表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
答え合わせをいたしましょうか、旦那様  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/10

第三話 屋敷を出ます

学院入学式の朝の屋敷は、いつにもまして、しんとしていた。


ふだんなら、もっと、お祭り騒ぎになるはずの朝だった。

お仕着せの肩を直したり、リオンの靴をもう一度磨いたり、うっかり髪を結い直したり、誰かが誰かに必ず小言を言ったり。

本来なら、その小言の中心にいたのは、私のはずなのだ。


けれど今朝は、廊下に誰の足音もしなかった。

絨毯がやけに分厚く感じられた。

ふだんあれだけ忙しく働いている使用人たちが、まるで影絵のように、私のいない場所を選んで動いている。


悪いことをしているのは、私のほうではないはずなのに。

こういう静けさは、いつも、出ていく側のために用意されるものだ。

それが分かるくらいには、私もいつのまにか、貴族の家に長くおりました、ということなのだろう。





書斎には、夫と、弁護士と、私の代理人が揃っていた。


机の上に、紙の束。離縁というのは、思っていたよりも、ずっと、紙の仕事だ。

署名する場所に、いちいち細い印がつけられている。私はそこへ、淡々と羽根ペンを走らせていった。


夫は、初日からずっと、何か言いたげな顔で私を見ている。

初日は怒鳴った。二日目は黙り込んだ。今日は、もう一段下がって、泣きそうな顔をしている。


「考え直してくれないか、エレノア」


ようやく三枚目に署名し終わったところで、夫はとうとう、その台詞を口にした。


「君がいないと、家が」


「家、ねえ」


私は、羽根ペンを置いた。

自分でも知らないうちに、ふっと、笑っていた。


「家のこと、ねえ。こんなときまで、家のことを言うんだね、あなたって人は」


夫の顔が、固まった。

弁護士が、空咳をひとつしてみせた。私の代理人は、机の下でかすかに頷いていた。


商家の娘の口が、出た。

お行儀のいい奥方の言葉ではなく、店先で値段の交渉に立ったときに出る、私の本当のほうの声だ。

父に、よく叱られたものだ。

「店先でその顔をするんじゃない、エレノア。値切られるよ」と。

ほんに、こんなときに役に立つとは、思ってもみなかった。


「失礼いたしました」

私はすぐに、いつもの調子に戻した。

「では、最後にひとつ、申し上げたいことがございます」

「……なんだ」

「違約金は、結構でございます。一切」


弁護士の羽根ペンが、宙で止まった。


「エ、エレノア奥様、それは、ご相応の慰謝が、制度上、認められておりまして」

「存じております。けれども、辞退いたします」

「な、なぜ……」


私は、その問いに、いちばん簡単な答えをお返しした。


「私は、あなたから、何ひとつ、欲しくありませんので」


書斎の空気が、すっと薄くなったように感じた。

夫が、ゆっくりと顔を伏せた。

それは、怒りでも、悲しみでもない、ただ、自分の手のなかから今、何かが永遠に出ていった、というふうの、伏せかたであった。





屋敷から持ち出すものは、思いのほか、少なかった。


母から相続した祖母の屋敷の鍵。手紙を書くための文具。普段使いの服が二、三着。

それと、地下書庫に積んであった、革表紙の家計簿たち。

育児のことを書き留めた帳面のほうは、もう、ヴィオラ様にお渡ししてしまった。


衣装部屋の扉を開けて、ずらりと並んだドレスの群れを、私は最後にひと撫でしてから、扉を閉めた。

あれは伯爵夫人の制服のようなものだ。私にはもう、いらない。

持っていったところで、洗うのも畳むのも、誰がするというのだろう。私ひとりであの量を相手にできるとは、どう考えても思えない。

(……我ながら、こういうときに現実的なのよね、私)

自分のことが、少しだけ、可笑しかった。


玄関広間に下りると、馬車がもう、待っていた。


私を見送るために集まった使用人は、ほんの、わずかだった。

古株の侍女頭のマーサも、目を伏せたまま、私を見ようとしなかった。

ああ、この人もか。

たぶん、この人は、長い年月のあいだに、いろいろなことを知っていたのだろう。

責める気力は、もう、ない。今日は、ほかにやることがある。


外套の襟を立てて、私は玄関の石段を降りた。

御者が馬車の扉を開けてくれた、その瞬間だった。


「お母様!」


私は、ふりむいた。


リオンが、屋敷の正面玄関から、転がるように駆け下りてきた。

入学式のための、真新しい礼服のままだった。襟元のリボンが、走った勢いで斜めにほどけかけている。


「お母様、待って、待って」


リオンは、私の前まで来て、外套の裾を、両手でぎゅっと掴んだ。

ぎゅっと、本当に、子どもの精一杯の力で、というふうに、掴んだ。


「お母様、僕、僕、お母様のとこに、お母様のとこに行きたい」


私は、その場に膝をついた。

石段の冷たさが、ドレスの薄い布越しに、膝にじんわりと染みた。


「リオン」

「本当のお母様じゃなくたって、それでもいい。それでもいいから、僕」

「リオン、聞いてちょうだい」


私は、リオンの両頬を、両手でそっと包んだ。


少し前まで、この頬が熱で赤くなれば、私は夜どおし氷を取り替えていた。

今日この子の頬を、私の手で包むのは、たぶん、しばらく、最後だ。


「あなたには、本当のお母様が、いらっしゃるの。あなたを、お腹で育ててくださった方が」

「でも」

「でもね、リオン」


私は、できるだけ、いつもの声で、続けた。


「もし、いつか、あなたが、自分で選びたい、と思った日が来たら。お母様の家のドアは、いつでも、開けてあります。鍵もかけません」

「……いつでも?」

「いつでも、何度でも」


リオンは、こくり、と頷いた。

頷きながら、ぼろぼろと、まだ涙をこぼしていた。


ああ、この子は、私の代わりに、こんなに泣いてくれている。

こんなにも、温かい涙を。


私の頬は、相変わらず、乾いたままだった。

それでも、なぜだろう。

昨夜のように、ひとりぼっちのような感じはしなかった。


私は、リオンの額に、唇を触れさせた。

今朝の、湯あがりではないリオンは、男の子の匂いがした。十年あまり一緒にいて、初めて気づいた匂いだった。


「いってらっしゃい、リオン。お式、ちゃんとね」

「……いってきます」





馬車の扉が閉まった。


私は窓から外を見なかった。

振り返るのが正しいのか、正しくないのか、考えても答えが出なかったので、最初から考えないことにした。

代わりに、膝の上に置いた、祖母の屋敷の鍵を、両手でそっと握った。

古い、銅のような重みのある、鍵だった。


馬車は、車輪の音を立てて走り出した。

石畳の上で、馬の蹄の音が、規則正しい四拍子を刻んでいる。

窓の外を流れていく王都の朝の景色のことは、たぶん、私はあとで思い出そうとしても、ろくに思い出せないだろう。


そういうものだ。

人生で本当に大事な朝というのは、案外、覚えていない。





馬車が、王都の郊外で止まった。


蔦の絡んだ門。葉を落としかけた庭木。雨樋の端から、まだ朝のしずくが、ぽつ、ぽつ、と落ちていた。

祖母が晩年を過ごしたという、小さな屋敷だ。

母が亡くなる前に、私に遺してくれた家。

誰の手も入っていない、空っぽの家。

誰の声も、誰の足音も、まだ、ない家。


私は、玄関の前に立った。


鍵穴は、少し錆びていた。

挿しても、最初は奥までかみ合わない。

一度、二度、私は鍵を抜いては、また挿し直した。

三度目で、ようやく、奥のほうで何かが応えた。


回した。


かちり。


古い金物の、低い、はっきりとした音が、朝の空気のなかに落ちた。


私は、その音を、しばらく、ただ聞いていた。

誰かに語って聞かせても、しかたのない音だった。

それでも私には、長いこと閉ざされていたものが、もう一度、ゆっくりと動き出した、という、そういう音に、聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ