第八話 お母さんが二人いる、という話
リオンが我が家の門をくぐって私を見たあの夕方から、しばらくの日が、過ぎた。
リオンは、学院の寮からこの家へ、ときどき、こっそりと、通ってくるようになった。
「こっそり」というのは、リオンの言い方であって、私の言い方ではない。私は一度、きちんと学院のほうへ手紙を書いた。母代わりの身として、この子の出入りのことを学院長にご承知おきいただきたい、と。返事は、思っていたより、ずっと、丁寧なものだった。
「当学院は、生徒の家族関係の事情に立ち入る権限を持ちません。寮の門限を守る限り、どなたのお宅へお戻りになるかについて、学院は関知いたしません」
役人の言葉だった。けれど、そのそっけなさが、このときの私には、ありがたかった。
◇
ある日の夕刻、リオンは、庭でジャンと並んで座り込んでいた。
二人とも、膝を立てて、その膝の上に顎を乗せていた。リオンのほうが少し背が高いので、ジャンのほうが、ちょっとだけ背伸びをしているふうに見えた。
二人は、私に気づいていなかった。私も、わざと、気づかせないようにして、台所の窓の端からだけ、そっと、見ていた。
リオンが、ジャンに何か話していた。
ジャンは、しばらく、ふむふむ、というふうに聞いていた。
それから、ジャンは、小さく、こう言った。
「じゃあ、リオンは、お母さん、二人いるんだ」
その声が、台所の窓まで、届いた。
リオンは、しばらく、黙っていた。
それから、うつむいたまま、消え入りそうな声で、答えた。
「……うん。二人、いる」
ジャンは、足元の土を、短い木の枝で、こつこつ、と、突いた。
「いいなあ」
と、ジャンは言った。
私は、台所の窓の縁に、指先を置いた。
置いたまま、しばらく、動けなかった。
「僕はさ、一人もいないよ。覚えてないだけかもしれないけど、覚えてる限りでは、ずっと、いなかった。だからさ、リオン、二人も、いるんじゃん。ぜいたくだよ」
ジャンの言い方には、ひがみも、嫌味も、悲しみも、ほとんど、なかった。
ただ、事実を、事実のまま、並べていた。
年のわりに、すでに、そういう並べ方を身につけてしまっている、ジャンの声だった。
リオンは、顔を上げた。
しばらく、ジャンの横顔を、じっと、見ていた。
それから、やっと、こう、言った。
「……うん。そっか」
「そっか、って、なに」
「二人、いるって、いいことなのかもしれない、って、今、思った」
「なんだよそれ」
ジャンは、木の枝で、リオンの靴の先を、こん、と軽く突いた。
リオンも、膝を崩して、ジャンを、軽く突き返した。
そのまま、二人で、少しだけ、笑った。
庭の草のあいだで、ちいさく、低い、男の子たちの笑い声だった。
私は、台所の窓から、そっと、離れた。
離れてから、流しの縁を、両手で、軽く、握った。
鎖骨のあたりが、じわっと熱を持った。泣きそうな熱でもなく、嬉しい熱でもない、もっと、居場所の知れない熱だった。
上手に泣けない女の体というのは、ときどき、こういう変な場所で、泣きそこねを引き受けるものらしい。
(こういう夕方は、だれに相談したらいいのかしら)
相談する先のあてが、ないこと自体は、もう、慣れていた。
◇
その夜、リオンは、私の書き物部屋の戸を、外から叩いた。
「お母様、いま、いい?」
「いいわよ」
リオンは、部屋のなかに入ってきて、椅子には座らずに、机のすぐ脇に立った。
手を、制服のポケットに入れて、それから、抜いて、また入れた。
小さな男の子の、落ち着かないときの癖だった。
「お母様」
「なあに」
「僕、僕、本当のお母様には、会いたくない」
私は、机の上に置いていた羽根ペンを、そっと、脇へ寄せた。
これは、ちゃんと両手の空いた状態で、聞かなければならない話だった。
「あのね、お母様。僕ね、今日、ジャンと話してて、ちょっと、分かったことがあるんだ」
「どんなこと」
「たぶん、僕、二人いること自体は、もう、いい、と思ってる。二人いても、いいって、思える。だけど、今の僕が『お母様』って呼びたい人は、ひとりなんだ」
リオンの目が、私のほうを、まっすぐに見た。
「今は、まだ、ヴィオラさまのとこ、行けない。いつか、会いにいく日は、来るかもしれないけど、それは、僕が、ちゃんと、いつかになってから、自分で決める。だから、今は、ここに、いたい」
私は、膝の上で、両手を、ひとつに、組み合わせた。
組み合わせながら、ゆっくり、息を、吸った。
「リオン」
「うん」
「それは、あなたが、自分で決めたことなのね」
「うん」
「お母様は、あなたの決めたことを、尊重します」
そう申し上げるのに、ずいぶんの勇気が、要った。
私は、十二年の母だ。
「あなたのためを思って、こうしなさい」と、横から口を出す権利を、たぶん、持っている。
けれど、その権利を、今日は、使わないことにした。
使えば、この子の「自分で選ぶ」という経験を、いちばん大事な最初のところで、私が奪ってしまうことになるから。
リオンは、こくり、と頷いた。
それから、少しだけ、顔を曇らせた。
「お父様のことなんだけど」
「ええ」
「最近、ほんとに、あんまり、書斎から出てこない。お酒の匂いが、する日もある」
私は、頷いた。
何も、言わなかった。
言わないほうがいい、ということは、商家の娘の頃から、よく、分かっている。
人の崩れ方の話を、その子どもの前で論評するのは、いちばんしてはいけないことの一つだ。
「……お母様、あのね」
「なあに」
「お父様のこと、ぼく、まだ、お父様って、呼んでていいのかな」
私は、膝の上で組んでいた手を、ほどいた。
ほどいて、片方の手を、リオンの肩に、そっと、乗せた。
乗せると、リオンの肩の骨が、制服越しに、思っていたよりも細く、伝わってきた。
「呼びたければ、呼びなさい。呼びたくなければ、呼ばなくてよろしい。どちらを選んでも、それは、あなたの選び方です」
リオンは、下を向いた。
下を向いて、下を向いたまま、小さく、頷いた。
◇ ◇ ◇
執務室の、窓の外が、暮れていた。
私は、机の上の書類を、さらりと、左から右へ、並べ直した。
手が少しだけ、落ち着かないのを、自分でも、ぼんやり、自覚していた。
壁に、新しい絵が、一枚、かけられていた。
今朝、私が指示して、掛けさせたものだった。
小さな水彩画で、額縁も飾り気のない、ごく普通のものだ。
描かれているのは、王都郊外の、ある小さな庭の風景。
庭の真ん中に、女が一人、腰を屈めて、何人かの子らのそばにいる。
顔立ちは、ほとんど、描き込まれていない。
けれど、腰の屈め方と、手の伸ばし方の具合だけで、私には、それが誰の後ろ姿か、わかる。
依頼した画家には、細部を描きこまないように、と、わざわざ申し添えた。
顔を描かせてしまうと、その絵は、「あの方の絵」ではなく、「描かれた絵」になってしまう。
私が今、この目で、毎朝毎夕、確かめたかったのは、絵の技法ではない。
あの方の、腰の屈め方、子らへの手の伸ばし方、そういう、姿勢のほうだった。
「閣下」
扉の向こうで、部下の声がした。
「どうぞ」
副官が、書類を抱えて入ってきた。
絵を一度、ちらりと見上げて、それから、少しだけ、片眉を動かした。
「閣下、お部屋に、絵を掛けられましたな。閣下が執務室に何かをお飾りになるのは、ご就任以来、初めてのことかと存じます」
「そうか」
「……それだけで、ございますか」
「それだけだ」
副官は、ほんのわずかに、口の端を動かした。
笑った、というほどのものでは、ない。ただ、動いた。
彼は、長く、私の下で働いている。この程度の表情の変化を、他の誰にも、見せたことはないだろう。
「ロスフィールド伯爵の件の、王都土木事業の関連資料でございます。ほぼ、揃いました」
私は、書類を受け取った。
書類の束は、思っていたよりも、厚かった。
土木局に配属された者たちが、細かく調べ上げてくれた数字の山。
その山のあちこちで、数字が、どうしても合わない箇所がある。
合わない箇所の多くが、ロスフィールド伯爵の出張先の日付と、重なっていた。
そして、重なっているその日付のすべてが、ある方の、帳面の記述と、さらに、重なっていた。
私は、書類の束を、机の上に置いた。
置いた書類の角が、ちょうど、壁の絵の縁の、延長線の上に来ていた。
そのことに気づいて、私は、その場所から、書類を、少しだけ、ずらした。
あの方の帳面を、この種類の書類と、同じ場所に、置きたくはなかった。
それは、私の、仕事の理屈ではなく、まったく別の種類の理屈だった。
「閣下」
副官が、もう一度、声をかけた。
「本件、そろそろ、正式にお動かしになるべきかと」
「そうだな」
「ロスフィールド伯爵への、出頭命令を、起案いたしますか」
「頼む」
副官は、頭を下げて、退出した。
扉が閉まる音がして、執務室には、私ひとりになった。
私は、もう一度、壁の絵を見上げた。
小さな庭の、ぼんやりとした、女の後ろ姿。
画家には、後ろ姿でいい、と、言ってあった。
顔は、私自身の記憶のなかに、すでに、ある。
記憶のほうで、十分だった。
このお方を、あの男のしたことの後始末に、巻き込まずに済ませる方法は、なかったのだろうか、と、一度、考えた。
考えて、すぐに、その考えを、引っ込めた。
巻き込まずに済ませる、というのは、結局のところ、あのお方の十二年を、ただの主婦の記録のまま、しまい込んでしまうことでもあった。
あの十二年を、「国を動かす証拠」として、正面から受け止めることのほうが、たぶん、あの方にとっても、必要なことだった。
そうでなければ、あの方の十二年は、誰にも見届けられないまま、終わってしまう。
私は、それだけは、させたくなかった。
◇ ◇ ◇
ロスフィールド伯爵への、出頭命令が発せられた、という知らせは、翌朝、王都の早い新聞の、片隅に、小さく載った。
マダム・コルベールが、いつもの時間に、杖をつきながら、その新聞を小脇にはさんで、うちの門をくぐってきた。
玄関先で、私に新聞を差し出しながら、マダムはため息ともつかない声で、こう言った。
「エレノアさま。いよいよ、らしいわねえ」
「……らしい、でございますね」
「お覚悟は、できていて?」
「どうでしょう。たぶん、できて、ございません」
私は、正直に、そう答えた。
嘘をつく気力が、朝から、出てこなかった。
マダムは、しわのあいだで、ふっと笑った。
「覚悟というのはね、できているときより、できていないときのほうが、よく効くのよ。できていると思っているうちは、どこか、取り繕うのね。できていないと、取り繕えないから、かえって、相手に、届くの」
「……そういう、ものでございますか」
「そういうもの。ふふ。八十年、生きてみないと、分からない類のことね」
そう言って、マダムは、玄関の石段に、腰を下ろしてしまった。
年のわりに、動きが身軽な方だった。
新聞の片隅の、小さな字を、私は、もう一度、目で追った。
『ロスフィールド伯爵、王宮へ出頭のこと』
その一行だけだった。
それ以上のことは、まだ、どこにも、書かれていなかった。
それ以上のことが、これから、たぶん、書かれていく。
私は、新聞を畳み直した。
朝の風が、門のあたりの若葉の枝を、さらさらと揺らしていた。
その音が、今朝はやけに、澄んで聞こえた。




