第九話 手袋を、外しました
王の前に膝をつくときに、私の十二年は、ようやく、名前を持ったのだと思う。
◇
ロスフィールド伯爵への正式な審問は、王宮の会議室のほうで行われた。
私は、そこには、呼ばれなかった。
正確には、「呼ばなくていいように、あなたの帳面が先に働いてくれる」ように、うまく、差配がされていた。
審問の席に私の姿がないことで、傍聴の貴族たちの目の前に、「これは、捨てられた妻の私怨ではない」という一線が、はっきり引かれる。
セヴェリン様のお指図のなかに、その一線が、きちんと、あった。
ほんとうなら、私は、あの席で、アルベルト様の顔を、もう一度、見ておきたかった、のかもしれない。
でも、見なくてよかった、とも、思う。
見てしまえば、きっと、なにか、別のことを考えてしまう。
今の私は、あの男のことで、これ以上、頭のなかを使いたくなかった。
審問の様子は、翌日の午後に、マダム・コルベールが、ご自分の知り合いの筋から集めてきた話を、ひとつひとつ、私の前で、お茶請け代わりに並べてくださった。
◇
「はじめはね、のらりくらり、だったそうよ」
マダムは、指先で、お茶の器を小さく回しながら、そうおっしゃった。
「土木業者の選定は慣例通り、と言い張っておられたそうなの。当然ね、それしか言いようがないもの」
「それは、そうでございますね」
「でも、途中から、雲行きが変わったの」
「途中から」
「宰相閣下が、机の上に、紙の束をお出しになったのよ」
私は、お茶の器を、そっと、受け皿に置いた。
「あなたの、帳面」
「はい」
マダムは、小さく、頷かれた。
「閣下はね、まず、土木業者の名前をひとつずつ、読み上げられた。それから、その業者が納めた資材の額と、領地の帳簿に載っている額との差を、同じく、ひとつずつ。そして、その差額と、同じ日に、ロスフィールド伯爵が王都のどの宿にお泊まりで、誰と会っておられたか、というところまで、ぜんぶ、言われた」
「……」
「その『誰と』の部分はね、『子爵家のグランフォルト様』と、お名前を、はっきり、出されたらしいわ」
私の手のひらに、ほんの少しだけ、湿ったものが、にじんだ気がした。
「アルベルト様は、そのあたりから、あまり、口をお開きにならなくなったそうなの」
マダムは、そう言って、ご自分の膝の上で、しわくちゃの手を、軽く、重ね直された。
「そして、あとは、あれが出たそうよ」
「あれ、と申しますと」
「血の照合魔法の、しるしね」
私は、息を、小さく、呑んだ。
◇
貴族の養子縁組には、教会の血の照合魔法が、制度上、添えられている。
現実には、ほとんどの縁組で、これは形のうえのものに過ぎない。
ただ、「嘘の親子関係」を結んだ者の手の甲には、ごく薄く、あとから、紋様がひとつ、浮かぶ。
隠すことはできる。化粧で隠す者もいるし、手袋で隠す者もいる。
けれど、消すことは、できない、とされていた。
審問の席で、セヴェリン様は、たしか、とても淡々と、アルベルト様に、こう申し上げたのだそうだ。
「手袋を、お外し願えますでしょうか」
その一言の前後に、余計な言葉は、ひとつも、なかったと、マダムの知り合いの傍聴者は言っていたそうである。
アルベルト様は、しばらく、動かれなかった。
やがて、とても、ゆっくりと、ご自身の手袋を、一枚ずつ、外された。
手の甲には、薄く、しかし、見まがいようのない紋様が、浮かんでいた。
その紋様を、同席の教会の立会人が、ひと目見て、確認の声を上げたのだそうだ。
ただ、それだけ。
法廷の場での出来事は、本当に、それだけ、だったのだという。
怒鳴り声もなく、拳を振るうこともなく、ただ、「手袋を、お外し願えますでしょうか」という一言と、手の甲の薄い紋様だけで、十二年の嘘は、物理的に、成立しなくなった。
「……アルベルト様は、なにか、おっしゃっておられましたか」
「ひとこと、だけ」
「どのような」
「『十二年、見ていたつもりで、見ていなかった』」
マダムは、そう告げてから、そっと、目を伏せられた。
私は、お茶の器を、両手で包んだ。
器の温度が、まだ、ほんの少しだけ、残っていた。
そのことが、なぜだか、ありがたかった。
十二年、見ていたつもりで、見ていなかった。
たしかに、その通りなのだろう、と、私は、思った。
責めるつもりで思っているのではなかった。
ただ、そういう人だったのだ、あの方は、と、後ろからそっと、背中に、手を置いてやるような気持ちで、思った。
◇
アルベルト様の爵位の剥奪、および、ご蟄居の処分は、その同じ週のうちに、正式に、発せられた。
行先は、王都からかなり離れた山間の、静かな修道院だった。
追放ではなく、蟄居。
命は取られず、衣食住は保障される。けれど、社交界に戻ることは、生涯、許されない。
もっとも、たぶん、あの方はもう、戻る気力を、持っていないはずだった。
グランフォルト子爵夫人ヴィオラ様のお名前も、ほとんど同じ時期に、社交界の名簿から、静かに、抜け落ちていった。
子爵家の本家からは、親族会議のあと、領地の植物園の敷地内に、彼女専用の、小さな家が、あてがわれたそうである。
そこから外へは、ほぼ出られないらしい。
ただ、その家には、古い本と、植物の種と、静かな昼下がりがある、と、風の便りに聞いた。
彼女にとって、それは、地獄なのか、救いなのか、私には、判じがたかった。
判じがたいまま、「そうですか」とだけ、胸のなかで呟いて、それ以上、考えないことにした。
◇
それから、しばらくして、私のもとに、王宮からの使いの者が、一通の書状を届けに来た。
封蝋は、陛下直々のものだった。
私は、それを、書き物部屋の、いちばん日当たりのよい窓辺の机で、ゆっくりと開いた。
指先が、ほんの少しだけ、冷たかった。
書状には、こう、記されていた。
『エレノア・カートライト殿。
この度、卿が王都郊外にて営む慈善の家の働きに鑑み、王立の認可を与えるものとする。
併せて、卿を「子を持たぬ母たちの母」として、叙勲いたしたく、当宮への御出席を願うものなり』
私は、その一枚の紙の前で、しばらく、言葉を、失っていた。
「母」という言葉を、私は、一度、自分から、手放したはずだった。
リオンに真実を告げたあの夜、彼を抱きしめながら、自分がもう「お母様」でなくなる日のことを、覚悟したはずだった。
それなのに、今、紙の上で、まったく違う響きの「母」という言葉が、私のほうへ、差し出されていた。
「子を持たぬ母たちの、母」。
ずいぶん、長い肩書きだった。
長い分だけ、人ひとりが担うには、重たかった。
私は、書状を、机の上に、ゆっくりと、置いた。
置いてから、窓の外の若葉を、しばらく、見ていた。
「……承ります」
小さく、自分にだけ聞こえる声で、そう、申し上げた。
その声の相手は、陛下でも、セヴェリン様でも、なかった。
地下書庫の、『あずかりこども帳』のうしろに挟まれていた、あの、祖母の手紙のほうへ、向けた声だった。
◇
叙勲式の朝は、ふしぎなほど、晴れていた。
マダム・コルベールが、前の日から泊まり込みで来てくださって、私の着付けを整えてくださった。
「お化粧は、濃いのは、いけないわ」と、マダムは、しわだらけの指で、そっと、頬紅の刷毛を動かされた。
「今日のあなたは、着飾る日じゃないの。あなたのままの顔で、あそこへ立つ日なのよ」
私は、鏡のなかの自分を、見た。
化粧をした、というほどの化粧ではなかった。
ただ、頬のあたりが、うっすらと、健康そうに、見えた。
まぶたの下の影も、いつもよりは、薄かった。
最近の私は、よく、眠れているのだった。
孤児院の子らの夜泣きで起こされる夜は、いくらでもあるけれど、そのぶん、自分の胸の中に、余計な夜更かしを抱え込むことが、少なくなっていた。
◇
王宮の大広間の、玉座の前に、私は、膝をついた。
陛下は、あまり多くの言葉を、お選びにならなかった。
簡単な経歴と、孤児院の働きについて、短く言及された。
それから、剣の腹を、私の両肩に、ひとつずつ、そっと、触れさせられた。
剣の金属の、ひんやりとした重みが、ドレスの布越しに、はっきりと、肩に伝わった。
「そなたを、『子を持たぬ母たちの母』として、叙する」
陛下の声は、思っていたよりも、やわらかかった。
思っていたよりも、というのは、私がこの国の王陛下を、ずっと、遠いところにおられる厳しい方だと、頭のなかで決めつけていたからだった。
近くで拝聴すると、ふつうの、少し年を召したお父さんのような声、でもあった。
そのことが、私の肩の力を、ほんの少しだけ、抜いてくれた。
「畏れ多くも、拝命いたします」
私は、頭を下げた。
下げた頭の先に、広間の大理石の床が見えていた。
床の模様の継ぎ目のあたりに、ほんの、さっき誰かが歩いた跡の、かすかな足跡の跡があった。
こんなときに、そんなところに目が行くのも、いかにも、私らしかった。
◇
拝命の儀礼を終えて、私が、一歩、玉座の前から退いたとき、広間の空気が、ふっと、ひとつ、揺れた。
列席の貴族たちのあいだから、ひとり、長身の黒い上着の方が、まっすぐに、歩み出てこられた。
宰相閣下、セヴェリン様だった。
広間中の視線が、その動きを、追った。
叙勲の場で、叙勲された者の前に、こうして誰かが進み出てくるということは、本来、予定されている式次第には、ない。
そのことを、並み居る貴族たちは、全員、承知していた。
承知しているからこそ、誰もが、息を、詰めた。
セヴェリン様は、私の三歩ほど手前で、立ち止まられた。
「エレノアさま」
硬い声だった。
いつもよりも、ほんの少しだけ、深い場所から、出されている声だった。
「はい」
私は、顔を上げた。
顔を上げた拍子に、鎖骨の真下のあたりが、きゅっ、と、内側から、締まった。
怖いのではなかった。寒いのでもなかった。
体のあの場所に、そういうしまり方があるのだということを、今日、生まれて初めて、私は教わった気がした。
セヴェリン様は、ご自分の両手に目を落とされた。
いつも通りに、黒い、よい仕立ての手袋を、されていた。
宰相のお立場として、公の場では、手袋を外されない、というのが、この方の、長年の習いだった。
その手袋を、セヴェリン様は、一枚、ゆっくりと、お外しになった。
もう一枚も、同じように、ゆっくりと。
外した手袋を、きちんと揃えて、ご自分のほうの側役の者の手へ、渡された。
広間中の空気が、ぴたりと、凍った。
素手の、白い手のひらを、セヴェリン様は、私のほうへ、まっすぐに、差し出された。
「あなたの、百人のお子たちの父に、──私を、選んでいただけませんでしょうか」
広間の大理石の天井のずっと上のほうで、光の粒が、きらきら、と、鳴った気がした。
気のせいだった。音は、しない。
ただ、私の耳のほうが、その瞬間だけ、とても敏感になっていた。
広間のあちこちで、小さく、貴婦人たちが息を呑む音が、ぱらぱら、と、上がった。
それから、誰かの扇の、ぱしりと開く音。
どこかで、男の貴族の、咳払いに似た、低い唸り声。
私は、セヴェリン様のお顔を、見た。
見て、それから、差し出された、素手のほうを、見た。
素手、だった。
この方は、今、広間中の人の前で、手袋を、外していらした。
それが、どういうことなのかは、誰よりも先に、私の胸のほうが、知っていた。
この方は、たぶん、冷徹、と呼ばれる種類の人として、ずっと、手袋をしてこられた方だった。
誰とも、素手で触れ合わないように。
触れないために、手袋を、ずっと、していらした方だった。
そういうふうに生きてきた理由のことを、私は、まだ、よく、知らない。
知らないけれど、その手袋を、今日、私のために、外してくださったということだけは、分かった。
分かった、と思ったら、私のなかで、何かが、ぜんぶ、いっぺんに、崩れた。
言葉が、出ない。出ない、のに、頭のなかは、やかましい。やかましい。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、って、それだけが、ぐるぐる回っている。
十二年、私は、夫に、いちどだって、こんなふうに、言葉が出なくなったことはなかった。なかったのに、今、この広間で、私は、ちゃんとした貴族の奥方の返事を、ひとつも、組み立てられない。
ちがう。組み立てたく、ない。
組み立てて返したら、それは、さっきまでの私の返事のどれかと、同じになってしまう。
この人には、同じ返し方をしては、だめだ。
商家の娘の口も、伯爵夫人の口も、今日は、だめ、だめ、だめ、だめ、
だめなのに、じゃあ、私、今、どの口で、しゃべればいいの。
セヴェリン様の目元に、ふっと、なにか光るものが、浮かんでいた。
涙、だった。
冷徹、と呼ばれるお方の目に、私の代わりに、涙が、にじんでいた。
私は、ゆっくりと、ゆっくりと、微笑んだ。
自分でも、その微笑みが、これまでの十二年のどの微笑みとも、違っているのを、感じた。
作りものでは、なかった。
作りかたを、知らない微笑みだった。
「……お答えする前に」
ようやく、私は、声を出した。
声は、思っていたよりも、穏やかに出た。
どの口で出したのかは、もう、自分でも、わからなかった。
「まず、あなたに、覚えていただきたいことが、ございます」
「なんなりと」
「孤児院の、夜泣きの当番、でございます」
広間の貴族たちの何人かが、一瞬、意味を取り損ねた顔をした。
そのあとで、ひとり、またひとりと、かすかに、息を吐く音が、上がった。
笑ったのではない。
安堵したのでも、ない。
たぶん、彼らの多くは、「そういう返し方があるのか」と、ただ、初めて知ったのだった。
セヴェリン様のお顔の上で、目元のにじみが、もうひとつ分、濃くなった。
それから、いつもの硬い声の、いちばん底のほうから、低い、低い、ひとこと、だけ、答えが返ってきた。
「光栄でございます」
私は、差し出されていた素手のほうへ、自分の手を、そっと、伸ばした。
伸ばした自分の手のほうが、先に、ほんの少し、震えていた。
ふたつの手のひらが、重なった。
素手と、素手、だった。
あたたかかった。
あたたかい、という言葉をこれほど、まっすぐに、心のなかで使ったのは、たぶん、私の人生で、初めてだった。




