第三話 屋敷を出ます
学院入学式の朝の屋敷は、いつにもまして、しんとしていた。
ふだんなら、もっと、お祭り騒ぎになるはずの朝だった。
お仕着せの肩を直したり、リオンの靴をもう一度磨いたり、うっかり髪を結い直したり、誰かが誰かに必ず小言を言ったり。
本来なら、その小言の中心にいたのは、私のはずなのだ。
けれど今朝は、廊下に誰の足音もしなかった。
絨毯がやけに分厚く感じられた。
ふだんあれだけ忙しく働いている使用人たちが、まるで影絵のように、私のいない場所を選んで動いている。
悪いことをしているのは、私のほうではないはずなのに。
こういう静けさは、いつも、出ていく側のために用意されるものだ。
それが分かるくらいには、私もいつのまにか、貴族の家に長くおりました、ということなのだろう。
◇
書斎には、夫と、弁護士と、私の代理人が揃っていた。
机の上に、紙の束。離縁というのは、思っていたよりも、ずっと、紙の仕事だ。
署名する場所に、いちいち細い印がつけられている。私はそこへ、淡々と羽根ペンを走らせていった。
夫は、初日からずっと、何か言いたげな顔で私を見ている。
初日は怒鳴った。二日目は黙り込んだ。今日は、もう一段下がって、泣きそうな顔をしている。
「考え直してくれないか、エレノア」
ようやく三枚目に署名し終わったところで、夫はとうとう、その台詞を口にした。
「君がいないと、家が」
「家、ねえ」
私は、羽根ペンを置いた。
自分でも知らないうちに、ふっと、笑っていた。
「家のこと、ねえ。こんなときまで、家のことを言うんだね、あなたって人は」
夫の顔が、固まった。
弁護士が、空咳をひとつしてみせた。私の代理人は、机の下でかすかに頷いていた。
商家の娘の口が、出た。
お行儀のいい奥方の言葉ではなく、店先で値段の交渉に立ったときに出る、私の本当のほうの声だ。
父に、よく叱られたものだ。
「店先でその顔をするんじゃない、エレノア。値切られるよ」と。
ほんに、こんなときに役に立つとは、思ってもみなかった。
「失礼いたしました」
私はすぐに、いつもの調子に戻した。
「では、最後にひとつ、申し上げたいことがございます」
「……なんだ」
「違約金は、結構でございます。一切」
弁護士の羽根ペンが、宙で止まった。
「エ、エレノア奥様、それは、ご相応の慰謝が、制度上、認められておりまして」
「存じております。けれども、辞退いたします」
「な、なぜ……」
私は、その問いに、いちばん簡単な答えをお返しした。
「私は、あなたから、何ひとつ、欲しくありませんので」
書斎の空気が、すっと薄くなったように感じた。
夫が、ゆっくりと顔を伏せた。
それは、怒りでも、悲しみでもない、ただ、自分の手のなかから今、何かが永遠に出ていった、というふうの、伏せかたであった。
◇
屋敷から持ち出すものは、思いのほか、少なかった。
母から相続した祖母の屋敷の鍵。手紙を書くための文具。普段使いの服が二、三着。
それと、地下書庫に積んであった、革表紙の家計簿たち。
育児のことを書き留めた帳面のほうは、もう、ヴィオラ様にお渡ししてしまった。
衣装部屋の扉を開けて、ずらりと並んだドレスの群れを、私は最後にひと撫でしてから、扉を閉めた。
あれは伯爵夫人の制服のようなものだ。私にはもう、いらない。
持っていったところで、洗うのも畳むのも、誰がするというのだろう。私ひとりであの量を相手にできるとは、どう考えても思えない。
(……我ながら、こういうときに現実的なのよね、私)
自分のことが、少しだけ、可笑しかった。
玄関広間に下りると、馬車がもう、待っていた。
私を見送るために集まった使用人は、ほんの、わずかだった。
古株の侍女頭のマーサも、目を伏せたまま、私を見ようとしなかった。
ああ、この人もか。
たぶん、この人は、長い年月のあいだに、いろいろなことを知っていたのだろう。
責める気力は、もう、ない。今日は、ほかにやることがある。
外套の襟を立てて、私は玄関の石段を降りた。
御者が馬車の扉を開けてくれた、その瞬間だった。
「お母様!」
私は、ふりむいた。
リオンが、屋敷の正面玄関から、転がるように駆け下りてきた。
入学式のための、真新しい礼服のままだった。襟元のリボンが、走った勢いで斜めにほどけかけている。
「お母様、待って、待って」
リオンは、私の前まで来て、外套の裾を、両手でぎゅっと掴んだ。
ぎゅっと、本当に、子どもの精一杯の力で、というふうに、掴んだ。
「お母様、僕、僕、お母様のとこに、お母様のとこに行きたい」
私は、その場に膝をついた。
石段の冷たさが、ドレスの薄い布越しに、膝にじんわりと染みた。
「リオン」
「本当のお母様じゃなくたって、それでもいい。それでもいいから、僕」
「リオン、聞いてちょうだい」
私は、リオンの両頬を、両手でそっと包んだ。
少し前まで、この頬が熱で赤くなれば、私は夜どおし氷を取り替えていた。
今日この子の頬を、私の手で包むのは、たぶん、しばらく、最後だ。
「あなたには、本当のお母様が、いらっしゃるの。あなたを、お腹で育ててくださった方が」
「でも」
「でもね、リオン」
私は、できるだけ、いつもの声で、続けた。
「もし、いつか、あなたが、自分で選びたい、と思った日が来たら。お母様の家のドアは、いつでも、開けてあります。鍵もかけません」
「……いつでも?」
「いつでも、何度でも」
リオンは、こくり、と頷いた。
頷きながら、ぼろぼろと、まだ涙をこぼしていた。
ああ、この子は、私の代わりに、こんなに泣いてくれている。
こんなにも、温かい涙を。
私の頬は、相変わらず、乾いたままだった。
それでも、なぜだろう。
昨夜のように、ひとりぼっちのような感じはしなかった。
私は、リオンの額に、唇を触れさせた。
今朝の、湯あがりではないリオンは、男の子の匂いがした。十年あまり一緒にいて、初めて気づいた匂いだった。
「いってらっしゃい、リオン。お式、ちゃんとね」
「……いってきます」
◇
馬車の扉が閉まった。
私は窓から外を見なかった。
振り返るのが正しいのか、正しくないのか、考えても答えが出なかったので、最初から考えないことにした。
代わりに、膝の上に置いた、祖母の屋敷の鍵を、両手でそっと握った。
古い、銅のような重みのある、鍵だった。
馬車は、車輪の音を立てて走り出した。
石畳の上で、馬の蹄の音が、規則正しい四拍子を刻んでいる。
窓の外を流れていく王都の朝の景色のことは、たぶん、私はあとで思い出そうとしても、ろくに思い出せないだろう。
そういうものだ。
人生で本当に大事な朝というのは、案外、覚えていない。
◇
馬車が、王都の郊外で止まった。
蔦の絡んだ門。葉を落としかけた庭木。雨樋の端から、まだ朝のしずくが、ぽつ、ぽつ、と落ちていた。
祖母が晩年を過ごしたという、小さな屋敷だ。
母が亡くなる前に、私に遺してくれた家。
誰の手も入っていない、空っぽの家。
誰の声も、誰の足音も、まだ、ない家。
私は、玄関の前に立った。
鍵穴は、少し錆びていた。
挿しても、最初は奥までかみ合わない。
一度、二度、私は鍵を抜いては、また挿し直した。
三度目で、ようやく、奥のほうで何かが応えた。
回した。
かちり。
古い金物の、低い、はっきりとした音が、朝の空気のなかに落ちた。
私は、その音を、しばらく、ただ聞いていた。
誰かに語って聞かせても、しかたのない音だった。
それでも私には、長いこと閉ざされていたものが、もう一度、ゆっくりと動き出した、という、そういう音に、聞こえた。




