第三章 沸騰する出汁と、近すぎる距離感
氷の入った厚手のグラスが二つ、ローテーブルの上に置かれた。
カラン、と氷がガラスの内側にぶつかり、澄んだ音を響かせる。
「……どうぞ」
白石美咲の声は、相変わらず事務的で冷たかった。
トレイを脇に挟み、ソファに並んで座る二人へ視線を向ける。
神谷悠真は、ローテーブルの脚に使われている無垢材の木目をじっと見つめていた。
そして妹の白石楓はというと――両膝を強力な接着剤で固められたかのようにぴったり閉じ、両手を行儀よく膝の上に置いている。
美咲はそれ以上何も言わなかった。
そのまま踵を返し、対面式キッチンのカウンターの向こうへ戻っていく。
コンロでは、先ほどから煮込んでいたおでんが静かに湯気を立てていた。
リビングに残ったのは、換気扇の小さな唸り声だけだった。
楓はソファの上で、背筋をぴんと伸ばしたまま座っている。
けれど、その目だけは落ち着かない。
ちらっ。
また、ちらっ。
さっきまでの大口は、いったいどこへ消えてしまったのか。
針一本落ちる音すら聞こえてきそうな静寂の中では、隣に座っている悠真へ話しかける勇気すら湧いてこない。
「……わ、私、部屋に戻って今日の復習ノート取ってくる!」
突然、楓が立ち上がった。
勢いがつきすぎて、膝がローテーブルの角にぶつかる。
「っ……!」
けれど痛がっている暇すらない。
楓はそのまま、左右の足を同時に出しているかのようなぎこちない動きで廊下へ向かっていった。
まるで逃亡だった。
そして――
バタン!
部屋のドアが勢いよく閉じられる。
リビングは、完全な静寂に包まれた。
悠真はグラスを手に取り、麦茶を一口飲んだ。
冷たい液体が喉を通っていく。
それから、誰もいなくなったソファを見た。
次に、キッチンへ視線を向ける。
そこでは美咲がこちらに背を向け、長ネギを刻んでいた。
悠真は、自分のことを陰キャだと自覚している。
だからこそ分かる。
女の子の姉を一人だけキッチンで働かせ、自分はリビングでテレビを眺めながら待っている。
――それは、さすがに人としてどうなんだ。
悠真はグラスを持ったまま立ち上がった。
そのまま対面式キッチンのカウンターへ歩いていき、グラスを大理石の天板へそっと置く。
「何か手伝えることはありますか、白石先輩」
声をかけられ、美咲の包丁を動かす手がぴたりと止まった。
彼女が振り返る。
いつの間にかカウンターのすぐそばまで来ていた悠真と、目が合った。
「……大丈夫よ、神谷くん」
美咲は左手にミトンをはめたまま、小さな器に入ったみりんを持ち上げる。
その声音には、隠すつもりもないほど明確な距離感があった。
「楓のお客さんなんだから、あなたはソファに座って夕食を待っていればいいの」
「分かりました」
悠真は素直に頷いた。
――が、すぐには戻らなかった。
視線だけが、美咲の隣にあるガスコンロへ向けられる。
土鍋の中では、先ほどまで弱火で静かに煮込まれていた鰹出汁が、明らかに様子を変えていた。
何か新しい具材を加えたせいなのか。
白く濃密な泡が、肉眼でも分かるほどの勢いで膨れ上がっている。
このままでは、鍋の縁を越えてコンロへ流れ落ちる。
「……鍋、吹きこぼれます」
悠真が言った。
美咲が振り返る。
そこで初めて、鍋の危険な状態に気づいた。
右手には、長ネギを切ったばかりの包丁。
左手には、みりんの入った陶器の器。
コンロの火を止めようにも、両手が塞がっている。
こういうとき、人は無意識に焦る。
そして、焦れば焦るほど動きは鈍る。
「っ……」
美咲は慌てて器をまな板の上へ置こうとした。
その手首が、隣に置いてあった胡椒の瓶に当たった。
コロコロコロ……。
瓶が天板の端へ向かって転がっていく。
悠真は何も言わなかった。
ただ、一歩だけ前へ出た。
上半身が、わずかに前へ傾く。
右腕が自然な動きで美咲の肩越しに伸びた。
そして、細長い指がガスコンロの黒いツマミを正確につまむ。
ぐいっ。
右へ回し切る。
カチッ。
青い炎が、一瞬で消えた。
同時に、土鍋の中で暴れていた白い泡も、二秒ほどで静かに引いていく。
そして――
もう一方の手が、天板の端へ伸びた。
落ちかけていた胡椒の瓶を、悠真は何事もなかったかのように受け止める。
そのまま調味料ラックのくぼみに戻した。
ほんの数秒。
それだけの出来事だった。
だからこそ。
美咲が我に返ったときには――
悠真の横顔が、すぐ目の前にあった。
ほんの数センチ。
いや、ほとんど指一本分ほどしか離れていない。
ふわりと、少年の制服から石鹸のような淡い香りが漂ってきた。
黒縁眼鏡の端に施された、ごく細かな金属の模様まで見える。
火を止めることだけに集中している悠真の目は、驚くほど静かだった。
学校では、無口で近寄りがたい陰気な男子。
けれど今この瞬間だけは、その印象とはまるで違って見えた。
余計なことを言わず、必要なことだけを淡々とこなす。
――妙に、頼りになる。
そう思った瞬間。
悠真が腕を引いた。
そして半歩下がる。
何事もなかったかのように、元の礼儀正しい距離へ戻った。
「火、消しました」
悠真は、呆然としている美咲を見た。
相変わらず、声にはほとんど抑揚がない。
「……でも、学校ではあんなに堂々と風紀を取り締まってる美咲先輩でも、家だと意外と慌てるんですね」
その一言が、静かなキッチンへ落ちた。
そして――
爆弾が炸裂した。
美咲の目が、わずかに見開かれる。
学校では常に冷静沈着。
全校の男子から『高嶺の花』と呼ばれている風紀委員長。
そんな彼女の頬が――
見る見るうちに赤く染まっていった。
頬から耳へ。
耳から首筋へ。
まるで熱が一気に駆け上がっていくようだった。
「だ、誰があなたに名前で呼んでいいって言ったのよ! (/// ///)」
美咲は慌てて包丁を置いた。
両手が無意識にベージュ色のエプロンの端をぎゅっと掴む。
さっきまでの風紀委員長としての威厳など、見る影もない。
「それに……! 私は別に慌ててなんかいないから!」
声が上ずる。
「これは、その……料理中に起こる、ごく普通の物理現象なの!」
【白石先輩】
【普通の物理現象って、胡椒の瓶が床に落ちそうになることまで含むんですか】
悠真は眼鏡を押し上げた。
しかし、それ以上は何も言わなかった。
その必死な言い訳を、わざわざ論破するほど野暮ではない。
――そのときだった。
廊下の奥から、ドアが開く音がした。
「悠真、数学のノート見つかっ――」
白石楓が、カートゥーン柄のノートを抱えて、スリッパをぱたぱた鳴らしながら戻ってくる。
しかし、言葉が途中で止まった。
顔を上げた楓の視界に飛び込んできたのは――
彼女の脳を一瞬でフリーズさせる光景だった。
普段から自分に厳しく、どんな男子にも一切の隙を見せないはずの姉。
その美咲が、顔を真っ赤にしながらエプロンの裾を握りしめている。
そして姉の目の前には、本来ならソファで大人しく待っているはずだった――
自分の『偽彼氏』、神谷悠真。
その距離は、半歩にも満たない。
キッチンには、なんとも言えない微妙な空気が漂っていた。
楓の手から、ノートが落ちかける。
「……え?」
そして次の瞬間。
「ちょっと待って! 二人とも、なんでそんなに近いのよぉ!? ( >Д<;)」
楓はまるで火のついた車輪でも付けたかのような勢いでキッチンへ突っ込んできた。
悠真の腕をがしっと掴む。
そのまま自分のほうへ二歩ほど強引に引き寄せる。
そして振り返り――
まるで大事な獲物を守る小動物のような目で、姉を睨みつけた。
「それに!」
頬をぷくっと膨らませる。
声のトーンまで、明らかに変わっていた。
「悠真、美咲のこと名前で呼んじゃダメだからね!」




