88 群青に沈む時には手を引いて
はらはらと紙が舞う薄暗い室内で、イヴルージュは片手で顔を覆いながら俯いている。
シノワズリ調の家具や小物が犇き合うように置かれながら決して手狭には見えない局長室には、彼女一人の重苦しい溜息と、机から崩れ落ちる書類の音だけが零れ落ちていた。
己の不甲斐なさに悔やんで、至らなさに苛立って、内側に入れた人間を憎みきれなかった自身の弱さに、ただ、泣きたくなるようだ、とイヴルージュは顔から片手を下ろした。
もう片手には小さな紙片が握り締められていて、それを見る度、胸底から怒りと悲しみがない混ぜになったような、言いようのない激情が沸々と湧き上がってきて、逆らえきれずに拳を強く机に叩きつける。
「……っ、あの馬鹿が……!」
何かを拒むかのように頭を振れば、頬にかかる金の髪は揺れ、どうにか踏み留まっていた書類が崩れ落ち、再び床へと落下していく。
真っ赤な口紅が塗られた唇から吐き出された息は重く苦しげで、化粧がよれるのも構わずに、イヴルージュは顔を両手で覆い、机に伏せた。
噛み締めた唇から再び重苦しい溜息が吐き出され、部屋の中は息苦しささえ感じられている。
どうすればいいのかは、誰よりも自分が理解している。
イヴルージュは、最近になって常に傍に置いているサーベルに手を伸ばし、柄を強く握り締めた。
馴染んでいる感触の筈なのに、どうしても拒否感を覚えてしまうのは、長い年月の間に、手にしている事が少なくなっていたからだろう。
その間に、この手が触れていたのは、誰よりも大切な子供達の手のひらだったのだから。
「年甲斐もなく馬鹿な真似をしようとしているのは、あたしも同じか……」
珍しく弱気になっている自分に苦笑いを浮かべて、イヴルージュは大きく息を吐き出した。
きっとグレイペコーは許してはくれないだろう。
どちらの事も、その決断も。
リグレットは許してくれるかもしれないけれど、身体を震わせながら泣きじゃくってしまうに違いない。
それでも、大人達が引き起こしてしまった後始末を、これ以上子供に引き継いではいけないのだ。
──だからこそ。
サーベルを持つ手に、強く力を込めながら、イヴルージュはゆっくりと目蓋を閉じていた。
***
窓から零れる陽光が眩しくて、リグレットは思わず目を眇めてしまう。
昨晩遅くに帰宅したイヴルージュは、くたびれた様子ですぐに自室のベッドで眠ってしまい、今朝も早くに起きてきたかと思えば、すぐに伝言局へと戻っていたのだ。お陰で会話らしい会話もしていない。
それだけ忙しいという事は理解しているけれど、昨晩のグレイペコーの様子も相まって、不安が次から次へと胸底から湧き上がってくるようで、どうにも落ち着かない。
大きく溜息を吐き出したリグレットは、肩を落として廊下をとぼとぼと歩いていく。
グレイペコーとイヴルージュはいつだってリグレットに対して、そういった不安になるだろう事を極力見せないよう気をつけていたのは、リグレットもよくわかっている。
それが変化している、というならば、今の二人はそれだけ余裕がない状況なのだろう。
だとしたら、自分に出来る事は一体何なのだろう。
考えて、また溜息が零れてきて、リグレットはその場に立ち止まってしまった。
自分が持っているものは、父や母から与えられたものと、二人の家族から与えられたもの、それから、自分が触れ合った人々から貰ったものに、自分自身で経験したものだけ。
きっと他の人に比べたら、至らない所は多いのだろう。
それでも、それらは確かに、今助けてあげたいと思える人達から貰えたものばかりだ。
だから、諦める事だけはしちゃいけない。
決意を固めて再び足を踏み出すと、廊下の先を歩く見慣れた長身を見つけて、リグレットは思わず駆け出した。
「ノル!」
ノルが声に気が付いて振り向くと、リグレットははたと気がついて、彼の目の前で足を止めてしまう。
「あの、あのね……」
自分よがりな気持ちに彼を巻き込んでしまっていいのか、という気持ちと、もしかしたらただの勘違いかもしれない、という気持ちから、先程までの勢いが途端に掻き消されていく。
リグレットが思わず口籠もり、ぎゅうと胸元を握り締めて俯いていると、ぽん、と頭の上に大きな手のひらが乗っていて。
「どうした?」
何かあったのか、と真っ直ぐに見つめてくるノルが問いかけるので、リグレットはくしゃりと顔を歪めてしまっていた。
彼は、本当の本当に辛い時に、突き放したりはしない。
いつだって、こうして頭を撫でて、安心させてくれるのだから。
それを改めて理解して、リグレットはすんと鼻を鳴らして、彼の服の裾を掴んだ。
「昨日、ペコーが何だかちょっと変だったの。ノル、何か知らない?」
問いかけに、ノルは視線を俯かせ、何か考え込むようにして黙り込んでいるので、リグレットは思わず彼に縋り付くようにして問いかける。
「ノル、お願い。何か知ってたら教えて」
ノルの時みたいに何かあったら嫌だよ、と懇願すると、彼は安心させるようにまた頭を撫でて、小さく息を吐き出した。
「心当たりがないわけではない、が……」
言い淀む彼に、リグレットは彼の服の裾を握り締めていた手に力を込める。
「私には、教えてもらえない事?」
自分がどれだけ無力なのかは、十分すぎるくらいにわかっている。
それでも引き下がりたくなくて、お願い、と必死になって頼み込むと、彼は金色の瞳を僅かに細めて、緩やかに首を振った。
「いや、ただ単に俺があまり言いたくないだけだ」
「えっ? 何それ?」
想定外の返答にリグレットは唖然として、それから、ぎゅうと顔を顰める。
子供のような事を言うものだから、先ほどまでの緊張感が途端に解けてしまって、リグレットはゆるゆると身体から力を抜いて、ノルの腕に額を押し付けた。
宥めるように頭を撫でてくれる手のひらに、もう、と顔を上げれば、彼の指先はリグレットの頬に伸ばされていて。
ひんやりしていて硬い皮膚の感触と、優しく触れるその指先に、リグレットの青眼が細められると、彼は何かを懸念するように眉を寄せている。
「それを知ったら、お前がまたあの力を使う可能性がある」
それはつまり、また血を採る、という事になるのだろう。
その程度の事でいちいち怖気付いているのか、と他の人には笑われるかもしれない。けれど、リグレットにとっては、思い出すだけでも手が震えてしまいそうな程に恐ろしい事だ。
皮膚を突き刺す針の感触も、通常の採血とは違う鋭い痛みも、知らない間に使っていた力の事も、それに伴って髪の色が変化してしまう事も。
もしかしたら、力を使い過ぎた代償を払わなくてはいけなくなってしまう事、も。
全てが怖くて、自分が自分じゃなくなってしまうんじゃないか、と身体が竦んでしまう程に、怖くて堪らなくなるのだ。
だけど、と考えて、リグレットは一度だけ彼の手に頬を擦り寄せ、俯かせていた顔を上げた。
「だとしても、ペコーの事は絶対に放っておけない」
ノルだってそうでしょう、と言って、リグレットは金色の瞳を真っ直ぐに見つめる。
取り返しのつかないような事が起きた時、何も出来なかった、と泣くのはもう嫌だ。
ノルがいなくなるのも、グレイペコーやイヴルージュや周囲にいる大切な人達が、辛く悲しい思いをするのも。
だから、どんなに怖くたって、立ち向かってみせるし、平気だって言える。
強く胸元を握り締めると、目の前に大きな手のひらが差し出されていて、リグレットは思わず青眼を瞬かせた。
「グラウカ先生に聞いてみよう」
「え」
ノルは真っ直ぐに見つめ返していて、思わず手を持ち上げれば、彼はしっかりと掴んだその手を引いた。
「それから、配達業務でテッサが来ているだろう。参考になるかは分からないが、負担を軽減する事が出来る方法があるかもしれないから、話をしてみてもいいかもしれない」
医務室に向かう彼に連れられて、リグレットは戸惑いながらも彼の後ろをついて行く。
迷いのないその背中を見つめて歩きながら、リグレットは彼に問いかける。
「え、と……、いいの?」
「いいも何も、そうするつもりだったんだろう」
「それは、そうだけど……」
てっきり反対されると思っていたから、とおずおずと言えば、ノルは足を止めて、視線を俯かせていて。
「グレイペコーには幼い頃から世話になっている。俺が痛みに耐えられず暴れていても、そのせいで傷ついても、あいつは文句の一つも言わなかった」
以前、ノルが痛みで突然苦しみ出した時、グレイペコーの手を振り払った事があったのを、リグレットは思い出す。
その際、痛みで暴れ出すかもしれない、と言っていたのは、そういう経験があったからなのだろう。
グレイペコーは何よりもノルの身体を優先していたし、何もわからずに怯えていたリグレットにも、優しく声をかけてくれていた。
それがただの義務感だけで出来るような事ではないのは、リグレットもノルも、よくわかっている。
「だからこそ、助けになりたいお前の気持ちはよくわかる」
それに、と付け足して、ノルは振り返って、リグレットを見た。
「グレイペコーに何かあれば、お前は泣くだろう」
「泣くに決まってるよ」
大切な家族なんだから。
言い返すと、彼は僅かに金色の瞳を細めていて。
「なら、尚更だ」
「どういう事?」
意味が読み取れないリグレットが首を傾げると、ノルは繋いだ手のひらに力を込めて、言う。
「もうお前を泣かせないと決めたから」
再び歩き出した彼に手を引かれて、リグレットはぱちぱちと瞬きを繰り返して、彼を見た。
不器用で、無愛想で、だけど、どうしようもなく優しくて。
手のひらから伝わる温度が、胸の奥がほんのりとあたたかくしてくれるようで、嬉しさがあふれてくる。
「ありがとう、ノル」
繋いだ手のひらに力を込めれば、想いに応えるようにそっと握り返してくれる、そのささやかさに、リグレットはふわりと口元を綻ばせていた。




