第21話「残された側の歪み」
リンが膝をついたその場所に、風が吹き抜ける。
何もない。
さっきまで“あったはずの裂け目”は、跡形もなく消えていた。
「……は、ぁ……っ」
呼吸が乱れる。
指先はまだ震えている。
——触れた。
——声を聞いた。
夢じゃない。
「サクヤ……」
名を呼ぶ。
けれど、もう応えはない。
その時。
「リン!!」
遠くから駆け寄る足音。
振り向くと、レオとレイがこちらへ走ってきていた。
「何があった!?」
「今、ここ……空気が変だったぞ」
レオは周囲を警戒し、レイは鋭く空間を見据えている。
だが——
「……もう、消えた」
リンは静かに言った。
「消えた……?」
レオが眉をひそめる。
リンは頷く。
「でも、いた」
「は?」
「サクヤ、ここにいた」
その言葉に、二人の表情が変わる。
疑いではない。
だが、簡単に飲み込める内容でもない。
「……本気で言ってるのか」
「リン、錯覚じゃ——」
「違う」
即答だった。
「触れたの。声も聞いた」
空気が、張り詰める。
「“リン?”って……そう、言った」
沈黙。
風の音だけが、妙に大きく聞こえた。
レオが、ゆっくりと拳を握る。
「……生きてる、ってことか」
「分からない」
リンは首を振る。
「でも、“消えた”わけじゃない」
その言葉には、確かな重みがあった。
レイが一歩、前に出る。
「……場所は?」
「場所……っていうより」
リンは目を閉じる。
あの感覚を、思い出す。
「“向こう側”」
「向こう側?」
「この世界じゃない。もっと……深いところ」
うまく言葉にできない。
けれど、確信だけはある。
「……引き込まれたのか」
レイが低く呟く。
「うん。でも——」
リンは、自分の手を見つめる。
「サクヤが、止めた」
「……は?」
「“来るな”って」
その一言で、すべてが繋がる。
レオが歯を食いしばった。
「……あいつ」
守ったのだ。
最後まで。
リンを、“あちら側”から遠ざけた。
「じゃあ尚更だ」
レオは顔を上げる。
「連れ戻す」
迷いのない声。
だが、レイは静かに首を振った。
「簡単に言うな。相手はもう“人間じゃない可能性”が高い」
「関係ねぇよ」
「関係ある」
二人の間に、緊張が走る。
「……あの黒、ただの力じゃない。構造そのものが違う」
レイの目は、冷静に事実を見ていた。
「下手に触れれば、こっちが壊れる」
「じゃあ見捨てるのかよ」
「そうは言ってない」
鋭く返す。
「“方法を探す”って言ってる」
その時だった。
——ピシッ
小さな音。
「……?」
三人の視線が、一点に集まる。
リンが立っていた場所。
その空間に——
細い“亀裂”が走っていた。
「なに……これ……」
空気が、歪む。
見えないはずの“何か”が、そこにあると分かる。
そして。
——ドクン
再び、脈打つ。
「っ……!」
リンの身体が強張る。
この感覚は——
「サクヤ……」
違う。
さっきより、もっと不安定で。
もっと、荒い。
亀裂が、わずかに広がる。
黒が、滲む。
「下がれ!!」
レイが叫ぶ。
同時に、空間が——
軋んだ。
次の瞬間。
亀裂の奥から、“何か”がこちらを覗いた。
形はない。
意思だけがある。
——見られている。
「……っ!」
リンの喉が鳴る。
あれは、さっきのサクヤじゃない。
もっと——
“深いところの何か”だ。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
レオが一歩前に出る。
「来るなら来いよ……!」
剣に手をかける。
だが。
——スッ
亀裂が、閉じた。
何事もなかったかのように。
静寂が戻る。
「……なんだ、今の……」
誰も答えられない。
ただ一つ、確かなことがある。
“向こう側”は、繋がってしまった。
しかも——
「……サクヤだけじゃない」
リンが、呟く。
あの視線。
あの気配。
「何かが……こっちを見てる」
その言葉に、二人の表情が引き締まる。
これは、ただの救出じゃない。
もっと大きな、“何か”が動き出している。
「……面倒なことになったな」
レイが小さく息を吐く。
だが、その目は鋭いままだった。
「いいじゃねぇか」
レオが笑う。
「ぶっ壊して、取り戻すだけだろ」
リンは、静かに前を見つめる。
あの先に、サクヤがいる。
そして——
あれだけじゃない“何か”も。
「……行くよ」
小さな声。
けれど、確かな決意。
「サクヤを、連れ戻す」
世界が歪み始めているとしても。
それでも。
——もう、止まらない。




