第五話 黒衣の男と、月明かりの論文
赤子の泣き声が、夜を、まるごと満たしていた。
祖母の屋敷が「孤児院」と呼ばれるようになって、二週間と、少し。
ここへ来た子は、いまのところ、七人。
いちばん上のジャンは十歳、いちばん下のあの子は、まだ名前もない。
マーゴットが置いていった、あの赤子だ。
◇
マーゴットがこの家の門を叩いたのは、今日から数えてちょうど、三日ほど前のことだった。
昼下がりの、ひだまりのなかに、彼女は立っていた。
若い娘だった。肩に、薄い肩掛けを一枚、羽織っているだけで、それ以外は、ほとんど身ひとつだった。
肩掛けのなかに、まだ生まれて間もない赤子を、抱いていた。
「奥様」
と、彼女は、そこで言葉を切った。
たぶん、私を何と呼んでよいのか、わからなかったのだろう。
私は、背の高さを合わせるように、少し身を屈めた。
「エレノア、と申します。どうぞ、お入りくださいな」
マーゴットの口は、なにか言いかけて、閉じた。
開きかけて、また、閉じた。
泣こうとして、泣けない顔、というのを、私は自分の顔で、すこしばかり、知っていた。
だから、あまり、驚かなかった。
「お願いします。この子を、お願いします」
声は、か細かった。
「わたくし、この子を、育てられません。ほんとうに、育てたかったのだけれど」
私は、彼女の肩に、そっと手を置いた。
強く握るのは、やめておいた。今の彼女が欲しかったのは、たぶん、重さではなくて、軽い温度のほうだった。
「お預かりいたしましょう」
「……本当に?」
「ええ」
マーゴットは、抱いていた赤子を、ゆっくりと、私のほうへ差し出した。
私は両手で受け取った。
布越しに、まだ首の座らない、ほとんど重みのない重みが、手のひらに伝わった。
それから、ふっと、乳のような、淡い匂いがした。
「このお子の、お名前は」
「まだ」
「さようでございますか」
「わたくしが、あげてしまったら、この子のあとの人生が、わたくしの色に染まってしまう気がして。ですから、まだ。あげていません」
私は、頷いた。
それから、こう申し上げた。
「では、いずれ。この子自身が、ふさわしい名前を選ぶ日まで、お預かりしますね」
マーゴットは、そこで初めて、ぽろ、と、涙をひとつだけ、こぼした。
たったの、それだけだった。
たぶん、あとで、ひとりになってから、ゆっくり、泣くのだろう。
(そういう、泣きかたをする女の人を、私は、知っている)
彼女は、深く、深く、頭を下げて、それから、ふりむかずに、門の外へ出ていった。
門の外では、春の風が、まだ少し冷たく、彼女の肩掛けの裾を、ぱたぱたと揺らしていた。
◇
その赤子が、今夜、寝つかないのだった。
最初の七人のなかで、ただひとりの、名前のないお子。
ほかの子たちは、ジャンがうまく面倒を見てくれていた。
ジャンはこの家に来たときから、もうすっかり「兄貴分」として腹をくくっているらしい子で、幼い子らをひと部屋に集めて、自分の布団の端っこにリリという小さな女の子を寄りかからせて、低い声で何か話をしてやっているふうだった。
あの年齢の子が、自分で自分の役を引き受けるのを見るのは、胸にこたえるものだ。
私は、廊下で一度、足を止めた。
止めたものの、今夜の私は、ジャンの側にいてやる余裕がない。
腕のなかで、名前のない赤子が、さっきから、泣きやまないのだった。
◇
奥の小部屋の、ろうそくを、ひとつだけ灯した。
寝台も、揺り籠も、まだ、まともに揃っていない。
私は、毛布を折り畳んだだけの仮の寝床に、赤子を抱いたまま、腰を下ろした。
抱きなおして、ゆっくり、ゆっくり、上下に揺らす。
「……泣いて、泣いて、よろしいんですよ」
思わず、声がもれた。
「あなたは、今はまだ、それがお仕事ですから」
赤子は、聞いていたのか、聞いていなかったのか、やがて、ふっと、泣き声を弱めた。
弱めて、そのまま、私の胸のあたりに、ぴたりと額を押し付けて、眠ろうとしている。
小さな熱が、布越しに、じわじわと私のほうへ移ってくる。
子どもの熱というのは、こんなに、どこまでも、じかに伝わってくるものだったか。
リオンを育てていたときの、いくつかの夜の記憶が、ふいに、頭のなかに戻ってきた。
初めての夜泣き。初めての熱。初めて「おかあさま」と呼ばれた朝。
いくつもの「初めて」を、私はずっと、自分のものだと信じていた。
信じて、いたのだ。
ちゃんと、信じて、いた。
いたのに。
胸のなかで、その「信じていた」ということばが、ふっと、二度、鳴った。
三度目は、鳴らなかった。
鳴らしてしまうと、たぶん、こわれてしまうと、自分のどこかが、知っていた。
◇
赤子の寝息が、やっと、規則正しくなった。
私は、肩の力を抜いた。
そうしたら、力を抜いた、その場所から、先に、何かが溢れてきた。
頬に、なまあたたかいものが、つうっと、流れた。
(……あれ)
もう片方の頬にも、ひとすじ。
首筋に落ちて、襟のあたりで止まった。
止まった、と思ったら、次がまた、ひとすじ。
私は、自分の頬を、指で押さえた。
濡れていた。
たしかに、濡れていた。
上手に、泣けない女だと、思っていた。
商家の娘は、店先で泣かないものだと、父に言われて育った。
夫に、十二年、ずっと、泣きどころを見せずに暮らしてきた。
昨日までの私は、たしかに、そういう女であった。
それなのに、今。
この、名前のない、知らないお母さんが置いていった、赤子の熱の前で。
私は、ようやく、泣いていた。
ひくりと、肩が震えた。
震えを押さえようとして、赤子の頭を、そうっと揺らしなおす。
この子を、起こしてはいけない。それだけは、絶対に、起こしてはいけない。
だから、声は、出さない。
肩だけで、そうっと、泣いた。
商家の娘の、最後の意地のようなものだった。
(ごめんね、リオン)
胸のなかで、声にならない声で、ひとり、呟いた。
(あなたを愛したことは、本当だったの。本当に、本当に、本当だったの)
ろうそくの炎が、ぱち、とひとつだけ、爆ぜた。
◇
どれくらい、そうしていただろう。
戸口のほうで、かすかな衣擦れの音がした気がして、私は、顔を上げた。
扉は、閉めていなかった。
細く開いた戸口の向こう、廊下の月明かりの差しこむあたりに、黒い影が、ひとつ、立っていた。
首筋の産毛が、ざわりと、起き上がった。
黒い、というのは、布の色のことだ。
踵までまっすぐに落ちる、長い外套。
飾り気のない、硬い黒。その黒が、廊下の、青白い月の光を、まっすぐに受けて、静かに立っていた。
男の人だった。
背が、高い。
月の光を背にしているから、顔の細かいところまでは、よく見えない。
見えないのに、こちらを見ている目の、芯の位置だけが、妙にはっきりと、分かった。
「……どなた、さまでいらっしゃいますか」
私は、赤子を抱えたまま、できるだけ、低く、穏やかな声を出した。
起こしたくなかったし、怖がらせたくもなかったし、それから、自分の声が泣いたあとだということを、相手に知られたくも、なかった。
男の人は、ゆっくりと、外套の胸のあたりに、手をやった。
「夜分に、失礼いたします」
硬い声だった。
冷たい声、ではなく、硬い声、という言い方が、いちばん近かった。
刃物のようではない。研ぎ澄まされた金属ではなくて、むしろ、年を経た石の角のような、そういう硬さだった。
「届出の写しで、こちらの場所を存じ上げておりました。匿名の支援者の一人、ということで、今夜は伺わせていただきました」
「支援者さまで、いらっしゃいますか」
「はい」
男の人は、そう答えてから、ほんのわずかに、目を伏せた。
それから、胸元から、薄い、紙の束を、取り出した。
「もうひとつ、申し上げておかなければならないことが、ございます」
「なんでございましょう」
「私は、あなたの、論文の、読者です」
月の光が、差していた。
男の人の手のなかの紙束を、ちょうど、斜めに、切り分けるように差していた。
紙の端が、いやに白く、浮き上がって見えた。
紙の端は、擦り切れていた。
たくさん、擦り切れていた。
一度や二度、めくっただけのめくり跡ではなかった。
「十年、ほど、前から」
男の人は、それ以上、言葉を足さなかった。
私は、赤子を抱えたまま、その紙束を、ただ、見ていた。
受け取る手は、差し出せなかった。
腕のなかに、眠ったばかりのこの子がいたから。
いや、それはたぶん、半分は、言い訳だった。
本当は、動けなかったのだ。
さっきまで泣いていた頬のことを、私は、すっかり忘れていた。
忘れたまま、ただ、その紙の擦り切れた端だけを、見ていた。
男の人が、ゆっくりと、頭を下げた。
「今宵は、お邪魔をいたしました」
「あ、あの、お名前は」
「セヴェリン、と申します」
それだけを、残して、黒い外套の影は、月明かりの廊下のほうへ、静かに、退いていった。
足音は、ほとんど立たなかった。
月明かりの切れめのあたりで、ふっと、影そのものが、消えた。
小部屋には、私と、赤子と、ろうそくの明かりと、さっきまで私が泣いていたぶんの、湿った空気だけが、残った。
……十年前。
私は、その言葉だけを、自分の頭の中で、静かに、もう一度、置き直した。
十年前の私が、なにかの論文を書いていた、そんな覚えは、たしかに、あった。
慈善の集まりに回した、身の丈に合わない、ただの覚え書きのようなものだったけれど。
あの紙を、十年、読んでいた、人が、いた。
私のまったく知らないところで、ひとり、いた。
赤子が、私の胸のあたりで、ちいさく、ひとつだけ、身じろぎをした。
まだ名のないこの子の額に、私は、唇を寄せた。
頬は、また、乾いていた。
乾いていたけれど、さっきまでの乾き方とは、すこし、ちがっていた。
(……ふしぎね)
ひとりごとのように、胸のなかで、呟いた。
(さっきまで、私、ひとりだったはずなのに)




