第34話「クロノ・ヴェイル」
空間の歪みが、静かに揺れていた。
空気が重い。
呼吸が浅くなる。
それなのに――
サクヤは目を逸らせなかった。
(……なんだ、この感じ)
嫌じゃない。
むしろ、引き寄せられる。
「……行くな、サクヤ!」
レイの声が響く。
「また暴走したらどうすんだよ!」
「止まれって言ってんだろ!」
レオも叫ぶ。
それでも、サクヤは止まらない。
「……わかってる」
短く言って、前に出る。
歪みの前に立つ。
その奥から――
“何か”が現れる。
ゆっくりと、影が形を持つ。
白と紫の髪。
小柄な体。
整った顔立ち。
一瞬、女にも見えるほど中性的。
なのに。
圧だけが異常だった。
「……へぇ」
少年はサクヤを見て、薄く笑う。
「本物だ」
レオが一歩前に出る。
「誰だお前」
その時――
レンが、わずかに息を呑む。
「……なぁサクヤ」
視線は少年から外さないまま。
「お前……兄弟とか、いたっけ……?」
空気が止まる。
似ている。
顔じゃない。
もっと奥の“何か”が。
サクヤは眉をひそめる。
「……いねぇよ」
即答だった。
少年は、そのやり取りを見てくすっと笑う。
「そう見えるよね」
一歩、前に出る。
「……クロノ・ヴェイル」
静かに名乗る。
その瞬間、空気が変わる。
見えない圧が、場を支配する。
クロノはサクヤを見つめる。
「やっぱり似てる」
「何がだよ」
「全部」
短い言葉。
それだけで、サクヤの内側がざわつく。
「気持ち悪ぃな」
踏み込む。
拳を振り抜く――!
ガンッ!!
止められる。
片手で。
「……軽い」
ドンッ!!
次の瞬間、サクヤの体が吹き飛ぶ。
地面に叩きつけられる。
「サクヤ!!」
レンの叫び。
サクヤは歯を食いしばり、立ち上がる。
だが――分かる。
差がある。
クロノは微動だにしない。
「ちょっと見ただけ」
「君の中の“黒”」
その言葉に――
ざわっ
サクヤの内側が反応する。
クロノの目が細くなる。
「やっぱりある」
嬉しそうに。
壊れたみたいに。
「ねぇサクヤ」
ゆっくり近づく。
「自分が何か、分かってる?」
「……は?」
その瞬間――
消える。
ドンッ!!
背後から叩きつけられる。
「がっ……!」
「弱いなぁ」
感情のない声。
「それじゃあまた、飲まれるよ?」
視界が揺れる。
黒が滲む。
「……うるせぇ……」
「俺は……俺だ……!」
内側で、何かが脈打つ。
クロノが笑う。
「ほら」
「出てきてる」
バキッ!!
サクヤの体が崩れ落ちる。
もう動けない。
レン達も動けない。
圧が違いすぎる。
クロノはゆっくりとしゃがみ込む。
サクヤの目の前。
「ねぇ」
静かな声。
顎に、そっと手を添える。
「次はさ」
顔を近づける。
「ちゃんと“こっち”で来てよ」
そして――
一瞬だけ。
触れるだけのキス。
短い。
だが。
時間が止まったように感じるには十分だった。
――その直後。
クロノの頬が、わずかに赤くなる。
ほんの一瞬。
クロノ自身が気づく。
指先で、自分の頬に触れる。
「……あぁ」
小さく息を漏らす。
その表情は――
嬉しそうで。
でも、どこか壊れている。
「やっぱりだ」
サクヤを見下ろす。
「ちゃんと“反応”する」
意味の分からない言葉。
だが、確信している。
「いいね」
「やっぱり君は――」
一瞬、間を置く。
そして、薄く笑う。
「“こっち側”だ」
立ち上がる。
「これで印はつけたから」
振り返らない。
「またね、サクヤ」
そのまま歪みの中へ消える。
静寂。
数秒遅れて――
「……は???」
レイの声が漏れる。
「いや待て今の何!?」
「キスしたよな!?」
レオも混乱する。
空気が一気に崩れる。
だが。
サクヤだけは動かない。
仰向けのまま、天井を見る。
(……なんだよ、あいつ……)
唇に残る違和感。
そして――
胸の奥。
黒が、いつもより強く脈打っていた。




