第七話 十二年分の、ただの主婦の記録
十二年分の家計簿を、私は両手で抱えて宰相閣下のお待ちの部屋へ運んだ、と、最初に書きかけて、すぐに取り消した。
両手では、足りなかったからだ。
革表紙の帳面は、背の高さを揃えて積み上げたら、子どもが膝に乗せた絵本より、ずっと重くなる。
私ひとりでは、とても、運べなかった。
使用人の、いえ、孤児院の切り盛りを手伝ってくれている、通いの若い娘のサラに、半分を持ってもらって、二人がかりで、書き物部屋の机まで運んだ。
「ずいぶん重いんですねえ、奥様」
サラは息を切らしながら、そう言った。
「奥様、じゃなくて、エレノアさま、でしたっけ」
「どちらでも。サラのお呼びやすいように」
「じゃあ、奥様で」
「……それは、いちばん避けたいのだけれど」
サラは、きょとんと私の顔を見て、それから、ぱっと笑った。
この家に来る前は、王都の安い食堂で働いていた娘さんだった。笑う声が、まっすぐで、気持ちがいい。
帳面を机の上に積みなおしながら、私は、ふっと、考えた。
この十二年分を、ほかの誰かに、「重いですね」と言ってもらったのは、これが最初だ。
この重さが「重い」と言ってもらえる場所に、私はようやく、来たらしい。
◇
セヴェリン様は、その翌日の午後、お見えになった。
いつもの黒に近い色の上着で、今日は、外套は玄関でお脱ぎになった。
書き物部屋の戸口に立って、机の上に積まれたものを、一度、目で確かめられた。
それから、ゆっくりと、椅子のほうへ歩み寄られる。
「お運びになるのは、ご大変だったでしょう」
最初に口にされたのは、その一言だった。
役人の言葉ではない、ということは、もう、わかっていた。
「サラに、手伝ってもらいました」
「そのほうが、よろしいでしょう」
セヴェリン様は、机の前の椅子にお掛けになった。
まっすぐに腰を下ろして、背筋は、しゃんとしておられた。
けれど、視線は、帳面の山のほうへ、まっすぐには向かわなかった。
まず、いちばん上の一冊の、表紙の革の、端の擦れのあたりに、ふっと、目が止まった。
「……ここの、擦れは」
「十二年前の分でございます。嫁いで最初に買い求めた、いちばん新しい帳面でした。毎月、革の表紙を撫でる癖がございましたので、だんだん、このように」
セヴェリン様は、小さく、頷かれた。
それから、手袋をしていない素手で、その表紙の端を、指の腹で、そっと、なぞられた。
指の運びが、ずいぶん、ゆっくりだった。
書類の角をめくるときの手さばきではない。
もっと、なにか、別の種類のものに触れるときの、手つきだった。
私は、机の向こう側に立ったまま、それを、見ていた。
なぜだか、声を出してはいけないような、そういう空気が、その一瞬だけ、部屋のなかに満ちた。
「これだけのものを、十二年」
と、セヴェリン様は、その指の動きを止めて、呟かれた。
独り言のような呟きだった。
独り言のようで、けれど、はっきりと、私の方へ向けられてもいた。
「……お恥ずかしいことでございます。ただの、主婦の記録でございますから」
「そう、おっしゃらないでいただきたい」
意外なほど、早く、お返事が戻ってきた。
いつもの、お選びになってから言葉を置かれる話し方とは、少し違った。
「ただの、という語を、この紙の束に添えるのは、私には、できません」
私は、何と返したらよいのか、一瞬、わからなくなった。
こういうとき、貴族の奥方としての受け答えは、いくらでも用意してあった。「まあ、もったいないお言葉を」でも、「ありがたく存じますわ」でも、何でもよい。全部、型がある。
けれど、今の私の口からは、そういう型の言葉が、ひとつも出てこなかった。
(商家の娘に戻っているのかしら。それとも)
それとも、たぶん、ただ、この人の前では、型が、うまく働かないらしかった。
「……ありがとうございます」
そう申し上げるのが、やっとだった。
◇
セヴェリン様は、それから、十二年分のうちの、古い順に、一冊ずつ、手に取られた。
ページをめくるのも、やはり、ゆっくりだった。
数字を目で追う、という速度ではない。
言葉を読む、というのとも違う。
もっと、何か、紙そのもののつけた皺や、文字を書いた日の筆圧のことまで、一緒にご覧になっている、そういう速度だった。
ときどき、ページの隅で、指がふっと止まった。
そのたびに、私は、自分の書いた字のことを、思い出さないように努めた。
覚えのあるページが、いくつか、あったからだ。
リオンが熱を出した夜の支出の記載の脇に、ほんの小さく、「熱四十度近し 朝まで起きている」と書き添えた日のこと。
あれは、本当は、家計の帳面には書くべきことではなかった。
でも、あのときの私は、それをどこかに書き留めておかないと、朝まで持たない気がしていた。
だから、誰にも気づかれないように、数字の下に、そっと、書いた。
書いて、書いたことを、次の日には、自分でも忘れた。
その一行のあたりで、セヴェリン様の指が、一瞬だけ、止まった。
止まって、それから、何もおっしゃらずに、また、次のページへ進まれた。
見られてしまった、と、なぜだか、そう思った。
夫に見られたよりも、ずっと、深いところを見られてしまった、と思った。
それなのに、恥ずかしさは、あまり、なかった。
◇
部屋の中が、しばらく、しんとしていた。
机の上の、帳面のページをめくる音だけが、ときどき、紙の繊維の乾いた音で、空気を揺らした。
窓の外で、ジャンが、年下の子らに何かの歌を教えているのが、かすかに聞こえた。音程が、だいぶ怪しかった。
それでも、ちゃんと歌になっていた。
やがて、セヴェリン様は、手元の帳面を、そっと閉じられた。
手の力の加減が、ほんとうに、静かだった。
「エレノアさま。改めて、お願い申し上げます」
ご自分の手元の一冊を、机の角へ、そっと寄せられた。
「王都の土木事業について、ある調査を進めております。ロスフィールド領における、ここ数年の資材の動きと、そのご領主の交友関係について、あなたの帳面にあるものを、お借りしたい」
私は、息を、ゆっくり、吸った。
「お貸しいたします」
「よろしゅうございますか」
「ええ。これは、私からの、最後のお仕事でございますから」
最後のお仕事。
そう口にしたとき、自分でも、その言葉が、思っていたよりも、すんなりと口から出てきたことに、驚いた。
私は、今ようやく、十二年を、自分の手で終わらせている途中なのだった。
終わらせないうちは、新しい何かを始めることは、できない。それは、商家の娘の私が、いちばん、よく知っている、商いの基本の基本だった。
セヴェリン様は、一度、ほんのわずかに、目を伏せられた。
それから、また、まっすぐに、私を見られた。
「お預かりいたします。大切に」
大切に、という言葉を、書類仕事のなかで、こんなに本気で使う方を、私は、はじめて見た。
◇
セヴェリン様がお帰りになったあと、私は、書き物部屋に、ひとり、残っていた。
残りの帳面は、机の上に、まだ積まれたままだった。
空気のなかに、古い革と、紙と、それから、あの方の硬い声の余韻が、まだ、うっすらと、漂っていた気がした。
私は椅子に腰を下ろして、自分の両手を、膝の上で重ねた。
手のひらを、ふと、裏返した。
指先に、さっきまで帳面を運んだときの、紙の細かい埃が、まだ、わずかに、残っていた。
私の十二年は、紙埃の重さ分は、あったのだ。
そのことが、なぜだか、いま、とても、大事なことのように思えた。
◇
玄関の鈴が、不意に、鳴った。
サラの声が、廊下のほうで、ちいさく「まあ」と言うのが、聞こえた。
それから、慌てたような足音が、書き物部屋の扉の前まで、やって来た。
「エレノアさま、エレノアさま、あの、大変、というか、あの」
「どうしたの、サラ」
「門のところに、ぼく、じゃなくて、お坊ちゃまがいらして」
私は、椅子から立ち上がった。
立ち上がった拍子に、膝の裏のあたりが、ふっと、ひやりとした。
冷水をかけられたわけでもないのに、そういう、急に体の温度が一段下がる感じがあった。
◇
玄関先の石段に、リオンが立っていた。
学院の真新しい制服のままで、肩に薄い外套を一枚、羽織っていた。
襟元のリボンが、少し、斜めにずれていた。
ほんの少しだけ、頬が赤くなっていて、それは走ってきた赤さなのか、風で冷えた赤さなのか、私には判別がつかなかった。
「リオン」
私は、一歩、踏み出した。
踏み出してから、リオンの顔を、よく、見た。
目のあたりが、ほんの少し、ふくらんでいた。
泣いたあとの顔、というのは、私には、わかる。
自分が上手に泣けないぶん、人の泣いたあとの顔のことは、昔から、よく見分けがついた。
「お母様」
リオンは、石段の下から、私を呼んだ。
制服のまま、両手を、外套のポケットに突っ込んだまま、それでも、呼んだ。
「お母様、あの、僕、お父様の家が、なんだか、おかしいんだ」
声が、少し、震えていた。
「使用人の人たちが、お互いに小さな声でぼそぼそ話してる。夕飯の時間がずれる。お父様が、書斎から、ぜんぜん出てこない。お母様が出ていってから、ずっと、なんだか、家がおかしくて」
「リオン」
「それで、僕、僕」
そこで、リオンは、ちいさく、息を継いだ。
「……お母様のドアは、いつでも開いてるって、言ってくれたから」
私は、石段を、ゆっくり、下りた。
一段、一段、段差を間違えないように、気をつけながら、下りた。
こんな簡単な石段のはずなのに、今日は、どうしてか、足元の確認が必要だった。
膝が、ほんのわずかに、頼りなかった。
リオンの前に、立った。
「入りなさい、リオン」
そう申し上げるのに、それ以上の言葉は、要らなかった。
「いつでも」と、あの朝、ちゃんと、言ってあったのだから。
言ったことを、守る。それだけの話のはずだった。
それだけの話のはずなのに。
私の胸の奥では、何かが、今、ふつ、ふつ、と、動いていた。
動いていて、それは、悲しみとも、安堵とも、違う、よくわからない、あたたかさのようなもので、
たぶん、名前をつけないほうがいいもの、だった。
名前をつけると、うっかり、こぼれそうな気がしたから。
リオンは、制服のまま、こくり、と頷いた。
それから、空いている片手を、私のほうへ伸ばしかけて、途中で、ためらって、止めた。
十二歳の子の、まだ子どものところと、もうすぐ子どもではなくなるところの、その境目にある手だった。
私は、自分のほうから、その手を、取った。
あたたかかった。
外を走ってきたばかりの手だった。




