第六話 冷徹と呼ばれた人の、膝の折り方
冷徹と呼ばれるお方は、子どもと話すとき、必ず膝を折るらしかった。
私がそれに気づいたのは、セヴェリン様が二度目に、この家の門を叩かれた日のことだった。
最初にあの方が夜更けに現れてから、そろそろ、三週間が経とうとしていた。
◇
あの晩のあと、お名前の下の立場を、私は人伝てに知った。
王都でも名の通った宰相閣下であること。公爵家の養子でいらっしゃること。「冷徹」という言葉が、その御名の前に、ほとんど当たり前のように付いて回るということ。
マダム・コルベールが、お茶の席でぽつりぽつりと話してくださった。
「あら、あなた、あの方のことをご存じなかったの?」
「私、社交界からは、しばらく遠ざかっておりましたので」
「社交界どころじゃないのよ、あの方は。陛下のお手元の、ちょうどお右のあたりに、ずっと座っていらっしゃる方。それが、あなたのお宅の門を、直々に叩かれたのね」
マダムは、そこで、片頬だけに小さな笑みを浮かべた。
「若い頃から、冷たい冷たいと言われてきた方よ。笑わない、愛想がない、感情が読めない、と。でもね、エレノアさま。私は、あの方のお小さい頃のことを、少しだけ知っているの」
「お小さい頃のこと、でございますか」
「あの方はね、公爵家に引き取られる前は」
マダム・コルベールは、そこで、一度、口を閉じた。
閉じて、それから、「あ、だめだめ。よそさまの過去をぺらぺらしゃべるのは、お行儀が悪いわねえ」と、ご自分でご自分を叱って、お茶を一口、含みなおした。
私は、それ以上を尋ねなかった。
尋ねられた側の立場になった経験を、私自身、つい最近、味わったばかりであったから。
◇
その日のセヴェリン様は、昼下がりにいらした。
前のときとちがって、たいそう、いつものお支度、というふうだった。
黒ばかりではなくて、外套の下には濃い灰色の上着をお召しで、襟元のあたりに、銀の留め具が一つ。それだけ、ふだんより少しだけ、華やかに見えた。
「昼間に伺うのは、はじめてでございます」
玄関先でそうおっしゃって、ほんのわずかに、頭を下げられた。
「夜にお邪魔したままでは、失礼にあたると、思いまして」
「お気遣い、ありがとうございます」
私は、いつものように、丁寧に頭を下げ返した。
丁寧に、と、自分では思っているのだが、本当にきちんとお辞儀ができているのか、じつのところ、自信がなかった。
私がお辞儀をする相手のなかで、この方は、おそらく、いちばん身分の高いお方だった。夫にさえ、こんな深いお辞儀はしたことがない。
(……夫に、こんな深いお辞儀をしたいような男はいなかった、と言ったほうが、正確かしら)
頭を下げた姿勢で、自分のなかの悪態に、こっそり笑いそうになった。
「お子たちに、少しばかり、お会いしても、よろしいでしょうか」
「子供たちに、でございますか」
お顔を、思わず上げてしまった。
セヴェリン様は、ふだんと同じ、硬い声のまま、ただ、こう続けられた。
「支援者として、先々のために、実情を把握しておきたく存じます。ご迷惑であれば、すぐに引き上げます」
引き上げます、と言いながら、その言い方には、どこにも、「引き上げる気」の気配がなかった。
この方は、もしかすると、言葉のほうは硬く使って、ご本心のほうを、そのぶん、別のところに逃しているのかもしれない。
そんな気が、した。
「どうぞ、こちらへ」
◇
居間の敷物の上で、ちょうど、ジャンが年下の子らと積み木で遊んでいた。
ジャンは、セヴェリン様の黒い外套の影が戸口に立った瞬間、ぴたりと動きを止めた。
小さい子らは、ジャンの動きに反射で従う癖がついていて、やはり同じように、ぴたりと静まった。
リリの指先で、積み木が一個、ぱたんと倒れた。
怖がらせてしまったかしら。
私は、胸のなかで、一歩遅れて心配した。
そのとき、セヴェリン様が、すっ、と膝を折られた。
敷物に膝をおつきになった、というのが、まず、目に映った。
次に、その膝の折り方の、あまりの自然さに、目を奪われた。
ふだん、立派な屋敷のお客間で、椅子の上で背筋を伸ばして仕事をしておられるだろう方が、今、見知らぬ子供たちの遊ぶ敷物の高さまで、なにひとつ気取りなく、降りてきておられた。
ジャンの目の高さが、セヴェリン様の目の高さと、ほとんど同じになった。
「積み木は、よくできているか」
セヴェリン様は、淡々と、そう問われた。
ジャンは、一瞬、戸惑って、それから、おずおずと一個の積み木を差し出した。
「……すこし、角が欠けてます。でも、立つよ」
「立つならば、十分だ」
「閣下」
ジャンは、自分でその呼び方を使ってから、はっと口をつぐんだ。
セヴェリン様は、その口のつぐみかたをちゃんと見ておられた。
「ここでは、その呼び方はいらない」
「じゃあ、なんて呼べば」
「セヴェリン、で、よい」
ジャンは、ぱちぱちと目をしばたたいた。
それから、自分のうしろに隠れていたリリを、ちらりと見た。
年下の子に悪いお手本を見せないように、という配慮が、小さい子の顔つきに、さっと差した。
「……セヴェリンさん」
「よい」
セヴェリン様は、そう、おっしゃっただけだった。
けれど、そのたった一言の響きには、「それでよい」と子どもに請け合ってやる声のやわらかさが、確かに、あった。
私は、戸口に立ったまま、その光景を見ていた。
この人は、こういうふうに人と向き合う方法を、いったい、どこで覚えられたのだろう。
貴族の教育のなかに、こんな所作は、ない。
夫は、リオンの背丈に合わせて膝を折ったことなど、十二年のあいだに、ほとんど、なかった。
リオンのほうが、いつも、夫の顔を見上げて話すのが当たり前だった。
それに比べて、この方は。
私は、戸口の柱に、そっと、指先をあずけた。
あずけないと、少し、立っているのがおぼつかないような心地だったからだ。
(なんだろう、この感じは)
その感じの名前を、私は、まだ知らなかった。
◇
子らのお茶の時間が済んだあと、セヴェリン様は、書き物部屋のほうへ、お通ししてお話をした。
窓の外からは、ジャンが年下の子らに何か声をかけている、そういう、明るい、低い、お兄ちゃんの声が聞こえていた。
「ひとつ、ご相談がございます」
セヴェリン様は、机を挟んで、向かいの椅子にお掛けになった。
椅子の座り方まで、静かだった。音をひとつも立てない座り方を、長くしてこられたのだろう。
「はい」
「あなたに、お願いしたい調べ物が、ございます。正式な依頼として」
私は、ほんの少しだけ、身をこわばらせた。
この方は、夜に泣いていた私を見た方で、私の論文を十年読んでくださっていた方で、そして、この国の宰相閣下でいらっしゃる方だった。
その方からの、「正式な依頼」。
商家の娘のなかの商家の娘の部分が、反射で、どこか身構えたのが、自分でも、分かった。
「詳細は、またの機会に、改めてお持ちいたします」
セヴェリン様は、ご自分のほうから、その身構えを、そっと、やり過ごしてくださった。
「今日は、ご相談のご予定を伺いたかっただけです。心の支度をしていただくために」
「……心の支度」
その言葉の選び方は、ふつうの役人の言葉ではなかった。
役所の書類に書かれる言葉ではない。
もう少し、人間の言葉だった。
「ありがとうございます」
私は、そう申し上げた。
あまり意味のある返事ではなかったかもしれないが、この方には、たぶん、それで、ちゃんと、通じた気がした。
◇ ◇ ◇
書斎の空気が、重く、沈んでいた。
机の上には、先ほどまで私が目を通していた、領地からの報告書。
その紙の束が、さっきから、一枚目のまま、めくれずに、ある。
ここのところ、書類がやたらと、片付かない。
エレノアが家を出てから、この屋敷の、あらゆるものの回り方が、少しずつ、狂い始めた。
最初はささいなものだった。朝食の皿の並べ方。玄関の客間の花の水替えの頻度。使用人同士の役割の重なり。
どれも、それだけ取り出せば、なんということもない、些細な崩れだ。
ところが、ささいな崩れが寄り集まって、気がつけば、屋敷全体の呼吸が、浅くなっていた。
「旦那様、こちらの件、どちらに回せばよろしいでしょう」
「……いつも、誰が捌いていた」
「奥様で、ございました」
そういう受け答えが、朝から、一日のうちに、何度、繰り返されたかわからない。
私は、そのたびに、少しずつ、自分の息が、浅くなっていくのを感じた。
管理のことは、あれに任せておけばよい、と、私はずっと、そう思っていた。
「任せる」と言えば、聞こえはいい。
実のところは、「見ていなかった」のだ。
十二年ものあいだ、私は、自分の家の動きを、自分の手のひらで確かめる、という基本を、まったくやっていなかった。
今になって、それが、どれほどのものであったのかが、じわじわと、分かりかけてきている。
◇
昨夜の、侯爵家の夜会でのことだった。
私は型通りに挨拶を回っていた。
そのうちの一人、若い侯爵令嬢が、笑顔のまま、こう言ったのだ。
「ロスフィールド伯爵さま、奥方さまは、今宵はいらっしゃらないのですか? あの方のお話、ぜひお聞きしたいと思っておりましたのに」
私は、形通りの笑みを作った。
「妻は、少々、体調が」
「あら。先月のパリエ伯爵家のご夜会でも、同じことを伺いましたわ」
令嬢は、悪気なく、そう続けた。
悪気がないからこそ、刺さる、ということが、世の中にはある。
「ロスフィールド伯爵家の奥方さまは、お体、大丈夫でいらっしゃるの?」
「……ええ、おかげさまで」
「ずっと、お会いできていないから、ご心配申し上げておりますの。私、あの方の帳簿についてのお話を、一度、きちんと伺ってみたくって」
帳簿についてのお話。
私は、一瞬、何を言われているのか、分からなかった。
領地経営の話だということは、すぐに分かった。ただ、その話が、社交界の若い令嬢の口から、私に向けて差し出される、ということの意味が、ぴんと来なかったのだ。
「帳簿、と、おっしゃいますと」
「あら、ご存じありませんの? 奥方さまのお書きになった覚え書き、何年か前に、慈善の集まりに回っておりましたのよ。私、あれを読んで以来、ずっと」
令嬢の言葉の続きを、私は、ほとんど聞いていなかった。
耳の奥で、別のところが、うずき始めていたからだ。
あれの書いたものを、誰かが、読んでいた。
私の知らないところで。
私が、あれを「家のよくできる妻」と呼んでいた間に。
夜会からの帰りの馬車の中で、私は、ずっと、同じ問いを反芻していた。
私は、十二年、何を見ていたのだろう。
答えは、出なかった。
答えを出したくなかったから、かもしれない。
◇
書斎の窓の外で、夕風が、松の枝を揺らした。
私は、手元の報告書の、一枚目を、ようやくめくった。
二枚目の数字は、うまく、読めなかった。
目は見ているのに、頭のほうが、数字を数字として受け取るのを、どこかで拒んでいる。
エレノアの帳簿というのは、こういう種類の数字を、日がな一日、眺め続けて、そこから、屋敷の生き死にを読み取る仕事だったのだ。
私は、
私は、それを、「ありがとう」の一言も言わずに、
「君の管理は助かる」とだけ言って、
いいや。
そのことは、今は、考えないでおこう。
考え始めると、手が、止まる。
◇ ◇ ◇
その晩、私は、お祖母さまの屋敷の、書き物部屋の机の前で、ひとり、ろうそくを灯していた。
手元には、セヴェリン様とお話ししたときのメモ。
それから、まだ書き出しも決まっていない、新しい帳面。
窓の外で、どこかの家の犬が、一声だけ、遠く、吠えた。
それきり、あとは、しん、としていた。
(……心の支度、と、あの方は、おっしゃった)
私は、ろうそくの炎を、じっと見ていた。
(あの言葉を、役人の書類のなかで使う人は、たぶん、あまり、いない)
心の支度、という言葉を、私はずいぶん長いこと、忘れていた。
誰かから、そう言ってもらったのも、はじめてのことだった。
私は、膝の上で、片方の手の甲を、もう片方の手で、そっと、撫でた。
撫でながら、なぜ自分がこんな仕草をしているのか、自分でもよく分からなかった。




