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答え合わせをいたしましょうか、旦那様  作者: 九葉(くずは)


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第七話 十二年分の、ただの主婦の記録

十二年分の家計簿を、私は両手で抱えて宰相閣下のお待ちの部屋へ運んだ、と、最初に書きかけて、すぐに取り消した。

両手では、足りなかったからだ。


革表紙の帳面は、背の高さを揃えて積み上げたら、子どもが膝に乗せた絵本より、ずっと重くなる。

私ひとりでは、とても、運べなかった。

使用人の、いえ、孤児院の切り盛りを手伝ってくれている、通いの若い娘のサラに、半分を持ってもらって、二人がかりで、書き物部屋の机まで運んだ。


「ずいぶん重いんですねえ、奥様」

サラは息を切らしながら、そう言った。

「奥様、じゃなくて、エレノアさま、でしたっけ」

「どちらでも。サラのお呼びやすいように」

「じゃあ、奥様で」

「……それは、いちばん避けたいのだけれど」


サラは、きょとんと私の顔を見て、それから、ぱっと笑った。

この家に来る前は、王都の安い食堂で働いていた娘さんだった。笑う声が、まっすぐで、気持ちがいい。


帳面を机の上に積みなおしながら、私は、ふっと、考えた。

この十二年分を、ほかの誰かに、「重いですね」と言ってもらったのは、これが最初だ。

この重さが「重い」と言ってもらえる場所に、私はようやく、来たらしい。





セヴェリン様は、その翌日の午後、お見えになった。


いつもの黒に近い色の上着で、今日は、外套は玄関でお脱ぎになった。

書き物部屋の戸口に立って、机の上に積まれたものを、一度、目で確かめられた。

それから、ゆっくりと、椅子のほうへ歩み寄られる。


「お運びになるのは、ご大変だったでしょう」


最初に口にされたのは、その一言だった。

役人の言葉ではない、ということは、もう、わかっていた。


「サラに、手伝ってもらいました」

「そのほうが、よろしいでしょう」


セヴェリン様は、机の前の椅子にお掛けになった。

まっすぐに腰を下ろして、背筋は、しゃんとしておられた。

けれど、視線は、帳面の山のほうへ、まっすぐには向かわなかった。

まず、いちばん上の一冊の、表紙の革の、端の擦れのあたりに、ふっと、目が止まった。


「……ここの、擦れは」

「十二年前の分でございます。嫁いで最初に買い求めた、いちばん新しい帳面でした。毎月、革の表紙を撫でる癖がございましたので、だんだん、このように」


セヴェリン様は、小さく、頷かれた。

それから、手袋をしていない素手で、その表紙の端を、指の腹で、そっと、なぞられた。


指の運びが、ずいぶん、ゆっくりだった。

書類の角をめくるときの手さばきではない。

もっと、なにか、別の種類のものに触れるときの、手つきだった。


私は、机の向こう側に立ったまま、それを、見ていた。

なぜだか、声を出してはいけないような、そういう空気が、その一瞬だけ、部屋のなかに満ちた。


「これだけのものを、十二年」


と、セヴェリン様は、その指の動きを止めて、呟かれた。

独り言のような呟きだった。

独り言のようで、けれど、はっきりと、私の方へ向けられてもいた。


「……お恥ずかしいことでございます。ただの、主婦の記録でございますから」

「そう、おっしゃらないでいただきたい」


意外なほど、早く、お返事が戻ってきた。

いつもの、お選びになってから言葉を置かれる話し方とは、少し違った。


「ただの、という語を、この紙の束に添えるのは、私には、できません」


私は、何と返したらよいのか、一瞬、わからなくなった。

こういうとき、貴族の奥方としての受け答えは、いくらでも用意してあった。「まあ、もったいないお言葉を」でも、「ありがたく存じますわ」でも、何でもよい。全部、型がある。

けれど、今の私の口からは、そういう型の言葉が、ひとつも出てこなかった。

(商家の娘に戻っているのかしら。それとも)

それとも、たぶん、ただ、この人の前では、型が、うまく働かないらしかった。


「……ありがとうございます」


そう申し上げるのが、やっとだった。





セヴェリン様は、それから、十二年分のうちの、古い順に、一冊ずつ、手に取られた。


ページをめくるのも、やはり、ゆっくりだった。

数字を目で追う、という速度ではない。

言葉を読む、というのとも違う。

もっと、何か、紙そのもののつけた皺や、文字を書いた日の筆圧のことまで、一緒にご覧になっている、そういう速度だった。


ときどき、ページの隅で、指がふっと止まった。

そのたびに、私は、自分の書いた字のことを、思い出さないように努めた。

覚えのあるページが、いくつか、あったからだ。

リオンが熱を出した夜の支出の記載の脇に、ほんの小さく、「熱四十度近し 朝まで起きている」と書き添えた日のこと。

あれは、本当は、家計の帳面には書くべきことではなかった。


でも、あのときの私は、それをどこかに書き留めておかないと、朝まで持たない気がしていた。

だから、誰にも気づかれないように、数字の下に、そっと、書いた。

書いて、書いたことを、次の日には、自分でも忘れた。


その一行のあたりで、セヴェリン様の指が、一瞬だけ、止まった。


止まって、それから、何もおっしゃらずに、また、次のページへ進まれた。


見られてしまった、と、なぜだか、そう思った。

夫に見られたよりも、ずっと、深いところを見られてしまった、と思った。

それなのに、恥ずかしさは、あまり、なかった。





部屋の中が、しばらく、しんとしていた。


机の上の、帳面のページをめくる音だけが、ときどき、紙の繊維の乾いた音で、空気を揺らした。

窓の外で、ジャンが、年下の子らに何かの歌を教えているのが、かすかに聞こえた。音程が、だいぶ怪しかった。

それでも、ちゃんと歌になっていた。


やがて、セヴェリン様は、手元の帳面を、そっと閉じられた。

手の力の加減が、ほんとうに、静かだった。


「エレノアさま。改めて、お願い申し上げます」


ご自分の手元の一冊を、机の角へ、そっと寄せられた。

「王都の土木事業について、ある調査を進めております。ロスフィールド領における、ここ数年の資材の動きと、そのご領主の交友関係について、あなたの帳面にあるものを、お借りしたい」


私は、息を、ゆっくり、吸った。


「お貸しいたします」

「よろしゅうございますか」

「ええ。これは、私からの、最後のお仕事でございますから」


最後のお仕事。

そう口にしたとき、自分でも、その言葉が、思っていたよりも、すんなりと口から出てきたことに、驚いた。

私は、今ようやく、十二年を、自分の手で終わらせている途中なのだった。

終わらせないうちは、新しい何かを始めることは、できない。それは、商家の娘の私が、いちばん、よく知っている、商いの基本の基本だった。


セヴェリン様は、一度、ほんのわずかに、目を伏せられた。

それから、また、まっすぐに、私を見られた。


「お預かりいたします。大切に」


大切に、という言葉を、書類仕事のなかで、こんなに本気で使う方を、私は、はじめて見た。





セヴェリン様がお帰りになったあと、私は、書き物部屋に、ひとり、残っていた。


残りの帳面は、机の上に、まだ積まれたままだった。

空気のなかに、古い革と、紙と、それから、あの方の硬い声の余韻が、まだ、うっすらと、漂っていた気がした。


私は椅子に腰を下ろして、自分の両手を、膝の上で重ねた。

手のひらを、ふと、裏返した。

指先に、さっきまで帳面を運んだときの、紙の細かい埃が、まだ、わずかに、残っていた。


私の十二年は、紙埃の重さ分は、あったのだ。

そのことが、なぜだか、いま、とても、大事なことのように思えた。





玄関の鈴が、不意に、鳴った。


サラの声が、廊下のほうで、ちいさく「まあ」と言うのが、聞こえた。

それから、慌てたような足音が、書き物部屋の扉の前まで、やって来た。


「エレノアさま、エレノアさま、あの、大変、というか、あの」

「どうしたの、サラ」

「門のところに、ぼく、じゃなくて、お坊ちゃまがいらして」


私は、椅子から立ち上がった。

立ち上がった拍子に、膝の裏のあたりが、ふっと、ひやりとした。

冷水をかけられたわけでもないのに、そういう、急に体の温度が一段下がる感じがあった。





玄関先の石段に、リオンが立っていた。


学院の真新しい制服のままで、肩に薄い外套を一枚、羽織っていた。

襟元のリボンが、少し、斜めにずれていた。

ほんの少しだけ、頬が赤くなっていて、それは走ってきた赤さなのか、風で冷えた赤さなのか、私には判別がつかなかった。


「リオン」


私は、一歩、踏み出した。

踏み出してから、リオンの顔を、よく、見た。

目のあたりが、ほんの少し、ふくらんでいた。

泣いたあとの顔、というのは、私には、わかる。

自分が上手に泣けないぶん、人の泣いたあとの顔のことは、昔から、よく見分けがついた。


「お母様」


リオンは、石段の下から、私を呼んだ。

制服のまま、両手を、外套のポケットに突っ込んだまま、それでも、呼んだ。


「お母様、あの、僕、お父様の家が、なんだか、おかしいんだ」


声が、少し、震えていた。


「使用人の人たちが、お互いに小さな声でぼそぼそ話してる。夕飯の時間がずれる。お父様が、書斎から、ぜんぜん出てこない。お母様が出ていってから、ずっと、なんだか、家がおかしくて」


「リオン」

「それで、僕、僕」


そこで、リオンは、ちいさく、息を継いだ。


「……お母様のドアは、いつでも開いてるって、言ってくれたから」


私は、石段を、ゆっくり、下りた。

一段、一段、段差を間違えないように、気をつけながら、下りた。

こんな簡単な石段のはずなのに、今日は、どうしてか、足元の確認が必要だった。

膝が、ほんのわずかに、頼りなかった。


リオンの前に、立った。


「入りなさい、リオン」


そう申し上げるのに、それ以上の言葉は、要らなかった。

「いつでも」と、あの朝、ちゃんと、言ってあったのだから。

言ったことを、守る。それだけの話のはずだった。


それだけの話のはずなのに。

私の胸の奥では、何かが、今、ふつ、ふつ、と、動いていた。

動いていて、それは、悲しみとも、安堵とも、違う、よくわからない、あたたかさのようなもので、

たぶん、名前をつけないほうがいいもの、だった。

名前をつけると、うっかり、こぼれそうな気がしたから。


リオンは、制服のまま、こくり、と頷いた。

それから、空いている片手を、私のほうへ伸ばしかけて、途中で、ためらって、止めた。

十二歳の子の、まだ子どものところと、もうすぐ子どもではなくなるところの、その境目にある手だった。


私は、自分のほうから、その手を、取った。

あたたかかった。

外を走ってきたばかりの手だった。

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