第二章 玄関での事情聴取と、石化した銅像
「楓……」
「自分の家の玄関先で、どこから連れてきたのかも分からない陰キャ男子相手に、いったい・な・に・を・して・る・の?」
半開きになった防犯扉の向こうから、冷ややかな声が飛んできた。
廊下の静寂が、一瞬で打ち破られる。
白石楓は反射的に半歩後ずさった。
上履きではなく、革靴の底がタイルを擦り、甲高い音を立てる。
「美咲! 違うから! そういうんじゃないから!」
楓は慌てて両手を振った。
「……いや、違わない! そういうこと! ……って、違うってば! ああもう! ( >Д<;)」
頬が一瞬で真っ赤に染まり、その赤みは首筋を伝って耳まで広がっていく。
白石美咲は、一段高くなった無垢の床の縁に立っていた。
淡いベージュのエプロンを身につけ、右手には味噌汁でもよそうような木のおたま。
眼鏡のレンズには、傾きかけた夕陽が細く反射している。
その視線は、しどろもどろになっている妹を素通りし、その後ろに立つ男子生徒へと一直線に向けられていた。
黒い短髪。
ごく普通の黒縁の度なし眼鏡。
制服のブレザーは一番上のボタンまできっちり留められ、通学鞄は左肩にきちんとかけられている。
ピアスもない。
髪を染めてもいない。
何より、人を小馬鹿にするような軽薄な笑みが、その顔にはまったく浮かんでいなかった。
美咲がこれまで勝手に想像していたところによれば、楓が男子を家に連れてくるとしたら、おそらく放課後になると廊下で大声を上げて騒ぎ出すような、いかにもリア充然とした男子に違いなかった。
その場合に備えて、説教の台詞だって何度も頭の中でシミュレーションしている。
風紀委員長としての威厳を存分に発揮し、問答無用でこの男を廊下から叩き出すつもりだった。
――ところが。
目の前にいるのは、拍子抜けするほど真面目そうな、ただの普通の男子生徒だった。
用意していた説教が、喉の奥で行き場を失っている。
「……えっと」
楓が半歩前へ出る。
そして意を決したように、隣に立つ男子の制服の袖をつまんだ。
「この子が、前に話してた……付き合ってる人。神谷悠真」
一度言葉を切る。
視線がふらりと廊下の上――消火栓ボックスのあたりへ逃げた。
そして、蚊の鳴くような声で付け加える。
「……私の、彼氏。(*>.<*)」
悠真は、その袖をするりと引き抜いた。
鞄の持ち手を片手で握り直し、両手をズボンの脇に添える。
そして上体を前に倒し、きっちりと頭を下げた。
「初めまして。突然お邪魔してしまってすみません、白石先輩。高等部一年二組の神谷悠真です。放課後に突然お伺いしてしまい、本当に申し訳ありません」
姿勢は完璧。
声も落ち着いている。
礼儀作法に関して、文句のつけようがない。
放課後に彼女の家へ遊びに来た高校生というより――水道修理の見習い業者が挨拶に来たような有様だった。
美咲の手にあった木のおたまが、ゆっくりと数センチ下がる。
目の前で頭を下げたまま動かない後輩を見つめ、美咲はわずかに唇を開いた。
だが、さっきまで全身に満ちていた威圧感は、完全に行き場を失っている。
「……とりあえず、上がって」
美咲は身体を横へずらし、玄関への道を空けた。
「ずっと廊下に立たれてると……近所の人に見られたとき、さすがに格好がつかないから」
そう言って、スリッパの音を鳴らしながら廊下の奥へと戻っていく。
エプロンの紐が、背中で小さく揺れた。
楓はその場に半秒ほど固まっていたが、やがて制服の襟元をぱたぱたと扇いだ。
「……あっつ」
さっきまでの気まずさが、ほんの少しだけ引いていく。
そしてしゃがみ込むと、玄関の下駄箱の一番下にある仕切りを開けた。
中から取り出したのは、濃紺の男性用スリッパ。
それを上がり框の手前に、ぽん、と置く。
「これ履いて。家にあった古いやつだから。……変なこと考えないでよね。( ̄^ ̄)」
そう言って、楓はぷいっと顔を背けた。
悠真は革靴の紐をほどき、スリッパに足を入れる。
その瞬間、足首の内側に、ごく小さな痛みを感じた。
そこには、ハサミで切られたばかりの透明なプラスチック製タグ紐が残っていた。
切り口はまだ新しく、少しだけ指に刺さりそうな毛羽立ちがある。
スリッパからは、ショッピングモールで売られている新品の布製品特有の匂いがした。
中敷きには白いロゴの模様がくっきり残っている。
擦れた跡は――どこにもない。
悠真はちらりと楓を見る。
楓は、玄関の天井に取り付けられたダウンライトを、まるで初めて見るもののように見上げていた。
耳は、熟れすぎた果物みたいに真っ赤だ。
【白石さん。家にあった古い物なら、わざわざ登校途中にハサミでタグを切っておく必要なんてありませんよね】
【というか、そんなに必死に知らないふりをしていると、美咲先輩がお茶を持ってくる前に、僕が救急車を呼ぶ羽目になりますよ】
* * *
リビングには淡い色合いのフローリングが広がっていた。
間取りは開放的で、ローテーブルもテレビ台も埃ひとつない。
部屋の隅には、収納ボックスがきれいに積み重ねられている。
「ソファに座ってて」
美咲は対面式キッチンの向こう側でそう言うと、食器棚から厚手のグラスを二つ取り出した。
「麦茶、入れてくるから」
――ただし。
「彼氏」という言葉だけは、まだ一度も口にしていない。
楓は悠真の腕を引っ張り、リビング中央の布張りソファへ向かった。
そして、そのまま悠真の隣に腰を下ろす。
距離が近い。
肩が触れそうなくらい近い。
制服の生地同士が、かすかに擦れ合った。
「……いい? よく聞いて」
楓が半歩だけ身を寄せ、蚊の鳴くような声で囁く。
「今、美咲は私たちに背を向けてお茶を入れてるでしょ。これ、私たちの仲がいいって証明するチャンスだから」
「チャンス?」
「そう。美咲がお茶を持って振り返ったら、ちょっとだけ……その、恋人っぽくして」
「了解」
悠真は眼鏡を押し上げた。
「報酬を受け取っている契約上の乙なので、協力します」
「そこはもうちょっとロマンチックに言ってよ……」
楓は両手を膝の上に置いた。
そして意を決したように、少しずつ肩を悠真のほうへ傾けていく。
あと二センチ。
距離が最後の二センチまで縮まったところで――
楓の動きが止まった。
背筋はぴんと伸びている。
膝は固く閉じられ、両手はプリーツスカートの生地をぎゅっと掴んでいる。
目は、電源の入っていないテレビ画面に釘付け。
そして――胸が、まったく上下していない。
悠真はゆっくりと隣を振り返った。
そこには、彫像のように固まった少女がいた。
【白石さん。契約には、美杜莎の第八階級石化魔法を食らったフィールドNPCの石像を演じる、なんて項目はありませんよ】
【というか、自力で呼吸を再開してくれないと、美咲先輩がお茶を持ってくる前に、僕が救急車を呼ぶことになります】
そのとき。
キッチンのほうから、氷がグラスの中へ落ちる澄んだ音が響いた。
美咲が木製のトレイを手にして振り返る。
そして――
再び、その視線が二人へと向けられた。




