85 どうか、もう二度と出会いませんように
太陽が真上に登る時間帯に外に出る、という経験が乏しいせいか、目に映る光景全てにを現実味を感じられずに、戸惑う心のままにノルは息を吐き出した。
陽光に照らされた中央広場は、街全体が白を基調としている為だろう、眼が灼かれてしまうのではないかと思う程に眩い。
それに、一人で街を歩くような事は一度だってなかったから、とノルは少しばかり途方に暮れたような気持ちになって、小さく息を吐き出した。
いつだって、誰かが側にいてくれなければ、倒れた際、命に関わるかもしれないからだ。
けれど、今は違う。
(まるで、今まで見ていた世界とは全く違う世界だ……)
すれ違う人々の表情や、太陽の光が注がれた街の風景、誰かの足音や遠くから聞こえる笑い声、そんな事に意識を向ける事すらしなかった。
身体が正常な状態になるだけで、これだけの情報が一気に自分の中へと押し寄せてくる。
目の奥が熱くなるような、胸の底が震えるような、言いようのない気持ちになって、ノルは顔を上げた。
眼を灼くような陽光に、金色の瞳を眇める。
こうした世界を見せてくれたのが、自分よりもまだ幼い少女というのが、何だか不思議で、可笑しい。
他者には決して分からないだろう程度の変化しか起こらない、自らの口元が僅かに緩むのを感じながら、ノルは視線を下ろした。
足元にいた薄茶色の毛並みをした狼が、甘えるように濡れた鼻を手のひらに押し付けてくる。
「そうだったな」
昼食を買いに来ていたのだった、とノルが頭を撫でると、キナコは嬉しそうに尻尾を振っている。
街に一人で出てみようと試みたのは、薬に頼りきずに生活を送れ、森の行き来さえ問題なく行えるようになったからだ。
グレイペコーやグラウカには随分と心配され、リグレットも付き添うと何度も言ってくれたけれど、キナコを伴う条件でどうにか納得していたし、何より、話をした時に意外そうな顔をしていたイヴルージュが背中を強く叩いて賛成してくれたので、安心して外に出れていた。
とはいえ、街中に慣れてはいないのは確かなので、リグレットが書いてくれたメモを頼りに大通りから一本外れた道へ入ると、騒がしかった通りとは違い、落ち着いた雰囲気が感じられた。
少し先を歩く狼のキナコも慣れている道なのだろう、軽やかに進んでいく。
その後ろを辿るように歩いていると、キナコが不意にぴくりと顔を上げて、歩みを止めた。
どうした、と問いかけようとした瞬間、目の前に立つ人物の姿を見たノルは、思わず身体を強張らせてしまう。
腰まで伸ばした癖のある黒髪に、鏡に映したかのような金の瞳。
以前会った時に着ていたシスター服ではない、喪に服したような黒のワンピース姿。
鏡合わせには、もう二度と出来る事はない片割れの姿に、ノルは唇を震わせる。
「……ネ、ム……」
恐怖は感じないのに、何故だか身体が全く動かない。
何か言おうと考えても、言葉が上手くまとまらない。
そんなノルの様子を見てか、ネムは静かに笑むと、ゆっくりと側まで歩いてくる。
「身体の調子が良さそうね。顔色も随分良くなったみたい」
あなたも元気そうだわ、としゃがみ込んだネムが頭を撫でると、キナコはぱたぱたと嬉しそうに尻尾を振っていた。
薬物を渡して飲ませ、それを服用した弟が苦しんだと知っている筈なのに、何の戸惑いも躊躇もなく当たり前のように接してくるネムに、ノルはただただ困惑してしまう。
けれど、狼に触れる手つきも、見つめる眼差しも、過去の情景を思い出させる程に、優しげに見えた。
「やっぱり姫様のプリムヴェリーナだから、それだけの効果があったのかしら」
その言葉に、リグレットの血液を使った薬でノルが助かった事を彼女は知っているのだ、と理解したノルは、眉を寄せて問いかける。
「どうして、それを?」
「この国の事なら、姫様は何でも知っているもの」
大きく口端を引き上げたネムは立ち上がり、ノルの顔を真っ直ぐに見つめた。
過ぎた年月から同じ形ではなくなってしまった双子の姉は、ノルから見ると見下ろす形になるのに、決して小さくは感じられない。
「その人物は、一体誰なんだ?」
「姫様は姫様よ。言葉の通りにね」
答えにならない答えを返してくる彼女を見つめて、続く言葉をノルは待っていたけれど、彼女は決して意志を曲げるつもりはないらしい。
それが、姫様と呼ぶ人物に対する、彼女の信頼の証のように感じられていた。
血を分けた家族よりも、やっと再会した弟よりも、彼女にとっては、その人物の方が大切なのだろう。
その事にどうしようもない淋しさを覚えながらも、ノルは手のひらを強く握り締める。
だとしても、テッサが言った事が本当ならば。それなら、自分の言葉もまだ届くのではないか。
「ネム、一緒に帰ろう」
意を決してそう告げた言葉は、思ったよりも弱々しく感じられて、ノルは唇を噛み締めた。
ネムは暫く金色の瞳を瞬かせて、ノルをじっと見つめている。
その奥にある真意を探るように。それが真実であるかを確かめるように。
ノルはただ、揺れる瞳を逸らさないようひたすらに耐えていたが、先に視線を外したのはネムの方だった。
「私が帰るのは姫様のお側だけよ。だって、私は姫様のヴィヴアリアだもの」
その言葉の意味が分かりかねて、ノルは困惑した眼差しをネムに向けた。
ネムはその様子に金眼をゆっくりと細めて笑ってみせると、顔を上げて遠くを見つめていた。
彼女の視線を辿ったその先には、あの青い桜の森がある。
「姫様がいて下さらなかったら、私はあの時に死んでいたわ。だから、姫様が望む事は何だってする」
「望む事?」
ノルが聞き返せば、ネムは振り向いた。
癖のある黒髪が、動作に合わせて揺れている。
「この国と、この国の人間を全て滅ぼす事」
は、と息を零して、ノルは金色の瞳を大きく瞬かせた。
一体、彼女は何を言っているのか。
どう考えても分からなくて、嫌がる子供のように、首を振る事しか出来ない。
「……ネム。本当に、そんな事をネムは望んでいるのか?」
彼女は答えを返さずに、ただ淡く微笑んでいた。
聞き分けのない弟を宥めるような仕草に、ノルは焦燥感でいっぱいになり、震える呼吸を繰り返して、唇を噛み締めた。
ノルが知っている彼女は、弟を守る為ならば、他人を傷付ける事さえ厭わなかった。
それは、あの場所から逃れるには、どうしたって必要な事だった。
けれど、今、彼女が口にした事は、明らかに違う。
明確な悪意をもって、他者を傷付けようとしている。
自分が信じている者の為に。
ノルの恐怖心を感じ取ったのか、ネムは慈しみに満ちた眼でノルを見つめ、そのしなやかな指先でノルの頬を撫でた。
凍える程に冷たい指先に、睫毛が震えている。
「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫よ。ノルと私はこの国の人間ではないのだもの。抗体持ちにさせる薬を作る実験の為に、狼達によって他国から持ち込まれた孤児。それが私達だから」
あなた達の所にいる、あの小さな狼さんも、ね。
付け足された言葉に、テッサの事を言っているのだろうと知れて、ノルは唇を引き結んだ。
矢張り、テッサが言っていた、青い桜の森の姫、その人物の側にいる特別な狼とは、彼女の事だったのだろう。
「ネム。もしかして、あの犯罪組織とも手を組んでいるのか」
どうして、とノルが問いかけると、ネムはノルから手を離して、つまらなそうに息を吐き出していた。
そうしてゆっくりと前を歩いていくネムの後ろを、距離を縮めないよう慎重に見極めながら、ノルはついていく。
「ノルに渡したあの薬物。あれを飲んだ時、とても辛かったでしょう? 苦しくて、痛くて、もう消えてしまいたいって思ったでしょう?」
歌うように彼女は言い、そして静かに振り返る。
「あの薬はね、ブルーブロッサムの実から抽出したエキスを使用しているの」
「ブルーブロッサムの、実?」
「そう。ブルーブロッサムが年に二回、花を散らすでしょう? あれは何故だと思う?」
そう言って、ネムは何処からか取り出したそれを、ノルの目の前へと差し出した。
林檎を指先で摘める程の大きさにしたような、青く輝く果実が彼女の手のひらに乗っている。
「毒素を大量に溜め込んだ、この実を宿すからよ。これ一つあるだけで、森の毒霧を吸い込む以上の毒素を外に持ち出す事が出来るの」
ネムの話を聞き、ノルは一気に血の気を引くような感覚を覚えた。
この身体がどれだけの苦痛を味わったのか。それを身を以て経験しているノルにとって、それは間違いなく恐怖を突きつけてくるものでしか無かった。
「この実を使って作られた薬物を服用すると、ブルーブロッサムの毒素を大量に体内へ取り込むのと同じ作用を齎すわ。その効果は、ノルが一番よく分かっているわよね? あの組織や狼達は、国中にそれを広げる為に利用しているだけの事」
ネムはただ優しく笑顔を向けていて、あまりの温度差に、ノルは愕然とした気持ちにさせられる。
「そうすれば、私達が味わった苦痛を、この国の人間達にも味わせる事が出来るもの」
「どうして、そんな事を……」
「どうして、って」
何が可笑しいのか、ネムは急に声を上げて笑い出していた。
周囲の人々が訝しげに見つめるけれど、得体の知れない薬物が蔓延しつつある今、誰もがそそくさと視線を外して早足で何処かへと行ってしまう。
足元にいるキナコさえ、その異質さに、ノルの足元で耳と尻尾を伏せている。
「当然だわ。どうして私達だけが苦しまなければならなかったの」
ノルと同じ金色の瞳を大きく見開き、彼女は言う。
「同じ痛みを分かち合えない他人には、この痛みを絶対に理解されない。しようともしない。どうして私たちだけが苦しまなければいけないの? ねえ、どうして? どうして? どうして? どうして?」
何度も繰り返した言葉には狂気が孕み、瞳は怒りに満ちていた。
白い指先が、目の前にゆっくりと伸ばされている。
「ねえ、ノル。おかしいでしょう?」
確かに、あの研究所であった事を、無かった事にはされたくはない。
耐えられない程の苦痛を味わい、恐怖と絶望に満ちたあの日々を、決して忘れる事なんて出来ない。
けれど、と考えて、ノルは彼女の手を取って、緩やかに首を振った。
「だからといって、それが誰かを傷つけていいという免罪符にはならない」
ネムが抱える気持ちは、ノルにとっても、痛い程に理解出来るものだ。
同じ痛みを分かち合ったのは、他でもない、此処にいる二人なのだから。
けれど、それを他者を傷つける事に利用すれば、傷つけた側の人間と何も変わらない。
「……ノルはもう、わからないのね。私と同じではなくなってしまったのね」
掴んだ手はネムによって振り払われ、俯いた彼女の表情は、長い髪に隠れて見えない。
「私との約束を、守ってはくれないのね」
「違う」
「違わないわ」
ノルの言葉を真正面から否定して、ネムは言う。
「姫様だけが、私の痛みを理解してくれた」
顔を上げ、真っ直ぐに見つめる瞳は、拒絶と、猜疑と、悲哀と、様々な感情に揺れていた。
まるであの幼い頃の、手を離した瞬間のような瞳に、ノルは思わず足を竦めてしまう。
「あの痛みは、姫様の痛みなの。姫様をあんなにも苦しめたこの国も、この国の人間達も、姫様の痛みをその身でしっかりと思い知るといいんだわ」
「それは、どういう……?」
言葉の意味を掴みかねて困惑したノルに、ネムは背を向けて歩き出した。
ノルはその場所からどうしても動けずに、ただその背中を見つめる事しか出来ない。
キナコが右往左往して、躊躇うように片足を浮かせながら、ネムの後ろ姿とノルの顔を交互に見つめている。
「さようなら、ノル」
告げられた言葉に、ハッとしてノルは顔を上げた。
それは、いつか自分が彼女に発した言葉が、自らに返って来るかのよう、で。
「……っ、ネム! 待て、待ってくれ!」
手を伸ばして叫んだその瞬間、振り向いた彼女に、明らかに拒絶を示した眼差しを向けられて、ノルは思わず身体を強張らせた。
「…………、ネム」
ふら、と伸ばした手が揺れた時には、もうネムは前を向いて歩き出していた。
遠ざかる背中は、今の彼女にはどんな声も言葉も届かないのだ、と知らしめているよう、で。
幼い頃、手を離してしまったあの時から何一つ変わっていないのだと思い知らされて、ノルはその場所に立ち尽くしていた。




