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答え合わせをいたしましょうか、旦那様  作者: 九葉(くずは)


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第五話 黒衣の男と、月明かりの論文

赤子の泣き声が、夜を、まるごと満たしていた。


祖母の屋敷が「孤児院」と呼ばれるようになって、二週間と、少し。

ここへ来た子は、いまのところ、七人。

いちばん上のジャンは十歳、いちばん下のあの子は、まだ名前もない。

マーゴットが置いていった、あの赤子だ。





マーゴットがこの家の門を叩いたのは、今日から数えてちょうど、三日ほど前のことだった。


昼下がりの、ひだまりのなかに、彼女は立っていた。

若い娘だった。肩に、薄い肩掛けを一枚、羽織っているだけで、それ以外は、ほとんど身ひとつだった。

肩掛けのなかに、まだ生まれて間もない赤子を、抱いていた。


「奥様」


と、彼女は、そこで言葉を切った。

たぶん、私を何と呼んでよいのか、わからなかったのだろう。

私は、背の高さを合わせるように、少し身を屈めた。


「エレノア、と申します。どうぞ、お入りくださいな」


マーゴットの口は、なにか言いかけて、閉じた。

開きかけて、また、閉じた。

泣こうとして、泣けない顔、というのを、私は自分の顔で、すこしばかり、知っていた。

だから、あまり、驚かなかった。


「お願いします。この子を、お願いします」

声は、か細かった。

「わたくし、この子を、育てられません。ほんとうに、育てたかったのだけれど」


私は、彼女の肩に、そっと手を置いた。

強く握るのは、やめておいた。今の彼女が欲しかったのは、たぶん、重さではなくて、軽い温度のほうだった。


「お預かりいたしましょう」

「……本当に?」

「ええ」


マーゴットは、抱いていた赤子を、ゆっくりと、私のほうへ差し出した。

私は両手で受け取った。

布越しに、まだ首の座らない、ほとんど重みのない重みが、手のひらに伝わった。

それから、ふっと、乳のような、淡い匂いがした。


「このお子の、お名前は」

「まだ」

「さようでございますか」

「わたくしが、あげてしまったら、この子のあとの人生が、わたくしの色に染まってしまう気がして。ですから、まだ。あげていません」


私は、頷いた。

それから、こう申し上げた。


「では、いずれ。この子自身が、ふさわしい名前を選ぶ日まで、お預かりしますね」


マーゴットは、そこで初めて、ぽろ、と、涙をひとつだけ、こぼした。

たったの、それだけだった。

たぶん、あとで、ひとりになってから、ゆっくり、泣くのだろう。

(そういう、泣きかたをする女の人を、私は、知っている)


彼女は、深く、深く、頭を下げて、それから、ふりむかずに、門の外へ出ていった。

門の外では、春の風が、まだ少し冷たく、彼女の肩掛けの裾を、ぱたぱたと揺らしていた。





その赤子が、今夜、寝つかないのだった。


最初の七人のなかで、ただひとりの、名前のないお子。

ほかの子たちは、ジャンがうまく面倒を見てくれていた。

ジャンはこの家に来たときから、もうすっかり「兄貴分」として腹をくくっているらしい子で、幼い子らをひと部屋に集めて、自分の布団の端っこにリリという小さな女の子を寄りかからせて、低い声で何か話をしてやっているふうだった。


あの年齢の子が、自分で自分の役を引き受けるのを見るのは、胸にこたえるものだ。

私は、廊下で一度、足を止めた。

止めたものの、今夜の私は、ジャンの側にいてやる余裕がない。

腕のなかで、名前のない赤子が、さっきから、泣きやまないのだった。





奥の小部屋の、ろうそくを、ひとつだけ灯した。


寝台も、揺り籠も、まだ、まともに揃っていない。

私は、毛布を折り畳んだだけの仮の寝床に、赤子を抱いたまま、腰を下ろした。

抱きなおして、ゆっくり、ゆっくり、上下に揺らす。


「……泣いて、泣いて、よろしいんですよ」

思わず、声がもれた。

「あなたは、今はまだ、それがお仕事ですから」


赤子は、聞いていたのか、聞いていなかったのか、やがて、ふっと、泣き声を弱めた。

弱めて、そのまま、私の胸のあたりに、ぴたりと額を押し付けて、眠ろうとしている。

小さな熱が、布越しに、じわじわと私のほうへ移ってくる。


子どもの熱というのは、こんなに、どこまでも、じかに伝わってくるものだったか。


リオンを育てていたときの、いくつかの夜の記憶が、ふいに、頭のなかに戻ってきた。

初めての夜泣き。初めての熱。初めて「おかあさま」と呼ばれた朝。

いくつもの「初めて」を、私はずっと、自分のものだと信じていた。


信じて、いたのだ。

ちゃんと、信じて、いた。


いたのに。


胸のなかで、その「信じていた」ということばが、ふっと、二度、鳴った。

三度目は、鳴らなかった。

鳴らしてしまうと、たぶん、こわれてしまうと、自分のどこかが、知っていた。





赤子の寝息が、やっと、規則正しくなった。


私は、肩の力を抜いた。

そうしたら、力を抜いた、その場所から、先に、何かが溢れてきた。


頬に、なまあたたかいものが、つうっと、流れた。


(……あれ)


もう片方の頬にも、ひとすじ。

首筋に落ちて、襟のあたりで止まった。

止まった、と思ったら、次がまた、ひとすじ。


私は、自分の頬を、指で押さえた。

濡れていた。

たしかに、濡れていた。


上手に、泣けない女だと、思っていた。

商家の娘は、店先で泣かないものだと、父に言われて育った。

夫に、十二年、ずっと、泣きどころを見せずに暮らしてきた。

昨日までの私は、たしかに、そういう女であった。


それなのに、今。

この、名前のない、知らないお母さんが置いていった、赤子の熱の前で。

私は、ようやく、泣いていた。


ひくりと、肩が震えた。

震えを押さえようとして、赤子の頭を、そうっと揺らしなおす。

この子を、起こしてはいけない。それだけは、絶対に、起こしてはいけない。

だから、声は、出さない。

肩だけで、そうっと、泣いた。

商家の娘の、最後の意地のようなものだった。


(ごめんね、リオン)

胸のなかで、声にならない声で、ひとり、呟いた。

(あなたを愛したことは、本当だったの。本当に、本当に、本当だったの)


ろうそくの炎が、ぱち、とひとつだけ、爆ぜた。





どれくらい、そうしていただろう。


戸口のほうで、かすかな衣擦れの音がした気がして、私は、顔を上げた。


扉は、閉めていなかった。

細く開いた戸口の向こう、廊下の月明かりの差しこむあたりに、黒い影が、ひとつ、立っていた。


首筋の産毛が、ざわりと、起き上がった。


黒い、というのは、布の色のことだ。

踵までまっすぐに落ちる、長い外套。

飾り気のない、硬い黒。その黒が、廊下の、青白い月の光を、まっすぐに受けて、静かに立っていた。


男の人だった。

背が、高い。

月の光を背にしているから、顔の細かいところまでは、よく見えない。

見えないのに、こちらを見ている目の、芯の位置だけが、妙にはっきりと、分かった。


「……どなた、さまでいらっしゃいますか」


私は、赤子を抱えたまま、できるだけ、低く、穏やかな声を出した。

起こしたくなかったし、怖がらせたくもなかったし、それから、自分の声が泣いたあとだということを、相手に知られたくも、なかった。


男の人は、ゆっくりと、外套の胸のあたりに、手をやった。


「夜分に、失礼いたします」


硬い声だった。

冷たい声、ではなく、硬い声、という言い方が、いちばん近かった。

刃物のようではない。研ぎ澄まされた金属ではなくて、むしろ、年を経た石の角のような、そういう硬さだった。


「届出の写しで、こちらの場所を存じ上げておりました。匿名の支援者の一人、ということで、今夜は伺わせていただきました」

「支援者さまで、いらっしゃいますか」

「はい」


男の人は、そう答えてから、ほんのわずかに、目を伏せた。


それから、胸元から、薄い、紙の束を、取り出した。


「もうひとつ、申し上げておかなければならないことが、ございます」

「なんでございましょう」

「私は、あなたの、論文の、読者です」


月の光が、差していた。

男の人の手のなかの紙束を、ちょうど、斜めに、切り分けるように差していた。

紙の端が、いやに白く、浮き上がって見えた。


紙の端は、擦り切れていた。

たくさん、擦り切れていた。

一度や二度、めくっただけのめくり跡ではなかった。


「十年、ほど、前から」

男の人は、それ以上、言葉を足さなかった。


私は、赤子を抱えたまま、その紙束を、ただ、見ていた。

受け取る手は、差し出せなかった。

腕のなかに、眠ったばかりのこの子がいたから。

いや、それはたぶん、半分は、言い訳だった。

本当は、動けなかったのだ。


さっきまで泣いていた頬のことを、私は、すっかり忘れていた。

忘れたまま、ただ、その紙の擦り切れた端だけを、見ていた。


男の人が、ゆっくりと、頭を下げた。


「今宵は、お邪魔をいたしました」

「あ、あの、お名前は」

「セヴェリン、と申します」


それだけを、残して、黒い外套の影は、月明かりの廊下のほうへ、静かに、退いていった。

足音は、ほとんど立たなかった。

月明かりの切れめのあたりで、ふっと、影そのものが、消えた。


小部屋には、私と、赤子と、ろうそくの明かりと、さっきまで私が泣いていたぶんの、湿った空気だけが、残った。


……十年前。


私は、その言葉だけを、自分の頭の中で、静かに、もう一度、置き直した。


十年前の私が、なにかの論文を書いていた、そんな覚えは、たしかに、あった。

慈善の集まりに回した、身の丈に合わない、ただの覚え書きのようなものだったけれど。


あの紙を、十年、読んでいた、人が、いた。

私のまったく知らないところで、ひとり、いた。


赤子が、私の胸のあたりで、ちいさく、ひとつだけ、身じろぎをした。

まだ名のないこの子の額に、私は、唇を寄せた。


頬は、また、乾いていた。

乾いていたけれど、さっきまでの乾き方とは、すこし、ちがっていた。


(……ふしぎね)


ひとりごとのように、胸のなかで、呟いた。


(さっきまで、私、ひとりだったはずなのに)

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