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答え合わせをいたしましょうか、旦那様  作者: 九葉(くずは)


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第十話 夜泣きの当番から

夜泣きの当番表に、宰相閣下のお名前が並んでいる朝、というのが、半年ほど前から、この家の日常になった。


当番表は、台所の壁に画鋲で留めてある、ただの紙切れだった。

上のほうに、私が、やや大きめの字で、『今週の当番』と書いてある。


その下に、日付と、名前が、順番に並んでいる。

サラの名前がいちばん多い。マダム・コルベールのお名前もときどきある。ジャンの名前もある。ジャンに夜泣きの当番をさせるのはどうなの、と最初は私も思ったのだけれど、本人が「ぼくがいれば、リリが安心するから」と言い張ったので、週に一度、年長組の当番として、名前を入れることにした。


そして、その表のいちばん下に、丁寧な細字で、『セヴェリン』と書かれている日が、週に一度か、二度か、ある。


字は、ご自分で書かれたものだった。

最初の日、私は筆を差し上げようとしたのだけれど、セヴェリン様は、台所のあの紙切れの前に立ったまま、短く、こう、おっしゃった。


「自分で、書きます」


それだけだった。

それだけだったのに、その「自分で」という言葉の響きだけは、宰相の執務室で書類に署名するときのそれとは、たぶん、ずいぶん違っていた。





半年の間に、孤児院は、少しずつ、かたちを整えてきた。


王立の認可が下りてからは、修繕の職人たちが定期的に入るようになった。

寝台の数が増えた。揺り籠の数も増えた。窓のガラスの、風が入り込む隙間にも、目地が打たれた。

台所には新しい竈が据えられて、大鍋で一度にお粥が作れるようになった。


ジャンが、「この大鍋なら、軍隊だって養えるね」と、真面目な顔で言った。

私は、笑った。

本当に笑ったのは、いつ以来のことだったのか、自分でも覚えていない笑いかただった。


子どもたちは、ときどき入れ替わる。

引き取り先が見つかる子もいれば、新しくうちに来る子もいる。


マーゴットが置いていった、あの名前のない赤子には、まだ、名前がない。

「名前は、この子が言葉を選べるようになってからでいいわ」と、私は、マダム・コルベールにお話しした。

マダムは、「あら、そんな贅沢な名付け方、私のお祖母さまの代の頃にもなかったわ」と笑っておられたけれど、最後には、「でも、あなたらしくて、いいわね」と、頷いてくださった。


ジャンは、いつのまにか、その赤子のことを「ちび」と呼ぶようになった。

ちび。それが、今のところ、いちばん、ふさわしい呼び名なのかもしれなかった。

自分の名前を、自分で選べるようになるまで。





セヴェリン様は、週の半ばの夜と、週末の夜に、うちにいらっしゃる。


宰相のお仕事の合間を、どうやって縫っておられるのか、最初の頃は、私はほんとうに、心配だった。

「お体に、障りませんか」と、二度か三度、お尋ねしたことがある。

そのたびに、セヴェリン様は、同じようなお答えをされた。

「むしろ、ここにいる夜のほうが、よく眠れます」


よく眠れる。

その言葉が、どういう重さのものであるのかを、私は、あの方のことをまだあまりよく知らないまま、ただ、胸の奥で、受け止めていた。

よく眠れない夜を、どれだけ長く過ごしてこられた方なのか。

それについては、私から、聞かなかった。

聞く日は、いつか、向こうのほうから、来る気がしていた。





その日の夕方、私は、セヴェリン様と、小さな居間のほうで、お茶をいただいていた。


「エレノアさま」

「はい」

「前に、申し上げていない、お話が、ひとつ、ございます」


お茶のカップを、セヴェリン様は、膝の上で、両手で、包んでおられた。

いつもの硬い声だった。けれど、底のあたりが、ほんの少しだけ、やわらかかった。


「執務室の、あの絵のことでございます」

「絵、でございますか」

「以前、副官が、『閣下が絵を飾られるのは初めてだ』と、申しておりました」

「はい」

「あの絵はですね、画家に、依頼して、描かせたものです」


私は、カップを、そっと、受け皿に置いた。

ここのところ、驚いたときに音を立てないように、自然とカップを置く癖が、ついていた。


「頼んだのは、あなたが孤児院で、子らのそばに屈んでおられる、その腰の屈め方を、描いてほしい、ということでした。お顔は、描かないでほしい、とも頼みました」

「……お顔を、でございますか」

「描いてしまうと、それは、『描かれた誰か』になってしまいますから。私が、欲しかったのは、あなたの、その所作のほうだったのです」


この方は、今、ずいぶん、大事なことを、とても静かに、仰っている。

私は、自分の膝の上で、手を、ひとつに組み合わせた。


「ずいぶん長いあいだ、執務室の、あなたの姿を、眺めて、過ごしていたことになります」


セヴェリン様は、そう続けてから、ご自分のお茶を、一口だけ、含まれた。

ひとことずつ、ご自分の言葉の重さを、確かめながら、置かれている話しかたであった。


「論文のこと、絵のこと、それから、あなたに、何かを直接お伝えしないまま、執務の合間に、遠くから、ただ、見ているような時間のこと。ずっと、申し上げられませんでした」

「……」

「申し上げないままでも、私のほうは、それで、満ち足りておりました。けれど、あの夜、夜更けの孤児院に伺ってしまったあとは、そうも、いかなくなりました」


私は、膝の上の手を、ほんのすこし、強く、組みなおした。


「ずるい方でいらっしゃいますのね」

自分でも、ふしぎな声が出た。

責めている声では、なかった。

甘えている声でも、なかった。

ただ、胸の奥の、いちばん柔らかい場所から、そのままの温度で、押し出された声だった。


セヴェリン様は、目を伏せられた。

伏せた目元に、ほんの少しだけ、赤いものが、散っているのを、私は、見てしまった。


「……まことに、申し訳ございません」


私は、そこで、思わず、ふっと、笑ってしまった。

笑いながら、自分の頬のあたりが、あたたかくなっていくのが、よく、わかった。

赤いものが、散っていたのは、たぶん、私のほうも、同じだった。





リオンは、ときどき、学院の寮から、こちらに戻ってくる。


もう、「こっそり」ではない。堂々と、正面の門から入ってくる。

ジャンと年の近い男の子どうしで、二人でよく、庭のほうへ出て行ってしまう。


それから、夕方の光のなかで、遅い時間まで、なにか話しこんでいる。

私は、もう、台所の窓からこっそり覗かない。

この子たちの時間は、この子たちのものだ。親の目で見つめすぎないほうがよい時間が、世の中には、ある。





その日、リオンが、廊下のほうから、私の書き物部屋を覗いた。


「お母様、いま、いい?」

「いいわよ、リオン」

「……あのね、ヴィオラさまから、お手紙が届いた、って」


私は、顔を上げた。

リオンは、廊下に立ったまま、封のまま手紙を、自分の胸のあたりで、持っていた。


ヴィオラ様から、リオン宛てのお手紙が、王都の郵便経由で、この家まで、届くようになったのは、ひと月ほど前からのことだった。


子爵家の植物園の敷地内から出られないヴィオラ様が、それでも、書こうと思えば、書けるものは、手紙だけだった。

最初に届いた一通を見たとき、私は、開ける前に、リオンに委ねた。


「これは、あなた宛てのお手紙よ。お母様は、読まないし、口も出しません」

リオンは、その日、手紙をひらかなかった。

次に届いた二通目も、ひらかなかった。

三通目になって、ようやく、リオンは、自分の部屋で、ひとりで、封を切ったらしかった。


「読んだの?」と私が訊くと、リオンは、こくりと頷いて、「ぼく、お返事はまだ書かない」と、だけ言った。

私は、頷いた。頷いて、それ以上は、何も聞かなかった。


今日の一通めは、リオンは、まだ、あけていないようだった。

リオンは、手紙を、ゆっくりと、私のほうへ、差し出した。


「お母様、これ、ぼくの代わりに、読んで」

「……お母様が、読むの?」

「うん。今日のは、なんか、ぼく、読める気がしない。でも、読まないまま、捨てるのは、違う気がして」


私は、封筒を、両手で、受け取った。

封蝋は、子爵家の紋ではなく、ヴィオラ様ご個人の、小さな、花の形のものだった。


「読むわね」

「うん」

「リオン、あなたは、どうする? ここで聞いている? それとも、お庭に出ていて、あとで要点だけ伝える?」

「ここで、聞く」


リオンは、そう言って、書き物部屋の、窓際の小さな椅子に、腰を下ろした。

両手を、膝の上で、ぎゅっと、握っていた。


私は、封を切った。

便箋を取り出して、ゆっくりと、読み始めた。



『リオンへ。


この手紙を、あなたが読んでくれなくても、かまいません。

書くことだけが、今の私に、あなたへの、たったひとつの手段ですから。


あなたの学院の、入学式の日のことを、私はずっと、遠くから、考えていました。

あなたの制服を、ちゃんと見てみたかったと思っています。けれど、それは、私が選べる未来ではなくなりました。

それは、当然のことです。


あなたが、どちらの家を「お母様」と呼ぶかは、あなた自身が決めることです。

私は、あなたから呼ばれたい、という気持ちを、もう、自分から、言うことはしません。


ただ、もしもいつか、とても先の、先の話です、あなたのほうから、私のことを、名前で呼んでくれる日があったら、そのときは、泣かずに、お返事をしたいと思っています。

でも、まだ、それを望むのは、早いと、分かっています。


エレノアに、くれぐれも、よろしく、と伝えてください。

「くれぐれも、よろしく」という言葉の、本当の重さを、彼女は、たぶん、どなたよりも、ご存じの方です。


ヴィオラ』



私は、読み終えて、便箋を、ゆっくりと、畳み直した。

部屋のなかが、しばらく、しんとしていた。


「リオン」

「……うん」

「どう思った?」

「うん」


リオンは、膝の上の、握りしめていた手を、ふっと、ほどいた。


「ぼく、あの人のこと、『お母様』とは、まだ呼べない。たぶん、ずっと呼べないかもしれない。でも、ぼくが生まれたのは、あの人のお腹だって、それは、もう、知ってる。知ってるから、それは、それでいいと思う」

「うん」

「お母様」

「なあに」

「今のは、エレノアお母様に、言ったんだよ」


私は、頷いた。

その頷きのあたりで、目のふちが、少しだけ、熱くなった。

熱くなったところで、ちゃんと、止まった。

今日の私は、止めることも、できる女のほうに、少しずつ、なりかけていた。



◇ ◇ ◇



同じ頃、山間の修道院の、静かな写経室。


小さな木の机に、一冊の経本を広げて、私は、毎日、筆を走らせている。

それが、蟄居の身の、日々のつとめだった。

外から響いてくる音は、ほとんどない。

それでも、風の方角によっては、遠い村のほうから、子どもたちの、声が、かすかに、流れてくる日がある。


どこで遊んでいるのか、何をしているのかまでは、わからない。

ただ、「子どもの声だ」ということだけが、わかる。


筆を止めてはいけない、と、自分に、言い聞かせる。

止めると、ろくなことを考えない。

ろくでもないことを、考えるために、ここに入れられたのではない。

ここに入れられたのは、たぶん、考えないために、だ。


けれど、考えないために用意された場所ほど、よく、考えさせられるものはない。


十二年分の、妻の微笑みのことを、最近、よく、思い出す。

あれは、ぜんぶ、業務の微笑みだったのか。

それとも、どこかに、一日分くらいは、本当の微笑みが、混じっていたのか。


私には、どちらか、もう、確かめようがない。

確かめようがない、ということの重さを、ここ半年で、私はようやく、身体で、覚え始めている。


机の上の経本に、私は、また、筆を、落とす。

手の甲の、薄い紋様が、筆を持つ指の横で、今日も、小さく、目に入る。

消すことは、できない。


化粧で隠しても、ここでは、隠す相手も、いない。

隠す相手のいない嘘の痕は、たぶん、ただの、自分のための、しるし、として、そこにある。


遠い村の子どもたちの声が、また、風に乗って、届いた気がした。

筆を、止めないようにした。



◇ ◇ ◇



孤児院の、夜。


私、リオンは、自分の日記帳を開いて、寝台の端に腰掛けていた。

日記は、お母様にも、誰にも、見せない。

見せないからこそ、ちゃんとした字で、書こうと決めていた。


今日の日付を書く。

それから、短く、書き始める。


『ぼくには、お母さんが、ふたりいる。

ひとりは、ぼくに、命を、くれた人。

もうひとりは、ぼくに、愛されるということが、どういうことか、教えてくれた人。

ぼくは、ふたりめのお母様のおうちで、毎日、笑っている。

それは、だれにも、うばえない、ぼくの、ほんとうのことだ』


書き終えて、ぼくは、日記を閉じた。


廊下のほうから、ちびの小さな泣き声が、聞こえてくる。

当番表の、今日のところの名前を、ぼくは、頭の中で、思い出した。

今夜の当番は、セヴェリンさんだ。

すぐに、静かな足音が、廊下を歩いていった。

大人の、ゆっくりした、低い靴音だった。

泣き声は、しばらくして、止んだ。

止んだあとの廊下に、ひくひく、と笑うような、赤ちゃんの、ちいさな息の音だけが、残った。


ぼくは、日記帳を、枕の下に、しまった。

寝台の布団を、肩まで引き上げて、明かりを吹き消した。


明日も、たぶん、ふつうの一日だ。

ふつうの、お母様のいる、一日だ。


おやすみなさい、お母様。

おやすみなさい、ちび。

おやすみなさい、ジャン。

おやすみなさい、セヴェリンさん。


目を閉じると、夜泣きの声のあとの、低い、あのゆっくりした靴音が、まだ、耳の奥のほうで、かすかに、歩いていた。

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― 新着の感想 ―
最後のリオンの独白にグッときすぎて電車の中なのに涙目になってしまいました リオンも含め子供達のことを深く思いやるエレノアにはもっともっと幸せになってほしい、いやきっとなる!!! うまく言えないのですが…
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