望むのかは、彼女の自由だ。
けれど、そのせいで引き起こしてしまった惨劇は、なかった事には出来ない。
してはいけない。
ゆっくりと瞬きを繰り返して、グレイペコーはアルティの緑眼を真っ直ぐに見据える。
「だけど、ボクはそれを理解出来ないし、したいとも思わない」
グレイペコーがハンマーの柄を握り直すと、アルティは憂げに瞬きを繰り返して、グレイペコーを見つめていた。
「……ふふ、やっぱり先輩は優しいですね。そういう所は、師匠に少しだけ似てます」
震える睫毛の先に、彼女の淋しさを見たような気がしたけれど、それも、瞬きの合間だけの事。
まるで幻だったかのように、直ぐ様、皮肉げな笑みに変わってしまっている。
「師匠は、優しいんです。あまりにも優しくて、優しすぎるから……」
そうして一度言葉を切って、彼女は眼を開いた。
「だから、アルティが守らなきゃいけないんですよ」
緑の眼を細めて、アルティは言う。
くるりくるりと回した手斧は、真っ赤に染まる夕焼けの中、鈍い光を反射している。




