92 夜を纏って気まぐれに飛び出しただけ
そのメッセージカードが届けられた時、手のひらの上に乗る小さなこの紙は、なんてちっぽけなものなのだろう、とアルティは思った。
ただただ滑稽で薄っぺらく、何の重みもあたたかさも、繋がりと呼ばれるものなど到底感じられはしない、と。
其処には確かさなんてない。
あれほど助けを求めて許しを乞いていたものが、水のように掴めずに、空気のように希薄なものでしかなかったのだ、と改めて思い知らされたのだ。
届いたメッセージカードには、とうに忘れかけていた母親の名前が記されていた。
それだけで、内容を見なくとも何故これが自分に届けられたのかを、アルティには理解出来てしまっていた。
馬鹿な女だ、と、思う。馬鹿な女。
母の不貞を知る娘が、いつ口を開いて罪を暴いてしまうのか。それを未だに怯えている事に耐えかねて、とうとう我慢ならなくなってしまったのだろう。
自らの尊厳や価値や欲望を守る為に、腹を痛めて産んだ子供を殺める事さえ厭わない親がいるものなのか。
腹の底から笑いが込み上げてくる。
唇から、笑い声が漏れ出るのが止められない。
「そうですよ、アルティが殺したんです。ブルーブロッサムの毒素を更に濃縮させた薬物を、飲み水に混ぜて殺したんです」
言いながら、アルティはブーツの爪先を、トン、と地面に当てた。
目の前に対峙するグレイペコーは真っ直ぐに見つめてくるのにその表情はどこか悲しげで、きっと哀れに思っているに違いない。
そして、隣にいるフィスカスに至っては、軽薄そうな笑みを浮かべながらも、その眼は全く笑っていない。軽蔑、しているのだろうか。
彼らはきっと、いつか娘が自らの秘密を暴露するのではないか、と忌々しく感じている母親がいるなど思いもしないだろう。眼を眇めて彼らを見つめたアルティは静かに思う。
その恐れの為に、娘を呼び出して手をかけようなどという母親がいるだなんて、と。
「何がいけないんですか?」
くるり、手斧を回してアルティは口端を引き上げる。
「先にアルティを傷つけてきたのは──、あの女の方なのに!!」
地面を蹴り、ぐんと背を屈めて二人の懐を目掛けて飛び込むと、アルティは手斧を左右に振り薙いだ。
両端に避けていく二人を確認し、爪先に力を込めて身体を捻る。そのまま左に避けたフィスカスに向かって手斧を下から切りつければ、彼は明るい緑の眼を細めて眉を顰めていた。
まるで、こちらの非を責めているかのように。
「何度も謝っても何度も泣き叫んでも、ほんの少しだってアルティに眼を向けた事さえなかったくせに!!」
アルティは叫び、ナイフによって切先を弾かれた手斧を握り直した。
じんと痺れる感触が指先から伝わり、不快感が胸底から湧き上がってくる。
綺麗事なら何とでも言える、とアルティは身を以て知っている。
傷つけられ続けた人間が平然とした顔で生きているように見せかける為に、どれだけの尊厳を踏みつけられてきたと思っているのだろう。
悲しみや苦しみが人それぞれで違うなんて、どれだけの人間が知っているのだろう。
聞こえのいい言葉を並び立てて、憎しみを抱える自分を欺く事がどれだけの屈辱なのか、一体誰が知っているだろう。
この胸から湧き上がる憎しみが、一瞬だって消える事なんてなかった。
そんな事を、一体誰が理解してくれるというのだろうか。
メッセージカードが届いた翌日、師匠と呼び慕う彼から手渡されたのは、ほんのりと輝く青い液体が入った小さな瓶だった。
これさえあれば、あの人達はみんないなくなる。
その瞬間、頭に浮かんだのは、自分を蔑み甚振っていた母親。存在すら認めようとしなかった父親。疎ましく思っていただろう使用人達。
みんな、みんな、この瓶ひとつで消してしまえるのだと分かった時、アルティは心の底から安堵したのだ。
これでやっと、自分を脅かしていたものはいなくなる。
これでやっと、自分は自分でいられるのだ、と。
「正当防衛じゃないですか」
頭上へ大きく振り被り、手斧の重量を利用して勢いよく振り下ろすと、辺りに砂煙が舞う。
手斧は地面にめり込み、その威力を知らしめていた。
アルティが顔を上げれば、深く長く息を吐き出したフィスカスは、面倒そうに肩を竦めている。
「そういうの、過剰防衛って言うと思うんだけどなあ」
呆れたようなフィスカスの言動に、君は少し黙ってて、とグレイペコーは渋面を浮かべて苦言を呈していた。
「フィスカスさんは、アルティの気持ちをわかってくれると思ったんですけど」
アルティが言えば、フィスカスの明るい緑の眼は僅かに細められた。
その事に、アルティは胸がすっとして口端を引き上げる。
「知っていますよ。フィスカスさんって、ピエデラの一員なんでしょう?」
三区で蔑まされている、身体の一部が欠損した女性達──ピエデラ。
男性である彼がどうして彼女達の仲間であるのかはわからないけれど、それを必要としている理由は、アルティも知っている。
治安の悪い場所で生まれ育ち、あらゆる危険を回避し上手く状況を見て生きてきた彼女達が、諜報活動を得意としている事も。
「ピエデラなら、蔑まされてきた人の気持ちを痛い程わかるんじゃないですか?」
誰からも必要とされない人間の気持ちが、分かるんじゃないですか。
同じように虐げられた人間同士だ。悲しみも痛みも他者と比べられるものでないにせよ、行き着く思考は大抵同じだろう。
アルティが見つめる、自分とよく似た鮮やかな緑色の瞳を持つフィスカスは、役から降りた演者のように感情らしい感情を抜け落とした顔をして、ゆっくりと瞬きを繰り返している。
「それでも、タガが外れて人を殺したいとまでは思わないかなあ」
微かに浮かべた笑みが、まるで誰かを思い出しているかのような穏やかなものであったので、アルティはぎりと手斧の柄を掴む手のひらに力を込めた。
「裏切り者」
「どっちが」
顔を歪めたアルティが吐き捨てるように言えば、フィスカスは片手を振り、ナイフを掴み直して乾いた笑みを浮かべている。
「何もしていなから、酷い目にあったから、って被害者ぶって誰かを傷付ける免罪符にすんの、やめてくんないかな」
それこそ反吐が出るよ、本当に。
そう言って、フィスカスは鈍く光るナイフの切先を、アルティへと向けた。
「奪ったもので欠けてるものを埋め合わせしたって、結局、幸せになれる日なんて一生来ないんだよ」
いつまでもガキみたいな事グチグチ言ってないで、そのくらいさっさと理解しろよ。
嘲るように口端を引き上げて笑うフィスカスの言葉に、アルティは彼をきつく睨みつけていた。




