87 子守唄を歌うのは今日でおしまい
リビングにある出窓の張り出し部分の収納ベンチに座りながら、リグレットは両手で持ったミルクティーのカップに、ふう、と息を吐き出した。
湯気が舞う視界の先、向かいに座るグレイペコーは、カーテンをそっと開けて窓の向こうを見つめている。
室内は柔らかなランプの灯りに照らされていてあたたかいけれど、外は冷え込んでいるようで、硝子窓は少し白んでいた。
「マザー、今日も遅いんだね」
その言葉に、グレイペコーはカーテンから手を離して、苦笑いを浮かべている。
「仕方ないよ。今は色々と問題が起きているもの」
国内での薬物中毒者の騒ぎや、森が拡大しつつあるという報告があったばかりで、それらの対応にイヴルージュは奔走しているらしい。
ノルも復帰したとはいえ、少し前まで生死の境目を彷徨っていたような状況で無理はさせられない、と考えているのだろう。
いつもなら遅くとも夕食までには帰ってくるけれど、日が沈んで随分経つ今も、彼女が帰宅する気配はない。もしかしたら、帰りは夜中になるだろうか。
いつもなら心配でそわそわしているだろうグレイペコーは、何故だかやけに落ち着いていて、リグレットは思わず顔を覗き込んだ。
グレイペコーは視線に気付くと、イヴルージュと同じ赤眼を細めて、ふわりと笑っている。
「リグレット、髪の毛結んであげる」
「いいの?」
「勿論」
共用で使っている白いドレッサーからブラシやヘアオイルなどを持ってきて、グレイペコーはリグレットに背を向けるように言う。
大人しくそれに従いながら、リグレットはグレイペコーの指先の動きに集中していた。
いつもと同じようで、何だか、違う。
グレイペコーはいつだってリグレットの髪を大事に扱ってくれるけれど、今日はそれにも増して、丁寧過ぎる。
まるで、名残惜しんでいるかのように髪を梳かしている、とさえ思える程に。
不意に頭を過ぎる突拍子もない考えに、思わず振り向こうとすると、「動いちゃダメだよ」とグレイペコーによって頭を押さえられ、リグレットはしゅんとして近場のクッションを引き寄せて抱え込んだ。
白地に花を模した銀と淡いピンク色の刺繍が施されている、お気に入りのクッションをぼんやりと眺めていると、グレイペコーが名前を呼んでいる。
「リグレット、髪色大分戻ってきたね」
「そう、かな?」
「うん。もうすぐ元に戻りそうだよ」
よかったね、と優しく言われて、だけれど、何だか淋しくも感じられて、リグレットは思わず膝を引き寄せて、クッションごと抱え込んだ。
「体調もおかしな所はない?」
「大丈夫だよ」
その返事にグレイペコーは嬉しそうに頷いて、リグレットの髪にリボンを結ぶと、かわいいかわいい、と頭を撫でてくれている。
二つに緩く結んだだけの髪はすっかりと伸びてしまって、胸元に近い長さになっていた。
夜明けに見る空に似た、淡い紫の髪を同じように緩くサイドにまとめて結んでいるグレイペコーは、揃いの白いリボンをしている。
髪が伸びてお揃いになるまでは、まだ大分かかるだろう。
そんな事を考えていると、グレイペコーが優しく頭を撫でてくれている。
「ねえ、リグレット」
「なあに?」
呼びかけに顔を上げると、何故だか淋しそうな顔をして、グレイペコーは言う。
「いつか、ボクがこの家からいなくなる時は、イヴの事をよろしくね」
唇から、え、と声が零れ落ちて、それが自分の声ではないようで、リグレットはぎこちなく首を傾けた。
グレイペコーはただ優しく微笑むばかりで、リグレットの戸惑いに応えてくれる事はない。
「え、あの……、ペコー、どっか行っちゃったり、しない……よね?」
舌がもつれて、上手く言葉を発せれたのかも分からなくて、リグレットはますます混乱してしまう。
どうして突然そんな事を言い出したのだろう。
グレイペコーがそんな事を言い出すなんて、今の今までなかったのに。
急激に不安が押し寄せてきて、リグレットは思わずグレイペコーの服の裾を握り締めた。
冗談だと言って欲しいのに、グレイペコーは淡く微笑んでいる。
それが、自分の疑問を、肯定しているかのよう、で。
「ボクだってもういい年齢だもの。この家から出る時の事だって考えないと」
「そ、そう、かも、しれないけど……」
家族はずっと一緒にいられるものだと思っていたから、そんな事を言われるとは思わなくて、リグレットはただただ動揺してしまう。
不安は身体中に溢れかえっていて、じわじわと熱くなる目には、水分が滲んでいた。
グレイペコーはそんなリグレットを見て、柔らかに息を吐き出している。
「そんな顔をしないで」
いつかの話だよ、今じゃない。
そう、まるで自分自身にも言い聞かせるように、グレイペコーは言う。
リグレットは顔を俯かせて、唇を噛み締めた。
だったら、どうしていつもみたいに抱き締めて、大丈夫だよって言って、安心させてくれないのだろう。
そんな子供じみた考えばかりが、頭に浮かんでしまう。
もし口に出してしまったら、きっとグレイペコーは困った顔をしてしまうとわかっているのに。
「もしそうなったとしたら、絶対淋しい」
それがグレイペコーが本当に望んでいる事なら、賛成したいけれど。
だけど、と考えて、リグレットはぎゅうと胸元を握り締める。
「私も、マザーも、絶対に淋しい、って思うよ」
いやだ、とは言えずに、グレイペコーの服の裾を握り締めていた手のひらに、力を込める。
いつもなら、大丈夫、と言う筈の声も、優しく抱き締めてくれる腕も、馴染んだ茉莉花の香水の香りも、今はしない。
それが、淋しくて、悲しくて、堪らない。
ノルの事があって、過去の事を知って、髪が元に戻るにつれて、少しずつ、落ち着いてきていたのに。
どうして、今になって、そんな事を言い出しているんだろう。
みるみるうちに悲しくなって、すん、と鼻を鳴らすと、優しく名前を呼ばれている。
今よりずっと小さな頃、夜に怖い夢を見て泣いている時、安心させるように呼んでくれたように。
「リグレット」
「……なあに?」
リグレットがぐずぐずと顔を上げると、グレイペコーは少しだけ首を傾けて問いかけてくる。
「子供の頃、ボクに初めてプレゼントをくれた時の事、覚えてる?」
その言葉に、リグレットはぱちぱちと瞬きをして、それから、ぷくりと頬を膨らませた。
「恥ずかしいから、やあだ」
グレイペコーが言っているのは、リグレットが初めてグレイペコーにプレゼントを渡した時の話だ。
リグレットが今よりずっと幼い頃。家事が壊滅的に出来ないイヴルージュに代わって、家の事を全て完璧にこなしているグレイペコーに、リグレットは日頃の感謝のお礼として、自分のお小遣いを全部持ち出して、街にあるキャンディ店で、買えるだけの飴を買ってきたのだ。
お小遣いは限られていたから、小さな瓶にほんの少しだけしか入らなかったけれど、綺麗な色の飴を選んで入れて貰って、自分が持っている中で一番かわいいリボンを結んで、グレイペコーに渡そうと考えていた。
けれど、いざ渡そうとした時にグレイぺコーが持っていたのは、自分が渡そうとしたものより豪華で綺麗な箱に入っていたチョコレートで、それがイヴルージュに渡されたプレゼントだと気付いたリグレットは、わんわんと泣いてしまったのである。
私が一番最初にグレイペコーへプレゼントを渡したかったのに、と。
当時からグレイペコーは優しかったけれど、どうしたって手のかかる妹より、育ての母であるイヴルージュの方が好いているのだろうと思っていたし、何より、あの時グレイペコーが手にしていたチョコレートは、リグレットがどんなに望んだって手に入らない高価なものだったのだ。
せめてイヴルージュよりも先にプレゼントを渡して喜んで貰おう、と考えていた子供には、それはあまりにショックが大きい出来事だった。
幼さ故に仕方ないとは思うのだけれど、癇癪を起こして泣き喚いている子供のようで、今思い出しても、迷惑以外の何物でもない、と羞恥で地面に埋まりたい程の気持ちになる、とリグレットは思わず近場のクッションを掴んでぎゅうと抱き着いてしまう。
けれど、グレイペコーはそれはそれは嬉しそうに笑って、リグレットの頭を撫でていて。
「どうして? あの時すっごく嬉しかったんだよ」
リグレットが自分の出来る限りで一生懸命考えてくれたのがよくわかったのだ、とグレイペコーは言う。
「あの頃、ボクはリグレットに嫌われたらこの家から追い出されるんじゃないか、って、本当はずっと怖かったんだ」
勿論、それはただの思い込みだったけど、と言うので、リグレットはどう答えたらいいか分からなくて、曖昧に頷く事しか出来なかった。
グレイペコーは昔からずっと優しくて、要領が悪くて何をするにも時間がかかるリグレットにも、丁寧に色んな事を教えてくれたり、世話をしていたのだ。
それはグレイペコーの性格だとばかり思っていたから、そんな不安を抱え込んでいたなんて、知らなかった。
無知な自分が齎した申し訳なさから、ごめんなさい、と言おうとしたリグレットに、グレイペコーは緩やかに首を振って、それを止めた。
「でもね、リグレットが、ボクの事をちゃんと家族だって思ってくれてるのが分かって、イヴがボクを大切にしてくれてる事も分かって、本当に嬉しかった」
あの時、初めて自分に居場所が出来たと思ったんだよ。
ありがとね、と言いながら、何故だか少し淋しそうにグレイペコーは笑っている。
グレイペコーが、どうしてそんな事を言い出したのかは、わからない。
昔の事のように、自分が知らないだけで、本当は何か抱え込んでいるのだろうか。
そう考えると堪らなくなって、リグレットは顔を上げて、ぎゅうとグレイペコーの首に抱き着いた。
「私だって、ペコーがいてくれたから、いつだって安心していられてるんだよ」
怖い夢を見て怯えていた時だって、母親が恋しくて泣いていた時だって、グレイペコーやイヴルージュがこの家にいて、優しく抱き締めてくれて、名前を呼んでくれていたから、どんな事があっても安心していられたのだから。
背中を優しく撫でてくれる手のひらはあたたかくて、それなのに、今は淋しくて仕方がない。
リグレットは抱き着いた腕に力を込めながら、いつかグレイペコーが聞かせてくれた子守唄を思い出そうとしていた。




