第十話 夜泣きの当番から
夜泣きの当番表に、宰相閣下のお名前が並んでいる朝、というのが、半年ほど前から、この家の日常になった。
当番表は、台所の壁に画鋲で留めてある、ただの紙切れだった。
上のほうに、私が、やや大きめの字で、『今週の当番』と書いてある。
その下に、日付と、名前が、順番に並んでいる。
サラの名前がいちばん多い。マダム・コルベールのお名前もときどきある。ジャンの名前もある。ジャンに夜泣きの当番をさせるのはどうなの、と最初は私も思ったのだけれど、本人が「ぼくがいれば、リリが安心するから」と言い張ったので、週に一度、年長組の当番として、名前を入れることにした。
そして、その表のいちばん下に、丁寧な細字で、『セヴェリン』と書かれている日が、週に一度か、二度か、ある。
字は、ご自分で書かれたものだった。
最初の日、私は筆を差し上げようとしたのだけれど、セヴェリン様は、台所のあの紙切れの前に立ったまま、短く、こう、おっしゃった。
「自分で、書きます」
それだけだった。
それだけだったのに、その「自分で」という言葉の響きだけは、宰相の執務室で書類に署名するときのそれとは、たぶん、ずいぶん違っていた。
◇
半年の間に、孤児院は、少しずつ、かたちを整えてきた。
王立の認可が下りてからは、修繕の職人たちが定期的に入るようになった。
寝台の数が増えた。揺り籠の数も増えた。窓のガラスの、風が入り込む隙間にも、目地が打たれた。
台所には新しい竈が据えられて、大鍋で一度にお粥が作れるようになった。
ジャンが、「この大鍋なら、軍隊だって養えるね」と、真面目な顔で言った。
私は、笑った。
本当に笑ったのは、いつ以来のことだったのか、自分でも覚えていない笑いかただった。
子どもたちは、ときどき入れ替わる。
引き取り先が見つかる子もいれば、新しくうちに来る子もいる。
マーゴットが置いていった、あの名前のない赤子には、まだ、名前がない。
「名前は、この子が言葉を選べるようになってからでいいわ」と、私は、マダム・コルベールにお話しした。
マダムは、「あら、そんな贅沢な名付け方、私のお祖母さまの代の頃にもなかったわ」と笑っておられたけれど、最後には、「でも、あなたらしくて、いいわね」と、頷いてくださった。
ジャンは、いつのまにか、その赤子のことを「ちび」と呼ぶようになった。
ちび。それが、今のところ、いちばん、ふさわしい呼び名なのかもしれなかった。
自分の名前を、自分で選べるようになるまで。
◇
セヴェリン様は、週の半ばの夜と、週末の夜に、うちにいらっしゃる。
宰相のお仕事の合間を、どうやって縫っておられるのか、最初の頃は、私はほんとうに、心配だった。
「お体に、障りませんか」と、二度か三度、お尋ねしたことがある。
そのたびに、セヴェリン様は、同じようなお答えをされた。
「むしろ、ここにいる夜のほうが、よく眠れます」
よく眠れる。
その言葉が、どういう重さのものであるのかを、私は、あの方のことをまだあまりよく知らないまま、ただ、胸の奥で、受け止めていた。
よく眠れない夜を、どれだけ長く過ごしてこられた方なのか。
それについては、私から、聞かなかった。
聞く日は、いつか、向こうのほうから、来る気がしていた。
◇
その日の夕方、私は、セヴェリン様と、小さな居間のほうで、お茶をいただいていた。
「エレノアさま」
「はい」
「前に、申し上げていない、お話が、ひとつ、ございます」
お茶のカップを、セヴェリン様は、膝の上で、両手で、包んでおられた。
いつもの硬い声だった。けれど、底のあたりが、ほんの少しだけ、やわらかかった。
「執務室の、あの絵のことでございます」
「絵、でございますか」
「以前、副官が、『閣下が絵を飾られるのは初めてだ』と、申しておりました」
「はい」
「あの絵はですね、画家に、依頼して、描かせたものです」
私は、カップを、そっと、受け皿に置いた。
ここのところ、驚いたときに音を立てないように、自然とカップを置く癖が、ついていた。
「頼んだのは、あなたが孤児院で、子らのそばに屈んでおられる、その腰の屈め方を、描いてほしい、ということでした。お顔は、描かないでほしい、とも頼みました」
「……お顔を、でございますか」
「描いてしまうと、それは、『描かれた誰か』になってしまいますから。私が、欲しかったのは、あなたの、その所作のほうだったのです」
この方は、今、ずいぶん、大事なことを、とても静かに、仰っている。
私は、自分の膝の上で、手を、ひとつに組み合わせた。
「ずいぶん長いあいだ、執務室の、あなたの姿を、眺めて、過ごしていたことになります」
セヴェリン様は、そう続けてから、ご自分のお茶を、一口だけ、含まれた。
ひとことずつ、ご自分の言葉の重さを、確かめながら、置かれている話しかたであった。
「論文のこと、絵のこと、それから、あなたに、何かを直接お伝えしないまま、執務の合間に、遠くから、ただ、見ているような時間のこと。ずっと、申し上げられませんでした」
「……」
「申し上げないままでも、私のほうは、それで、満ち足りておりました。けれど、あの夜、夜更けの孤児院に伺ってしまったあとは、そうも、いかなくなりました」
私は、膝の上の手を、ほんのすこし、強く、組みなおした。
「ずるい方でいらっしゃいますのね」
自分でも、ふしぎな声が出た。
責めている声では、なかった。
甘えている声でも、なかった。
ただ、胸の奥の、いちばん柔らかい場所から、そのままの温度で、押し出された声だった。
セヴェリン様は、目を伏せられた。
伏せた目元に、ほんの少しだけ、赤いものが、散っているのを、私は、見てしまった。
「……まことに、申し訳ございません」
私は、そこで、思わず、ふっと、笑ってしまった。
笑いながら、自分の頬のあたりが、あたたかくなっていくのが、よく、わかった。
赤いものが、散っていたのは、たぶん、私のほうも、同じだった。
◇
リオンは、ときどき、学院の寮から、こちらに戻ってくる。
もう、「こっそり」ではない。堂々と、正面の門から入ってくる。
ジャンと年の近い男の子どうしで、二人でよく、庭のほうへ出て行ってしまう。
それから、夕方の光のなかで、遅い時間まで、なにか話しこんでいる。
私は、もう、台所の窓からこっそり覗かない。
この子たちの時間は、この子たちのものだ。親の目で見つめすぎないほうがよい時間が、世の中には、ある。
◇
その日、リオンが、廊下のほうから、私の書き物部屋を覗いた。
「お母様、いま、いい?」
「いいわよ、リオン」
「……あのね、ヴィオラさまから、お手紙が届いた、って」
私は、顔を上げた。
リオンは、廊下に立ったまま、封のまま手紙を、自分の胸のあたりで、持っていた。
ヴィオラ様から、リオン宛てのお手紙が、王都の郵便経由で、この家まで、届くようになったのは、ひと月ほど前からのことだった。
子爵家の植物園の敷地内から出られないヴィオラ様が、それでも、書こうと思えば、書けるものは、手紙だけだった。
最初に届いた一通を見たとき、私は、開ける前に、リオンに委ねた。
「これは、あなた宛てのお手紙よ。お母様は、読まないし、口も出しません」
リオンは、その日、手紙をひらかなかった。
次に届いた二通目も、ひらかなかった。
三通目になって、ようやく、リオンは、自分の部屋で、ひとりで、封を切ったらしかった。
「読んだの?」と私が訊くと、リオンは、こくりと頷いて、「ぼく、お返事はまだ書かない」と、だけ言った。
私は、頷いた。頷いて、それ以上は、何も聞かなかった。
今日の一通めは、リオンは、まだ、あけていないようだった。
リオンは、手紙を、ゆっくりと、私のほうへ、差し出した。
「お母様、これ、ぼくの代わりに、読んで」
「……お母様が、読むの?」
「うん。今日のは、なんか、ぼく、読める気がしない。でも、読まないまま、捨てるのは、違う気がして」
私は、封筒を、両手で、受け取った。
封蝋は、子爵家の紋ではなく、ヴィオラ様ご個人の、小さな、花の形のものだった。
「読むわね」
「うん」
「リオン、あなたは、どうする? ここで聞いている? それとも、お庭に出ていて、あとで要点だけ伝える?」
「ここで、聞く」
リオンは、そう言って、書き物部屋の、窓際の小さな椅子に、腰を下ろした。
両手を、膝の上で、ぎゅっと、握っていた。
私は、封を切った。
便箋を取り出して、ゆっくりと、読み始めた。
『リオンへ。
この手紙を、あなたが読んでくれなくても、かまいません。
書くことだけが、今の私に、あなたへの、たったひとつの手段ですから。
あなたの学院の、入学式の日のことを、私はずっと、遠くから、考えていました。
あなたの制服を、ちゃんと見てみたかったと思っています。けれど、それは、私が選べる未来ではなくなりました。
それは、当然のことです。
あなたが、どちらの家を「お母様」と呼ぶかは、あなた自身が決めることです。
私は、あなたから呼ばれたい、という気持ちを、もう、自分から、言うことはしません。
ただ、もしもいつか、とても先の、先の話です、あなたのほうから、私のことを、名前で呼んでくれる日があったら、そのときは、泣かずに、お返事をしたいと思っています。
でも、まだ、それを望むのは、早いと、分かっています。
エレノアに、くれぐれも、よろしく、と伝えてください。
「くれぐれも、よろしく」という言葉の、本当の重さを、彼女は、たぶん、どなたよりも、ご存じの方です。
ヴィオラ』
私は、読み終えて、便箋を、ゆっくりと、畳み直した。
部屋のなかが、しばらく、しんとしていた。
「リオン」
「……うん」
「どう思った?」
「うん」
リオンは、膝の上の、握りしめていた手を、ふっと、ほどいた。
「ぼく、あの人のこと、『お母様』とは、まだ呼べない。たぶん、ずっと呼べないかもしれない。でも、ぼくが生まれたのは、あの人のお腹だって、それは、もう、知ってる。知ってるから、それは、それでいいと思う」
「うん」
「お母様」
「なあに」
「今のは、エレノアお母様に、言ったんだよ」
私は、頷いた。
その頷きのあたりで、目のふちが、少しだけ、熱くなった。
熱くなったところで、ちゃんと、止まった。
今日の私は、止めることも、できる女のほうに、少しずつ、なりかけていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、山間の修道院の、静かな写経室。
小さな木の机に、一冊の経本を広げて、私は、毎日、筆を走らせている。
それが、蟄居の身の、日々のつとめだった。
外から響いてくる音は、ほとんどない。
それでも、風の方角によっては、遠い村のほうから、子どもたちの、声が、かすかに、流れてくる日がある。
どこで遊んでいるのか、何をしているのかまでは、わからない。
ただ、「子どもの声だ」ということだけが、わかる。
筆を止めてはいけない、と、自分に、言い聞かせる。
止めると、ろくなことを考えない。
ろくでもないことを、考えるために、ここに入れられたのではない。
ここに入れられたのは、たぶん、考えないために、だ。
けれど、考えないために用意された場所ほど、よく、考えさせられるものはない。
十二年分の、妻の微笑みのことを、最近、よく、思い出す。
あれは、ぜんぶ、業務の微笑みだったのか。
それとも、どこかに、一日分くらいは、本当の微笑みが、混じっていたのか。
私には、どちらか、もう、確かめようがない。
確かめようがない、ということの重さを、ここ半年で、私はようやく、身体で、覚え始めている。
机の上の経本に、私は、また、筆を、落とす。
手の甲の、薄い紋様が、筆を持つ指の横で、今日も、小さく、目に入る。
消すことは、できない。
化粧で隠しても、ここでは、隠す相手も、いない。
隠す相手のいない嘘の痕は、たぶん、ただの、自分のための、しるし、として、そこにある。
遠い村の子どもたちの声が、また、風に乗って、届いた気がした。
筆を、止めないようにした。
◇ ◇ ◇
孤児院の、夜。
私、リオンは、自分の日記帳を開いて、寝台の端に腰掛けていた。
日記は、お母様にも、誰にも、見せない。
見せないからこそ、ちゃんとした字で、書こうと決めていた。
今日の日付を書く。
それから、短く、書き始める。
『ぼくには、お母さんが、ふたりいる。
ひとりは、ぼくに、命を、くれた人。
もうひとりは、ぼくに、愛されるということが、どういうことか、教えてくれた人。
ぼくは、ふたりめのお母様のおうちで、毎日、笑っている。
それは、だれにも、うばえない、ぼくの、ほんとうのことだ』
書き終えて、ぼくは、日記を閉じた。
廊下のほうから、ちびの小さな泣き声が、聞こえてくる。
当番表の、今日のところの名前を、ぼくは、頭の中で、思い出した。
今夜の当番は、セヴェリンさんだ。
すぐに、静かな足音が、廊下を歩いていった。
大人の、ゆっくりした、低い靴音だった。
泣き声は、しばらくして、止んだ。
止んだあとの廊下に、ひくひく、と笑うような、赤ちゃんの、ちいさな息の音だけが、残った。
ぼくは、日記帳を、枕の下に、しまった。
寝台の布団を、肩まで引き上げて、明かりを吹き消した。
明日も、たぶん、ふつうの一日だ。
ふつうの、お母様のいる、一日だ。
おやすみなさい、お母様。
おやすみなさい、ちび。
おやすみなさい、ジャン。
おやすみなさい、セヴェリンさん。
目を閉じると、夜泣きの声のあとの、低い、あのゆっくりした靴音が、まだ、耳の奥のほうで、かすかに、歩いていた。




