90 スターチスは帰り方を知らない
夕暮れに染まる青い桜の森は、いつもより緑の匂いが強く感じられる。
夜の気配を恐れる子供を更に追い詰めるように枝葉を伸ばすその様は、けれどグレイペコーの気持ちをささくれ立たせる事はない。
こんな時ばかり、ごく一般的と思われる母親のように、具合が悪くはないか忘れ物はないかと心配してみせるイヴルージュは、そうしている間にらしくないと気がついたのだろう、自らを抱き締めるように腕を組むと、顔を顰めている。
少女のような無邪気さと奔放さを、いつまでもその身に纏う人である筈なのに、垣間見える母性は、グレイペコーにとって煩わしくなく、それどころか心地よささえ感じられて、思わず頬が緩んでしまっていた。
笑うな、とは言いながら、名残惜しそうに頬を撫でてくれる指先を握り締めると、イヴルージュは深く長く息を吐き出して、辛そうな顔で笑みを作ってみせる。
「無茶するんじゃないよ」
「イヴもね」
行ってきます、の言葉を口にしかけた時、バタン、と音を立てて開いた裏口の扉から現れたのはノルだ。
それも、彼の背に抱えられているのは、フードを被った小柄な人物。
「……リグレット?」
何故、ノルに抱えられているのだろう? 何故、フードを被っているのだろう?
疑問を口にする前に、ノルの背からゆっくりと下されたリグレットは、よろけながらグレイペコーの側に歩み寄り、目の前に何かを差し出した。
「ペコー、これ持っていって」
「これって……?」
「きっと、ペコーに必要なものだと思うから」
差し出されたのは、うっすらと赤みがかった液体が入った、小さな瓶だ。
手のひらに収まる其れを、ここ最近何処かで見かけたような……、思考を巡らせたグレイペコーはハッとして、リグレットが被っているフードを取った。
はら、と落ちたフードから現れた鮮やかな色に、グレイペコーの赤眼は大きく瞬く。
リグレットの少しずつ元に戻りつつあった薄紅色の髪が、半分以上青く染まっている。
もう、フードを被る事でしか、誤魔化しきれない程に。
「どうして……!」
グレイペコーが手にしている瓶の中身は、ノルが倒れた時にリグレットの血を用いて作られた薬だ。
リグレットがノルを助ける為に多くの血を提供してから、やっと元の状態に戻れたのに。
それなのに何故、こんな事をしたのだろうか。
リグレットやノルは、裏切り者が誰なのか、知らない筈だ。
それに、この薬を必要だという理由も。
イヴルージュに視線を向ければ、彼女も知らなかったのだろう、唇を噛み締めて首を振っている。
グレイペコーが悲しさとやりきれなさに顔を歪めると、リグレットの白くなった指先が伸ばされていて。
勝手な事をして、ごめんなさい。そう呟く声は、掠れていて、痛々しい。
「ノルとグラウカ先生にお願いして作って貰ったの。私の身体の影響を考えて、あまり多くは作れなかったんだけど……」
瓶の中身は半分程しか満たされていない。本来ならば、瓶一杯に満たされた量が適正なのだろう。
だとしても、彼女に負担をかけたのは間違いない。
いつもならばほんのりと赤みを帯びた頬も、青白くなっているのだから。
「リグレット。この事で、リグレットが傷付く必要はないんだよ」
その言葉に、リグレットは顔を俯かせて、緩やかに首を振った。
「私がそうしたいって思ったの。ペコーに必要だと思ったから」
それに、と付け足して、リグレットは顔を上げる。
動作に合わせて、青くなってしまった髪が揺れている。
「誰かが辛かったり悲しかったりした時に、何も出来なかったって泣くだけなのは、もう嫌だから」
迷いなく真っ直ぐに青眼を向ける目の前の少女は、頼りなくて甘えたがりの妹とばかり思っていた彼女とは、違って見えた。
こうした時、彼女はいつだって、誰よりも直向きで強くなれる人だから。
グレイペコーは手のひらの中にある薬を握り締めて、小さく息を吐き出した。
「こういう時は絶対に相談して、って約束したでしょう?」
いつか彼女が無理をした際に交わした約束を口にすると、リグレットは途端に肩を縮こませて、ごめんなさい、と申し訳なさそうに頭を下げている。
「でも、私だって、ペコーにも無理して欲しくないし、辛い思いをして欲しくないんだよ」
ここにいる皆がそうだよ、とぎゅうと抱き着いてリグレットが言うので、グレイペコーは彼女の青く染まってしまった髪に頬を押し付けた。
青い桜の森と同じ鮮やかな青色なのに、リグレットの色は何故だか雨上がりの青空のように、優しく晴れやかに感じられる。
彼女が常々森に居心地の良さを覚えると口にしているのは、もしかしたらこういう事なのかもしれない、と考えて、グレイペコーは小さく笑った。
「大丈夫、ちゃんと帰ってくるから」
「絶対だよ」
「うん、約束」
そっと身体を離し、彼女の目の前に小指を差し出せば、透き通る青眼はぱちぱちと瞬いて、それから、ゆっくりと細められる。
小指を絡めて振れば、リグレットは安心したように笑うので、つられるようにグレイペコーも笑った。
ちゃんとノルやイヴと一緒にいてね、と言って彼女が頷くのを見届けてから、そっとその背中越しに見える二人に視線を向ければ、静かに頷いてくれている。
「行ってきます」
一人きりで入る森の中は、けれど、少しも恐ろしく感じられない。
夜の明ける空に似た淡い紫色の長い髪を揺らして、グレイペコーは軽やかに森の奥へと駆けて行った。
***
青い桜の森の奥深く、毒素の霧で満たされた場所には、一際大きな桜の木がある。
周囲を脅かすように四方へ伸ばされた枝は白く、湿気を帯びた樹皮は節くれた手指のように感じられた。咲き誇る花は鮮やかな青色で森を彩り、決して朽ちる事なく、この場を常に守り続けている。
その桜を畏怖すべきものとでも言わんばかりに、あちこちに朽ちかけた青い鳥居が建てられていた。
桜の木の根元には、黒髪の女──ネムが座り込んでいる。
孵化を待つ雛鳥のように身体を丸め、抱えた膝を眺めていネムは、ふと顔を上げて空を見た。
数時間前に訪れた男が残した言葉を反芻し、金色の瞳は知らず歪んでいる。
「滑稽ね。どんなに憎もうと疎もうと、過去の自分なんて永遠に救われる事はないのに」
だからいつまでも貴方の世界は変わらないのよ、と吐き捨てて、ネムは頭をもたげた。
ノルはずっと救われたいと思っていたのだろうけれど、自分は救われたいと願った事など一度だってなかった、とネムは思う。
ただ、大切なものがこれ以上失われてしまう事だけが、耐えられなかっただけ。
はらはらと涙のように落ちていく青い桜の花びらをぼんやりと眺めていると、桜の木の影から、そっと青い毛並みの狼が姿を現している。
「ヴィヴアリア」
そっと息を吐き出して抱き締めた狼に、温もりを感じられる事はない。手に触れる事は出来ても、求めたものにはなり得ない。
それでも、確かに自分を救ってくれた彼女と、この狼は、自分にとってかけがえのない存在だ。
この世界で生きる何よりも、誰よりも。
「ヴィヴアリア。この役目が終わる時には、私も一緒に連れて行ってね」
私、もう何処にも帰れないもの。
呟いて、ネムはまるで祈るように目蓋を閉じていた。




