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86 あなたは春を知るひと


 廊下の向こうから歩いてくるノルを見るなり、リグレットはぱっと顔を輝かせて駆け出した。

 今朝、ノルが突然街まで皆の昼食を買いに行きたいと言い出して、彼が不在の間ずっと心配していたからだ。

 手に大きな紙袋を抱えているから、きっと問題なく買いに行けたのだろう。


「ノル! おかえりなさい」


 ちゃんとお昼ご飯買えた?

 側に駆け寄り、そう問いかけようとして、リグレットはぴたりと足を止めた。

 紙袋を持つ彼の手が、微かに震えている。

 ノルは何も言わずに俯いていて、彼の神経を刺激しないよう、リグレットはそっと彼を見上げた。

 そこに、表情らしい表情はない。けれど、少し青ざめているようにも見える。

 彼はいつも無愛想で無表情に近い顔をしているけれど、これはいつもの状態ではない、とリグレットにはすぐに理解出来てしまっていた。


「……ノル、大丈夫?」


 言いながら、大丈夫などと言えるような状態ではないだろうと思い直し、リグレットは紙袋を持っていない方の彼の手を取った。

 自分よりもずっと大きな手のひらは冷たく強張っていて、リグレットは思わずぎゅうと両手で握り締めてしまう。

 街で具合が悪くなってしまったのだろうか。それとも、何かあったのだろうか……。

 おろおろとしながらかける言葉を探していると、名前を呼ばれて、リグレットは顔を上げようとしたけれど、出来なかった。

 頭の上に、とん、と柔らかな感触がして、動けなかったからだ。

 どうやらつむじの辺りに頬を押し付けられているようで、彼が唇を動かす度に、微かな振動が伝わってくる。


「……大丈夫だから、心配しなくていい」


 声は掠れていて、風に掻き消されそうな程に、弱々しい。

 ちっとも大丈夫そうじゃないのに、どうしてそうやって隠そうとするの。

 リグレットはむくれた顔をしてぱっとノルから離れると、彼の背中をぐいぐいと中庭の方へと押しやった。

 隠さないって約束したのに、と小さくぼやきながら。


*


 中庭の奥まった場所に座り、狼達を宥めるように撫でているノルに、淹れたばかりのあたたかな紅茶が入ったカップを渡して、リグレットは彼の隣へとちょこんと座った。

 狼達が紅茶の匂いにふんふんと鼻を寄せてくるので、これはキナコ達のご飯じゃないし熱いから近づいちゃ駄目だよ、と言い聞かせていると、ノルは紅茶を一口飲み込んで、小さく息を吐き出している。

 少しは落ち着いてきただろうか。

 そっと顔を覗き込むと、ノルはゆっくりと瞬きを繰り返してから、リグレットに視線を向けていた。


「街でネムに会った」

「え」


 思ってもみなかった事にリグレットは驚いてしまい、唇から声が漏れ出てしまう。

 ネムはノルの双子の姉であり、少し前にノルが危険な状況にまで追い込まれた原因である薬物を手渡してきた人物でもある。

 まさかまた何かされたのでは、とリグレットが狼狽えていると、ノルは緩やかに首を振って、それを否定する。


「何もされてはいないし、何も強要されていないから、心配しなくていい」


 その言葉にホッとしたものの、彼の様子を見るに、それだけではなかったのだろう事ははっきりとわかってしまって、リグレットは顔を俯かせた。

 ノルは彼女の為に自分自身を犠牲にしようとしたけれど、ネムからしてみたら、それは裏切りのようなものに思えていたのかもしれない。

 現に、ノルはその事を長い間ずっと気に病んで、苦しんでいたのだ。

 だからこそ、以前のように思い詰めているのではないか、と不安になって、リグレットは彼の服の袖をぎゅうと握り締めた。

 あれから身体の不調もなくなって、少し落ち着いているように見えたのに、また、あんな風に苦しむような事があったら、嫌だ。

 手のひらに自然と力が込もると、頭の上に、ぽん、と柔らかな手のひらの感触がする。


「もう、あんな事は二度としない」


 約束する、と言われて、リグレットはおずおずと顔を上げた。

 ずっと、約束をする事を拒んでいた彼が、こうして約束を重ねてくれるとは、思っていなかった、から。


「うん」


 リグレットはくすぐったい気持ちになって、笑みを浮かべながら、しっかりと頷いた。


*


 それから、ノルはネムと会った時の事を、ぽつぽつとリグレットに話をしてくれていた。

 ネムが姫様と呼ぶ人物の側にいるという事、ブルーブロッサムの実とそれを利用した薬物の事、テッサがいた犯罪組織と手を組んでいる事、そして、彼女達の目的……。一度に大量の情報が出てきてリグレットは混乱しそうになる。

 気になる事は、沢山ある。

 それに、夢で会ったと思っていたあの少女が、姫様と呼ばれる人物と同じだというのなら、リグレットにとって、それは信じがたいものだった。

 あの時の彼女は、そんな恐ろしい目的を持っているとは到底考えられない程に、優しかったから。

 柔らかに細められたあの青い瞳は、自分の事をとても大事そうに見つめてくれていた、から。

 そう考えながら、リグレットはぎゅうと手のひらを握り締める。


「それから、ネムは姫様のヴィヴアリア(・・・・・・・・・)だと言っていた」

「ヴィヴアリア……?」


 何処かで聞いた事があるような、ないような。

 そのくせ妙に耳に残る響きにリグレットは首を捻ってみるけれど、心当たりはない。

 姫様の、とつけるからには何か意味があるのだろうけれど、自分の名前のように何かを意味する言葉でもないようで、ノルに聞いても分からないと言う。

 ただ、特別な何かがあるのは、確かなのだろう。

 ノルは瞬きを繰り返して、静かに言う。


「だから、一緒には帰れない、と言われた」


 拒絶されたのだ、と。

 きっと、そう言われた時の事を思い出しているのだろう。ノルは顔を俯かせている。

 その横顔を見つめながら、リグレットはネムと会った時を思い出していた。

 家族について話している時の彼女は、確かに家族を、ノルを大切に想っているように見えたのだ。

 優しげに目を細めて静かに喜びを表す彼女に、リグレット自身、自分の家族を想う程には。


「ネムさんがそんな態度取ったのって、ノルに何かあったら困るから、じゃないのかな」

「またお前はそんな事を……」


 顔を顰め、呆れたようにそう言うノルに、リグレットは、だって、と肩を縮こませた。


「だってネムさん、ノルは平気だって言ったんでしょう?」


 それは、彼女達が望んでいるという、国が滅ぶような何かがあったとしても、ノルならその対象にならない、と言ってるようにも思える言葉だ。


「だとしたら、その事にノルが関わって欲しくない、って思ってわざとそう言ったのかも」


 伝えられた彼女の言葉の端々に、ノルを気遣うような、そんな想いを感じられる気がするのだ。

 ただ、自分がそう思いたいだけ、なのかもしれないけれど。

 考えて、リグレットはぎゅうと胸元を握り締めた。

 ノルは暫く黙り込んでいたけれど、やがて小さく息を吐き出すと、ネムの真意は定かではないけれど、と呟いて、顔を上げている。

 金色の瞳が見つめる先は、青い桜の森だ。


「この先、何かが起こるという事は、確かだろうな……」


 ブルーブロッサムの毒素を使った薬物。それらを利用し、ネム達と手を組んでいるという犯罪組織。姫と呼ばれる人物がこの国を滅ぼそうとしている事。

 様々な思惑が、この国の中で渦巻いているのだろう。

 怖くない、と言えば嘘になる。

 けれど、それよりも今は。

 顔を上げて、リグレットはノルの顔をそっと覗き込んだ。


「ノルは、どうしたい?」


 問いかけに、ノルは緩やかに瞬きを繰り返して、それから、リグレットを見た。

 金色の瞳は僅かに揺れていたけれど、真っ直ぐに向けられていて、確かめるように、彼は静かに頷いている。


「ネムに、そんな事はして欲しくはないし……、戻ってきて欲しい」

「うん」

「以前のように、とは、無理なのはわかっている。だけど、もし、まだ、声が届くのなら……、もう一度、話したい」


 そう言って、ゆっくりと視線を下ろした先の大きな手のひらを、リグレットはぎゅうと握り締めた。


「私も、そうなったらいいなって思ってるよ」


 だって、さよならは淋しいだけの、お別れの為だけの言葉じゃない、のだから。


「私に出来る事はそんなにないかもしれないけど、力になるから」


 握り締めた手に少し力を込めて、頷きながらそう言うと、ノルは柔らかに吐息を零していて。


「お前は十分力になっている」


 一人ならきっと、打ちのめされた気持ちになっていた、と、リグレットの額に自分のそれを当てて、呟いて、いて。


「お前がいるから、まだ諦めずにいられている」


 その言葉にゆっくりと視線を上げれば、優しく細められた金色の瞳が目の前にある。

 長い睫毛が揺れていて、息がかかりそう、とぼんやりとリグレットは思いながら、彼の瞳を見つめ返した。

 今の状況を、上手く整理出来ない。

 その瞬間、狼達が駆ける音が響いてきて、リグレットはぱっと身体を引き、勢いに任せて立ち上がった。

 顔全体が熱くて、心臓がばくばくと脈打っていて、煩い。

 ノルの方を向くのが、恥ずかしくて堪らない。

 どうしようもなくなって狼達の方へ顔を向ければ、見慣れた姿を見つけて、リグレットは慌ててそちらへと駆け出した。


「ペコー!」

「わ、リグレット? どうしたの?」


 思いきり抱き着いたグレイペコーの驚いた声がするけれど、顔が赤くなっている事に気が付かれたくなくて、ぎゅうと抱き着いた腕に力を込めた。

 あたたかな体温が伝わってくると同時に、柔らかな茉莉花の香りがして、ほっとする。

 なあに、どうしたの、と戸惑いよりも嬉しさの方が優っているのが分かる声でグレイペコーが問いかけてくるけれど、どうにも答えようがないので甘えるふりをする事しか、リグレットには出来ない。

 そんなリグレットの後ろから声をかけたのはノルで、先程までの様子など一切感じられない程に、その声はいつも通りだ。


「おかえり」

「ただいま。ちゃんとご飯買えたんだね」


 偉い偉い、と子供を褒めるように頭を撫でようとするグレイペコーに、ノルは渋面を浮かべてその手を避けている。

 そっと覗き見たノルは平然とした顔をしているので、リグレットは思わずむっとしてしまう。

 こっちは散々振り回されてるのに、と頬を膨らませれば、くすくすと吐息混じりの笑みを零したグレイペコーが頬をつつくので、リグレットはますます頬を膨らませていた。

 リグレットが膨れている理由など気付きもしていないのだろうノルは、不思議そうに首を傾げている始末だ。


「ノル、疲れたでしょう」


 リグレットの頭を撫でて宥めながらのグレイペコーが問いかけると、ノルは緩やかに首を振っている。


「お前こそ、随分疲れた顔をしてるじゃないか」


 ノルが珍しく心配そうに言うので、リグレットもグレイペコーの顔を見た。

 確かに、いつもよりくたびれたような顔をしているように見える。

 グレイペコーは一瞬ぱちぱちと瞬きを繰り返してから、緩やかに首を振っていて。


「三区に行くと、疲れるよ」


 やっぱり此処が一番安心する、と困ったように笑っていた。


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