第26話「壊れた境界」
——黒が、鳴いた。
それは音ではない。
空間そのものが軋むような、理解できない“何か”。
「……っ」
リンの手の中。
確かに触れているはずのサクヤの体が——
崩れていく。
「サクヤ……?」
返事は、ない。
代わりに。
——ドクン
鼓動。
だがそれは、生命のそれじゃない。
重い。
深い。
どこか“異質”。
「……遅ぇよ」
かすれた声。
だが。
その声音は、さっきまでのサクヤじゃない。
「え……」
リンの背筋に、冷たいものが走る。
ゆっくりと、顔が上がる。
開かれた瞳。
——黒。
底が見えない。
感情が、ない。
「……誰」
思わず、口に出ていた。
一瞬の沈黙。
そして。
「さあな」
笑った。
それは、サクヤの顔で。
サクヤじゃない“何か”の笑みだった。
次の瞬間——
——ゴッ!!
「きゃっ!?」
弾き飛ばされる。
リンの体が、黒の空間を転がる。
「……リン」
低い声。
さっきまで守ろうとしていた声とは、別物。
「近ぇんだよ」
黒が、彼の背後で“形”を持ち始める。
腕のようなもの。
翼のようなもの。
だがどれも、どこか歪んでいる。
「……サクヤ、でしょ……?」
震える声。
「戻ってよ……」
「戻る?」
首を傾げる。
「どこに?」
理解していない。
いや——
理解する気がない。
「……ああ」
ぽつりと呟く。
「“あいつ”か」
その言葉。
リンの心臓が、強く跳ねる。
「まだ、いるぞ」
「……!」
一瞬、希望が灯る。
だが。
次の言葉で、叩き落とされる。
「奥で、潰れかけてるけどな」
「……っ」
息が詰まる。
「助けたきゃ——」
一歩、近づく。
黒が、空間を歪める。
「もっと壊せよ」
笑う。
歪んだ笑み。
「そしたら、出てくるかもな」
「……そんなの」
リンが、立ち上がる。
震えながら。
「そんなやり方、できるわけ——」
最後まで言えなかった。
——ドンッ!!
「……っ!!」
衝撃。
視界が、跳ねる。
気づいた時には。
リンの体は、地面に叩きつけられていた。
「が……っ」
呼吸ができない。
「できるかどうかじゃねぇよ」
上から、見下ろす影。
「やるかどうかだろ」
手が、持ち上がる。
黒が、収束する。
——殺意。
明確な。
「……やめて」
声が震える。
それでも、目を逸らさない。
「サクヤ……」
その名前を呼んだ瞬間——
ほんの一瞬。
指先が、止まった。
「……あ?」
“それ”が、眉をひそめる。
違和感。
ほんの僅かな“ズレ”。
「……チッ」
舌打ち。
「邪魔すんなよ」
黒が、さらに強く脈打つ。
押し潰すように。
内側の“何か”を抑え込むように。
「……消えろ」
振り下ろされる。
その瞬間——
外。
「——来るぞ!!」
レイが叫ぶ。
黒の塊が、裂けた。
「なっ……!?」
レオが目を見開く。
内部から。
何かが、押し出されるように——
——バキィン!!
殻が砕ける。
現れたのは。
「……サクヤ……?」
違う。
それはもう。
“サクヤの形をした何か”だった。
黒が、身体にまとわりついている。
だが問題はそこじゃない。
「……目が……」
レオの声が、低くなる。
虚ろ。
いや。
敵を見る目。
次の瞬間——
消えた。
「っ!?速——」
言い終わる前に。
——ドゴォッ!!
「ぐぁっ!!」
レオの体が、吹き飛ぶ。
地面が抉れる。
「レオ!!」
「……ちっ」
レイが即座に距離を取る。
「完全に意識を奪われている……!」
「違う」
レオが、血を吐きながら立ち上がる。
「……あれは」
剣を、構える。
震える腕。
それでも。
「“奪われてる”んじゃねぇ」
一歩、踏み出す。
「“混ざってる”」
黒が、蠢く。
サクヤの口元が、わずかに歪む。
それは——
笑み。
「……なるほど」
レイの目が細くなる。
「最悪のパターンだ」
剣に、魔力を込める。
「レオ」
「……ああ」
一瞬の沈黙。
そして。
「止めるぞ」
「殺すなよ」
「保証はしない」
次の瞬間。
二人が同時に踏み込む。
だが——
黒が、先に動いた。
空間が、歪む。
そして。
「——遅ぇよ」
その声と共に。
戦場は、完全に崩壊した。
その中心で。
かすかに。
本当にかすかに。
押し潰されそうな意識の中で。
サクヤは、まだ——
抗っていた。




