第67話「同時」
朝。
森の中には、薄い霧が残っていた。
サクヤは目を閉じて立っている。
昨日から続けている。
目だけに頼らない。
音。
風。
足元の振動。
空気の流れ。
周囲にある小さな変化を拾う。
「……」
右。
何かいる。
左。
風が少し乱れた。
後ろ。
地面が僅かに揺れた。
「……三つ」
サクヤが目を開く。
ガルドが少し離れた場所に立っていた。
「分かったか」
「……なんとなくな」
「なら来い」
ガルドが構える。
サクヤも構えた。
「――!」
ガルドが消える。
「……!」
右。
サクヤは身体を捻る。
拳が頬を掠めた。
そのまま距離を取る。
「まだだ」
ガルドが追う。
右拳。
左。
蹴り。
サクヤは必死に見る。
肩。
足。
重心。
さらに周囲。
全部。
全部を捉えようとする。
「――っ!」
避ける。
避ける。
避ける。
だが――
ガルドの動きが一瞬だけ変わった。
「……!」
サクヤは反応する。
だが遅い。
拳が腹に入る。
「ぐっ!」
身体が浮く。
地面を転がる。
『遅ぇな』
ノクスが笑う。
「……分かってる」
『見えてんだろ?』
「……」
『なのに喰らう』
サクヤは立ち上がる。
「……身体が間に合わねぇ」
『それだけじゃねぇよ』
「……?」
『お前、全部見ようとしてる』
サクヤは黙る。
『右も左も、前も後ろも』
『全部拾って、全部考えてる』
『だから遅ぇ』
「……」
サクヤは目を閉じる。
もう一度。
ガルドが動く。
音。
風。
足音。
重心。
全部が入ってくる。
情報が多い。
多すぎる。
「……っ」
頭が混乱する。
右なのか。
左なのか。
前なのか。
「……!」
その瞬間。
サクヤは気づいた。
全部を見る必要はない。
必要なのは――
今、自分を攻撃しようとしているもの。
それだけ。
「……」
余計な情報を捨てる。
右。
そこだけ。
ガルドの拳。
肩の動き。
足の位置。
「――!」
避ける。
拳が空を切る。
続けて左。
今度は左だけを見る。
避ける。
さらに蹴り。
足元。
そこだけ。
サクヤは跳んだ。
――シュッ!
ガルドの足が下を通り過ぎる。
「……!」
サクヤは着地する。
ガルドの目が僅かに細くなった。
「ほう」
初めて。
ガルドが小さく声を漏らした。
サクヤは息を吐く。
「……見えた」
「違う」
ガルドが言う。
「捨てたんだ」
「……?」
「必要のない情報を捨てた」
サクヤは黙る。
「それも観測だ」
ガルドが構え直す。
「見ることだけが観測ではない」
「……」
「何を見るかを選ぶことも観測だ」
サクヤは拳を握った。
「……なるほど」
再びガルドが踏み込む。
今度は速い。
だが――
サクヤは一つに絞る。
肩。
「――!」
避ける。
次。
足。
避ける。
次。
拳。
避ける。
完全ではない。
何度か攻撃を受ける。
それでも。
以前より明らかに動けている。
そして――
ガルドの拳を紙一重で避けた。
サクヤはそのまま踏み込む。
「――!」
拳を振る。
ガルドは腕で受け止めた。
――ドンッ!
衝撃。
サクヤの腕が痺れる。
ガルドは微動だにしない。
「……まだ遠いな」
サクヤが呟く。
「ああ」
ガルドも即答した。
「まだまだだ」
「……だよな」
悔しい。
でも。
嫌じゃない。
昨日まで見えていたのに避けられなかったものが、今日は少しだけ避けられた。
それだけでいい。
『悪くねぇ』
ノクスが言う。
「……またそれか」
『勘違いすんな』
「してねぇよ」
『ただ――』
ノクスの声が少し低くなる。
『次は、見るだけじゃ足りねぇぞ』
「……?」
サクヤは眉をひそめる。
ノクスはそれ以上何も言わなかった。
森に風が吹く。
サクヤは拳を握る。
「……次は何だ」
ガルドが答える。
「明日分かる」
その言葉だけを残して、ガルドは歩き出した。
サクヤはその背中を見つめる。
まだ遠い。
だが――
一歩ずつ。
確実に近づいている。
そして明日。
サクヤは初めて――
自分の「観測」で、歪みを壊すことになる。




