第四話 祖母の屋敷の地下に眠っていたもの
祖母の屋敷の地下には、私の知らない祖母がいた。
引っ越してから、ちょうど七日めの午後のことだった。
階下の物置部屋を、私はずっとひとりで片付けていた。
窓からは枯葉の匂いと、まだ冬の名残のある冷たい風が、ときどき入ってきた。
誰も叱らない。誰にも頼まれていない。それでも私は、その日も、自分のために、雑巾を絞っていた。
掃くものがあるというのは、思っていたよりも、ずっと、人を生かしてくれるものなのだ。
朝起きて、湯を沸かして、雑巾を絞って、ひと部屋ずつ片付ける。それだけで、午前が終わる。それだけで、もう、午後になっている。
何も考えなくて、よかった。
たぶん、考えはじめたら、いまの私は、すこし、こわれてしまうから。
物置部屋の、いちばん奥の壁に、不自然な板張りがあった。
ほかの壁の板の幅と、ほんのわずかにだけ、違っていた。
気づいたのは、雑巾を絞り終えて、立ち上がってひと息ついた、その何気ない瞬間だった。
(商家の娘の癖というのは、こういうところに出る。父の店でも、棚板の幅が違うところには、たいてい、何かが隠してあった)
板を外すと、奥から、もう一段下へと続く、狭い木の階段が顔をのぞかせた。
ろうそくを片手に、私は、ぎいぎいと鳴く段を、ゆっくり下りていった。
半地下というには浅く、地下というには深い、ふしぎな造りの書庫だった。
壁はぐるりと棚で囲まれていて、革表紙の帳面と、紐で束ねられた書類の山が、所狭しと並んでいる。
長年ぶんの埃が、ろうそくの灯りのまわりで、ふんわりと舞った。
くしゃみが出そうになったので、袖口で口を押さえた。
(こういうとき、貴族の奥方の作法というのは、何ひとつ役に立たない)
棚のいちばん端から、帳面を一冊、抜き取ってみた。
革表紙は乾ききって、ところどころ剥がれかけている。
表紙には、女文字で、こう書かれていた。
『あずかりこども帳』
……あずかり、こども、帳。
私は、その文字を、声には出さずに、ゆっくりと、頭のなかで繰り返した。
ページをめくった。
名前。年齢。預けられた日。引き取られていった日。引き取った先の家の名前。
そして、ひとりひとりについての、簡単な覚え書き。
『マリアン 六つ 果物のジャムが好き 歌が上手』
『トマス 四つ 大きな犬を怖がらない 数を覚えるのが早い』
『リリ ねんねこ 夜泣きはあまりない よく笑う子』
子どもたちだ。
たくさんの、たくさんの、子どもたちの、名前と、好きなものと、手のかかるところと、そうでないところが、ぜんぶ、書いてある。
ページをめくる指が、止まらなくなっていた。
こんなに、何かに引き寄せられる手が、まだ自分のなかにあったことに、自分でちょっと、おどろいた。
帳面の最後のほうに、ちがう紙が一枚、はさまっていた。
今度は、見覚えのある筆跡だった。
古い手紙でしか見たことがなかったけれど、たしかに、忘れたことのない、祖母の字。
『この子らを、あずかれてよかった。
私は子をなさぬまま終わる身の上であるけれど、それでも、母と呼んでもらえた日々があった。
血のつながりだけが母ではない、ということを、この子らが、私に教えてくれた。
もしも、これを、私のあとに読む者があるならば。
ためらわなくてよい。
あなたの胸に「やってみたい」という小さな灯りがあるならば、それは、たぶん、本当のものです』
私は、その紙を、両手で持っていた。
ろうそくの炎が、ゆらゆら、紙の上で揺れていた。
頬は、相変わらず、乾いたままだった。
それでも、胸の奥のほうで、ぽつ、と、何かが小さく、灯った気がした。
子をなさなかった、祖母。
私の血筋には、子を持たない母が、いたのだ。
その事実が、私のなかで、するすると、ほどけていくのを感じた。
私だけじゃ、なかったのだ。
ずっと前から、この家には、私と似た女がいた。
◇
マダム・コルベールが訪ねてきたのは、その翌日の朝のことだった。
「あなたがこちらに越してこられたって、市場で耳にしたものだから」
杖をつきながら、彼女は丁寧に頭を下げた。
お年は、たしか八十におなりだったはずだ。
白い髪をきれいに結い上げて、薄紅色のショールをきっちりと羽織っていらっしゃる。御者を立てず、ご自分の足で、ここまでいらしたのだという。
「あなたのお祖母さまには、若い時分、たいへんお世話になったの。お茶を一杯、ご一緒できないかしら」
私は、客間にお通しして、お茶を淹れた。
ふだん客のない家だから、戸棚から出した茶器が、最初の一杯目だけは、すこしよそよそしい音を立てた。
マダム・コルベールは、ひとくち、お茶を含んでから、目を細めた。
「お祖母さまの淹れ方と、よく似ていらっしゃるのね」
「……まあ。お祖母さまの淹れ方を、私は存じ上げないのです」
「血というのは、ふしぎなものね」
それから、私は思い切って、地下で見つけたものの話をした。
あずかりこども帳のこと。並んでいた子どもたちの名前のこと。最後にはさまっていた、祖母の手紙のこと。
マダム・コルベールは、しばらく、なにも言わずに聞いていた。
聞き終えてから、お茶のカップを、両手で包むようにして持ち直した。
「あの方はね、ずいぶん長いこと、ためらっていらしたのよ」
「ためらう、というのは」
「ご自分が子を産めなかったことを、引け目に思っていらしてね。なかなか、踏み切れなかったの。でも、あるとき、こうおっしゃったのよ。私に母にならない理由はあっても、この子らに母を持たない理由はどこにもない、と」
私は、お茶に手を伸ばすのを、忘れていた。
「お祖母さまは、いつまで続けていらしたのですか」
「お亡くなりになる、ぎりぎりまで」
「……あの帳面に書かれていた数、よりも、もっと」
「数えたこと、ないわ。あの方も、最後まで、数えなかったから」
マダム・コルベールは、しわの寄った手で、自分の膝を、ゆっくりと撫でた。
古いビロードの手袋を撫でているような、優しい、撫でかただった。
「ねえ、エレノアさま。もし、もしね。あなたが、ご自分でも、やってみたいと思っていらっしゃるなら。私、お手伝いいたしますよ。お年寄りの覚えていることなんて、たいしたものではないけれど、いくつかくらいは、役に立つから」
私は、すぐには答えられなかった。
答えがないのではなく、答えがすでに、自分の胸の奥に、灯っていることに、気づいてしまったから。
「マダム」
「はい」
「私、やってみても、よろしいでしょうか」
マダム・コルベールは、しわのなかに、たっぷりと、笑みを浮かべた。
「ためらわなくていい、と、お祖母さまも、おっしゃっていたでしょうに」
◇
その日の夕暮れ、私は、自分の文具を引き寄せて、新しい帳面を一冊、開いた。
表紙には、まだ何も書かなかった。
ただ、最初の一行に、こう書いた。
『この家を、もう一度、あけることにします』
書いてしまうと、それは、たぶん、もう、本当のことになってしまう。
本当のことに、してしまう。
それが、すこしだけ、こわかった。
それでも、消す気には、ならなかった。
窓の外では、夕暮れがゆっくりと色を変えていた。
空は、ふしぎなくらい、淡い橙色だった。
祖母も、たぶん、こういう空を、この同じ窓から、見ていたのだろう。
(ひとりじゃない、と、ふと、思った。
本当はひとりなのに、ひとりじゃない、と、思った。
そういう瞬間が、人生には、たまに、あるらしい)
◇ ◇ ◇
「閣下。北方の関税案件と、王都郊外の慈善事業に関する報告です」
私は書類の山に手を伸ばしかけて、その動きを止めた。
慈善事業。本来であれば、宰相が直接目を通すような種類の案件ではない。
「なぜ、それがこちらに上がってきている」
「教会の管轄外で運営される予定の孤児院でございまして。届出が、直接、王宮にまで届いてまいりました」
「届出を出した者は」
「ロスフィールド領出身の、元伯爵夫人、と記録されております」
私の指先は、書類の上で、ぴたり、と止まっていた。
「……名前は」
「エレノア・ロスフィールド、と」
私は、ペンを置いた。
それから、しばらくの間、ただ、自分の手元の書類を見つめていた。
インクは、乾きかけていた。
窓の外、王宮の庭の松の枝が、夕風に揺れている音だけが、聞こえていた。
「下がってよい」
「は」
部下の足音が、扉の向こうに消えるのを、私は耳で確かめた。
それから、机の右の、いちばん下の引き出しを引いた。
奥のほうに、薄い革紐で綴じた、簡素な紙束が、しまわれていた。
表紙には、何も書かれていない。
私自身が、表紙を書かないことに決めたからだ。
中身は、ある領地経営に関する、たかだか個人の覚え書きにすぎぬ、論文。
私は、それを、もうずいぶん長いあいだ、その場所に置いている。
ページの端は、めくり続ける指の癖のために、紙の白いところまで、擦り切れていた。
「……あの論文の、彼女か」
声に出してから、私は、その自分の声が、思いのほか、しずかに響いたことに、わずかに、おどろいた。




