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第一章 扉の向こうのツンデレ契約と、突然開かれたドア

 秋の傾いた夕日が、高層マンションの外廊下に敷かれたタイルを、濃いキャラメル色に染めていた。

 ひんやりとした風が防犯フェンスの隙間をすり抜け、少女の制服のスカートの裾をわずかに揺らす。

 その風に乗って、シャンプーに混じった淡い桃の香りが漂ってきた。

 神谷悠真は鼻筋の黒縁の伊達メガネを押し上げ、肩にかけたスクールバッグを少し持ち上げる。

 その半歩隣では、白石楓がローファーの先で玄関前をせわしなく踏みながら、細かな足踏みを繰り返していた。

 もし私立紫苑学園の普通の男子生徒が、この場所に立っていたなら。

 今ごろ心拍数が限界を突破して、そのまま絶命していてもおかしくない。

 なにしろ隣にいる少女は、一年生の間では誰もが認める学年トップクラスの人気者。

 どこへ行っても廊下の視線の半分をかっさらっていく、流行に敏感なギャル系のクラス一の美少女なのだから。

 ――しかし。

 神谷悠真の心は、微塵も揺れていなかった。

 むしろ家に置いてきた、まだクリアしていない『ELDEN RING』のことが恋しいくらいだ。

 陰キャオタクの第一生存原則。

 ――三次元の美少女から向けられる、いかなる好意にも、コンマ一ミリたりとも動揺してはいけない。

「ねえ、神谷」

 鈴のように澄んだ声が、しかし明らかに張り詰めた響きを帯びて、静かな廊下に落ちた。

 白石楓がぴたりと足を止め、振り返る。

 両腕を胸の前で組み、整った眉と目をわずかにつり上げる。

 いかにも人を見下ろしているような、傲慢な態度を懸命に作っていた。

 けれど、普段なら生き生きと輝いている栗色の瞳は、今に限って悠真のネクタイの結び目あたりをふらふらとさまよい、決して彼と目を合わせようとしない。

 さらに何より雄弁だったのは、ほんのり赤く染まった耳たぶだった。

「いい? 昨日サインした『恋人代行契約』、まさか紙くずみたいに捨ててないでしょうね?」

「ちゃんと僕のバッグの内ポケットに入ってる。クリアファイルに挟んで、きれいに保管してあるよ、白石さん」

 悠真は、まったく抑揚のない声で答えた。

「全額前払いを受け取った、れっきとした契約上の乙として、僕の職業倫理に一点の曇りもない」

「だ、誰が『白石さん』なんて呼べって言ったのよ!」

 楓は尻尾を踏まれた猫のように、ぴくっと身体を震わせた。

 その頬が、見る見るうちに薄い桃色へ染まっていく。

 彼女は下唇を軽く噛み、声を低くして凄む。

「契約の第二条にちゃんと書いてあるでしょ! プライベートと家族の前では、呼び方も自然にすること! 美咲に聞かれてみなさいよ。そんな保険の営業マンみたいなよそよそしい敬語を使ってたら、一秒でバレるんだから!」

「じゃあ、楓……さん?」

「『さん』もいらないって言ってるでしょ、このバカ!」

 楓は半ばキレたように足を踏み鳴らした。

 栗色のゆるくウェーブした長い髪が、その動きに合わせてふわりと揺れる。

 彼女は一度、大きく息を吸った。

 まるで胸郭を内側から突き破ろうとしている小鹿を必死になだめるように、乱れかけた呼吸を整える。

 そして、もう一度だけ高慢そうな表情を作り直した。

「と、とにかく! このあとドアが開いたら、美咲の前で普段みたいに教室の隅っこに縮こまってる陰キャオタク丸出しの態度なんか見せたら……あんた、残りの報酬は全部なしだから! ついでに、あんたが買った秋葉原限定の同人誌も、全部燃えるゴミに出してやる!」

「限定同人誌には、最低限の敬意を払ってほしい。あれは三時間並んでようやく手に入れた芸術作品だから」

 悠真は平然と言い返した。

 その視線が、スカートの裾をぎゅっと握りしめている少女の手へと落ちる。

(白石さん。脅し文句を言うとき、もう少し声に力を込めてくれたら、僕ももう少し迫力を感じられたんだけど)

 悠真は心の中で淡々と分析する。

 学校では、数え切れないほどのリア充男子からの告白を涼しい顔で断ってきた白石楓。

 そんな彼女が、自宅の玄関前に立った途端、ここまで緊張している。

 ――まあ、無理もないか。

 なにしろ、この分厚い木製の防犯ドアの向こうにいるのは、普通の専業主婦や穏やかな家族ではない。

 私立紫苑学園で名を轟かせる風紀委員長。

 そして二年生の頂点に君臨する絶対的な存在――白石美咲だ。

 全校生徒にとって、白石美咲先輩の、決して笑うことのない端正な顔立ちは、頭上に吊るされたダモクレスの剣にも等しい威圧感を放っている。

「それと……万が一に備えて、今のうちに臨戦態勢に入っとかないと」

 楓が、ごくりと喉を鳴らした。

 声が急に小さくなる。

 まるでこれから死地へ向かう覚悟でも決めたかのように、身体を強張らせながら、ほんの半歩だけ前へ出た。

 悠真が怪訝そうに見つめる中、少女はゆっくりと、震える細い指を二本伸ばす。

 そして、おそるおそる。

 本当に少しずつ。

 悠真の制服の上着、その腰のあたりの布地を、指先でつまんだ。

 布が擦れる、ごく小さな音がした。

 それほど厚くない制服越しに、少女の指先の温度が伝わってくる。

 ひんやりとしているのに、わずかに汗ばんでいた。

「……なによ」

 悠真の視線に気づいた楓は、顔を真っ赤にして、まるで電流でも流れたように慌てて視線を逸らした。

 そして、虚勢たっぷりに吐き捨てる。

「このあたしが、わざわざあんたの制服に触ってあげてるんだから、光栄に思いなさいよ! これも恋人としての臨戦演習なんだから! 美咲がドアを開けたときに、あたしたちが仲良しだって信じてもらうためなんだからね! ……変な妄想とか勝手にしないでよ、このバカ!」

 悠真は何も言わなかった。

 ただ静かに、少女が自分の背中の裾を必死につまんでいる指を見下ろしていた。

(妄想? するわけないだろ)

 何十本もの王道ラブコメを読み漁ってきた陰キャオタクの思考回路からすれば、目の前で繰り広げられている状況の意味なんて、あまりにも明白だった。

 学校でしつこく言い寄ってくるリア充たちから逃げるため、追い詰められた美少女が、よりにもよって真面目で大人しいオタクを身代わりに選んだ。

 そのうえ、姉の前では『私、もう本気で恋愛してます』という偽装工作まで演じる。

 ただ、それだけの話だ。

 あの強気で傲慢な外面の下に隠れている、妙に慎重な態度も――。

 きっと恋愛経験がないせいで、親しげに振る舞う方法すら、少女漫画を見よう見まねで再現するしかないのだろう。

 しかし、悠真が何も言わずにいることが、極度に気まずさを感じていた楓をさらに追い詰めた。

「ね、ねえ……」

 楓の指先が、無意識のうちに強くなる。

 悠真の制服に、今にも皺ができそうなほどだった。

 ――こいつ、なんで何の反応もないの?

 ――怖くて固まってるの? それとも、あたしの言ったことなんて、どうでもいいって思ってるの?

 このままドアが開いて、あいつが今みたいな死んだ魚みたいなオタク顔をしていたら、美咲なら一目でただの下手な芝居だと見抜いてしまう。

「神谷! あんた、いったい――」

「カチャ」

 楓の言葉を遮るように、ドアの向こうから音がした。

 柔らかな室内履きが木の床を踏む音。

 それが、遠くから少しずつ近づいてくる。

 続いて、金属製のロックが外れる、乾いた音。

 ――白石美咲が、こちらへ向かっている。

 その瞬間、楓の全身の毛が逆立った。

 脳がコンマ一秒で真っ白になる。

 深呼吸する時間すらない。

 ドアの向こうにいる美咲には聞かれたくない。

 でも、ドアが開く最後の瞬間までに、目の前の無表情オタクが、本当にさっきの言葉を理解しているのか確認しなければならない。

 極限まで追い詰められた焦りが、完全に理性を吹き飛ばした。

 楓は驚いた小鹿のように、勢いよく一歩前へ踏み込んだ。

 制服の布が激しく擦れる音とともに、少女は両手で悠真の襟元を掴む。

 そして、ためらう暇もなく背伸びをすると、火照った頬を悠真の耳元へ寄せた。

 二人の距離が、一瞬でゼロになる。

 淡く甘い果実の香りと、少女の温かな吐息が、無防備なまま悠真の首筋へ流れ込んできた。

 頬にかかった髪が肌を撫で、細かな痺れのような感覚を残す。

「ねえ……! あんた、さっきの話、ちゃんと聞いてたんでしょうね!?」

 楓は、ほとんど吐息だけの声で、悠真の耳元に言葉を叩き込んだ。

 極度の緊張で潤んだ瞳が、すぐ目の前にある。

 しかし――。

 悠真がこのあまりにも強烈な感覚の奔流に反応するよりも早く。

「ギィ……」

 分厚い防犯ドアが、何の前触れもなく内側へ開いた。

 玄関の少し黄味がかった暖かな明かりが、廊下へと一気に流れ出す。

 同時に、土鍋の中で煮立つ鰹だしの、濃厚で温かな香りまで漂ってきた。

 そのドアの向こうに立っていたのは、淡いベージュのコットン製エプロンを身につけた少女だった。

 艶のある黒髪は後ろで無造作に一つにまとめられ、家庭的なポニーテールとなっている。

 そのせいで、白く滑らかな首筋が露わになっていた。

 手には、汁をかき混ぜるための木製の長い柄のしゃもじを握っている。

 しかし――。

 学校では、端正で冷厳、そして誰もが容易には近づけない存在として知られているその美貌が、今は完全に固まっていた。

 白石美咲の切れ長で冷たい瞳が、まるで時間を止められたかのように、ゆっくりと見開かれていく。

 その視線がまず向かったのは――。

 自宅の玄関前で、妹が男の身体にぴったりと張り付き、両手でその襟を掴んでいる、あまりにも親密な姿。

 次に、今にも血が滴りそうなほど真っ赤になった楓の横顔。

 そして、男の耳元で熱い吐息を漏らしている、その唇。

 最後に。

 冷たい視線がゆっくりと上へ移動し、至近距離での接触にわずかに硬直した、悠真の若い顔へと突き刺さった。

 夕日が沈んでいく。

 先ほどまで吹いていた廊下の風さえ、この瞬間だけは完全に凍りついたようだった。

 美咲の細く長い指に握られた木製の長柄が、きし、と小さな音を立てる。

「……楓」

 美咲の声は、ひどく静かだった。

 そして――。

「自分の家の玄関先で、どこから連れてきたのかも分からないその陰キャの男の子相手に――」

 一拍。

「いったい、な・に・を・し・て・る・の・か・し・ら?」



【あとがき】


はじめまして。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!


今回が初めての投稿になりますので、まだまだ拙いところも多いと思いますが、少しでも「続きが気になる!」と思っていただけたら嬉しいです。


面白かった、続きも読んでみたいと思っていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、とても励みになります。


これから楓と悠真、そして美咲がどうなっていくのか――。

楽しんでいただけるよう頑張って更新していきますので、どうぞよろしくお願いします!

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