第12話 触れてはいけないはずのものに、手を伸ばした
教室の空気は、いつも通りのはずだった。
ざわめきも、光も、何一つ変わらない。
――なのに。
サクヤの中だけが、明らかにズレていた。
「……今の、何だ」
目の前で、レイが低く問う。
さっきの“亀裂”。
確かに見えていたはずなのに、もう跡形もない。
「……分からない」
嘘じゃない。
本当に、分からない。
ただ一つだけ、確かな感覚が残っている。
――触れた。
あの瞬間、自分は確かに“何か”に手を伸ばした。
そして――届いた。
「ふざけるなよ」
レイの声が、わずかに強くなる。
「さっきのは偶然じゃないだろ」
その通りだった。
偶然じゃない。
でも、説明できるほど理解もしていない。
「……やってみろよ、もう一回」
空気が、変わる。
周囲のざわめきが遠のいたように感じる。
「できるわけないだろ」
「できる」
即答だった。
レイは一歩引き、距離を取る。
視線は外さない。
完全に“構えている”。
「……何する気だ」
「何もしない」
そう言いながらも、レイの気配は明らかに戦闘のそれだった。
「ただ、確かめるだけだ」
その瞬間。
レイの足が動いた。
速い。
視界から消えるほどではない。
だが、普通の人間なら反応できない速度。
一直線。
サクヤの懐へ。
(――来る)
その瞬間。
サクヤの中で、何かが“静かに開いた”。
音が消える。
時間が、わずかに遅くなる。
見える。
レイの動き。
空気の流れ。
そのすべてが、“分解”されていく。
そして――
その奥に、あった。
薄く、歪んだ“層”。
現実の向こう側に重なる、もう一つの何か。
(……これだ)
理解ではない。
確信でもない。
ただ、“知っている”という感覚。
サクヤは、ゆっくりと手を伸ばした。
本来なら、触れられるはずのないものへ。
指先が、“それ”に触れる。
ピシッ。
小さな音が、確かに鳴った。
次の瞬間。
レイの動きが――止まった。
「……は?」
拳は振り抜かれている。
だが、そこから先に進まない。
まるで、見えない何かに固定されたように。
「……なんだ、これ」
レイの表情に、初めて明確な困惑が浮かぶ。
サクヤ自身も、驚いていた。
(……止めた?)
いや、違う。
“止めた”んじゃない。
“触れて、固定した”。
そう理解した瞬間。
指先に、確かな手応えがあった。
まるで、世界そのものを掴んでいるような感覚。
「……サクヤ、お前――」
レイの声が、わずかに震える。
その時。
「――干渉、確認」
あの声が、再び響いた。
振り向かなくても分かる。
“いる”。
あの黒い影。
「観測精度、上昇」
「制御、未熟」
(……うるさい)
サクヤは、歯を食いしばる。
次の瞬間。
指先に込めた意識が、わずかに乱れた。
パキン。
何かが割れる音。
レイの動きが、一気に解放された。
「っ……!」
勢いを殺しきれず、レイが一歩踏み込む。
だが、そのまま止まった。
二人の間に、わずかな距離。
沈黙。
「……今の、何した」
完全に、隠せない。
ごまかせない。
サクヤは、ゆっくりと手を下ろした。
「……俺にも、分からない」
でも。
分かっていることが一つだけある。
さっき、自分は――
意図して触れた。
偶然じゃない。
無意識でもない。
自分の意思で、“世界に干渉した”。
その事実だけが、重く残る。
レイはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……やっぱりか」
「お前、普通じゃねぇな」
否定はできなかった。
その時。
「――次段階、移行準備」
また、あの声。
空気が、わずかに歪む。
教室の奥。
誰もいないはずの場所。
そこに、“裂け目”のようなものが浮かび上がった。
「……は?」
レイも気づく。
見えている。
今まではサクヤだけだったはずの“異常”を――
レイも、見ている。
「なんだ、あれ……」
ゆっくりと開く、黒い裂け目。
その奥は、何も見えない。
ただ、“何かがいる”と分かる。
そして。
中から、手が伸びた。




