89 それだけで迷わずにいられるから
皺一つない紺色の制服に袖を通し、一番上の釦まできちんと留める。
艶のある金の髪を結い上げ、外套を身につければ、金の飾緒が揺れた。
いつも身につけている民族調の赤いワンピースも大振りのアクセサリーも放り出し、常ならば肩にかけただけの制服をしっかりと着込んだ姿に、局長室の扉の前で壁に凭れかかりながら待っていたグレイペコーは、彼女と揃いの赤い瞳を僅かに細めた。
彼女の手には、使い慣れたサーベルが握られている。
「何だ、ペコーか」
こんな所でどうしたんだ、と苦笑いを浮かべる彼女の、顔色は良くない。
それが、連日仕事が立て込んでいた故の疲労と、現在の精神状態からだろう事は、グレイペコーにもよくわかっていた。
業務を終えた伝言局の中はとても静かで、夕暮れが屋内にゆっくりと浸食している。
何も返事を返さないグレイペコーに、イヴルージュは静かに息を吐き出すと、小さく笑みを浮かべている。
「悪いが、今から外に出るから後は頼んだぞ」
「こんな時間に、そんな格好で、そんなものを持って?」
その問いかけに答える事が出来ずに、彼女は緩やかに瞬きを繰り返して、自らの足元を見つめていた。
答えない、というよりは、それこそが答えなのだろう。
グレイペコーは思わず、手のひらに力を込めて握り込んでいた。
「……帰るつもりなんかないくせに」
苦々しくそう言い放てば、イヴルージュは困ったように笑っている。
彼女がどれ程の覚悟を持って武器を手にしているのか、今のグレイペコーには手に取るように理解出来てしまっていた。
グレイペコーはゆっくり歩いて、イヴルージュの側へと近付いた。
疲れ切って諦めきったような顔で視線を俯かせた彼女は、決してグレイペコーを見ようとはしない。
「ねえ、イヴ。彼なんでしょう?」
伝言局を、この国を、イヴやボク達を裏切っていたのは。
グレイペコーがそう問いかけても、イヴルージュは赤い口紅で彩られた唇を動かす事はしなかった。
あの人は、身内に甘いから。ノルがそう言っていたように、イヴルージュは内側に入れた人間を切り捨てるという事を、そうそう出来ない人だ。
それをわかっているからこそ、グレイペコーは言葉を続ける。
「イヴじゃ駄目なんだよ」
言い聞かせるような言葉に、イヴルージュは眉を寄せた。
「彼を止めるなら、ボクじゃなきゃ駄目なんだって、わかってるでしょう?」
イヴルージュの実力を否定しての言葉ではない。
彼女では駄目だという理由は、別のものからだ。
理解はしていても納得がいかないらしいイヴルージュは、緩やかに首を振っていて。
「ペコー。あたしは、こういう時の為にお前を育てたんじゃない」
違うんだよ、と、互いに言い聞かせるように、彼女は言う。
金の睫毛が、赤い唇が、白い指先が微かに震えていて、それを誤魔化すように俯いたイヴルージュは、小さく、弱々しく見えた。
過去に起きてしまった出来事に苛まれ、リグレットに抱き着かれて、優しく背中を撫でられていた時のように。
例え、リグレットを守る為に彼女が自分を引き取ったとしても。
考えて、グレイペコーは小さく笑みを浮かべる。
「分かってる」
「だったら、」
例えリグレットの為に自分を拾ってくれたのだとしても、本当はそれでも良かった。
自分を必要としてくれる人がいて、自分の尊厳を守る為の力と安心して眠れる場所を与えてくれたのなら、それ以上に求めようとは思わなかった、から。
「分かってるから、ボクが行くんだよ」
「駄目だ」
「イヴ、」
「駄目だって言ってるだろうが!」
声を上げて叫ぶようにそう言ったイヴルージュに怯む事なく、グレイペコーは小さく笑って、彼女の手を取った。
「お願い」
真っ直ぐに見つめる赤い瞳が大きく見開かれた事に、グレイペコーは少し擽ったいような気持ちになって、彼女の手に甘えるように頬を擦り寄せた。
手首からは甘いバラの香りがして、孤児院で初めて彼女と会い、自分を見つけてくれた時の事を思い出させてくれていた。
あたしと同じ色の眼だ、と言った彼女の、晴れやかな笑顔。
当たり前のように伸ばされた手のひらに怯えながら、その手を取った時の確かさに、泣きそうな程に嬉しかった事を。
「……ここでそれは卑怯だろう……」
イヴルージュは呆れたような、それでいて、動揺のあまりに泣き出しそうな、歪んでしまった顔を隠すように、片手で顔を覆い、深く長く、息を吐き出している。
今の今まで、どんなに望まれたって、イヴルージュに対してお願いなんて口にしてこなかったのだ。
だからこそ、彼女にはとてつもない効果があったのだろう。
彼女の前では、従順で聞き分けが良く、捨てられるのを怖がっていた子供だったのだから。
「当たり前でしょう? ボクはイヴの子供なんだもの。使えるものは何でも使うんだよ」
吐息混じりに笑えば、そういうのは反面教師にするんだよ、と呆れたような返事が返された。
そのままぐずつく子供のように肩口に額を押し付けられ、金色の髪にグレイペコーは頬を押し付ける。
孤児院にいた頃は、ノルのように誰かに触れられる事が怖くて堪らなかったのに、今ではすっかり慣れてしまっている。その事に、つい可笑しさが込み上げてくる。
スキンシップが好きなリグレットの影響もあるのだろうが、そもそもはイヴルージュがそうした性質だったからに違いない。
いつの間にか、それが自分にとっても当たり前になってしまったのは、それだけ彼女達と家族として過ごした日々があったからだろう。
「グレイだったボクに、ペコーって名前を付け加えて、新しいボクにしてくれたのはイヴなんだよ」
半端者でしかなかった自分に、価値や基準は自らでを決めるものなのだと、そう願いを込めてつけてくれたのが、今の名前だと、彼女は言ってくれた。
「これは、ボクが決めた事だよ。全部、決めたのは自分。自分の価値も、基準も、どうやって生きるのかも」
そう願ってくれたのは、イヴでしょう?
彼女の両手を握り締めて、其処に額をくっつけながら、グレイペコーは言う。
祈るように、願うように。
生まれて初めて与えられる祝福が名前だというのなら、きっと、彼女がこの名前を与えてくれた瞬間に、自分は新しく生まれたに違いない。
「だから、最後まで信じて」
今の自分が、そう願われるだけの自分になれたんだ、って。
信じさせて。
イヴルージュは暫くの間、長い睫毛を震わせて、唇を引き結んでいた。
辛抱強くその様子をグレイペコーが見守っていると、やがて、深く長く息を吐き出して、彼女は緩やかに頭を振っている。
「母親ってこういう時、無力なものだな」
申し訳なさそうな、諦めたような、言いようのない感情を乗せた顔を俯かせているイヴルージュの姿を見て、グレイペコーは、は、と吐息を零してしまう。
いつもなら絶対にそんな事を言ったりはしないし、どんな決断に後悔していてもそんな顔をしたりしないのに。
グレイペコーは思わず頬を緩めて、自分と然程変わらなくなってしまった彼女の背中に手を伸ばした。
「イヴが安心して過ごせて休める場所をくれたから、どこに行ったって怖がらずにいられるし、帰って来れるんだよ。それを教えてくれた人が、無力なわけがないでしょう?」
何言ってるの、と優しく背中を叩けば、イヴルージュは困ったように、それから、泣き出しそうな顔で笑っていた。




