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答え合わせをいたしましょうか、旦那様  作者: 九葉(くずは)


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2/10

第二話 育児ノートを、本当のお母様へ

親友、という言葉を私が使うのは、これが最後だろう。


朝の机に、便箋を一枚。羽根ペンを取って、私はいつもの書き出しを書いた。


「ヴィオラ様 いつもお元気でいらっしゃいますか」


そこで一度、手が止まる。

こんな書き出しを、私はもう何度書いてきただろう。


いつもお元気で、とは、よく言ったものだ。

あの人は、ずっと、私の知らないところで、お元気でいらしたわけだから。


「明日、午後にでもお茶をご一緒できませんか。お話ししたいことがございます」

便箋にはそれだけを書き添えて、封をした。

封蝋の赤が、いつもより少し濃く見えた気がする。

たぶん、気のせいだろう。

赤は、赤だ。私の都合で色は変わらない。





翌日の午後、ヴィオラは思っていたよりずいぶん早くやって来た。

玄関の鈴が鳴って、私が出迎えるよりも先に、もう廊下のほうで彼女の足音が響いていた。


「エレノア、ごめんなさいね、お手紙が気になって早めに出てきちゃったの」


頬の赤いのは、馬車を急がせたせいだろう。

深い緑のドレスの裾には、王都の春の埃がうっすらとついていた。普段なら玄関先で必ず払うのに、今日はそのままだ。それくらい急いで来てくれた、ということでもあった。


「なあに、改まったお話って? まさか、また子爵家のお茶会に引っ張り出されるのは嫌よ、って相談じゃないでしょうね?」


ヴィオラはいつもの少し首をかしげる仕草で、笑った。

その仕草の角度を、私はいったい何度、可愛らしいと思ってきたのだろう。


「いいえ。今日は、お渡ししたいものがあって」


私は応接間ではなく、自分の小さな書き物部屋へ、彼女を案内した。

窓辺の机の上には、すでに、布張りの帳面が積んである。

革装ではない、ありふれた、温かみのある帳面だ。

リオンの寝顔を眺めて帰ったあとに、台所のお湯の音を聞きながら、ぽつぽつ書き溜めたものたち。


ヴィオラの足が、戸口で止まった。


「これ……」

「リオンの育ちの記録です」


私は穏やかに微笑んだ。


「ご存知でしょう? あなたが、お見舞いのお手紙を書くときに、ときどき参考にしてくださっていたものです」


ヴィオラの肩が、ぴくりと跳ねた。


「な、なんのこと、エレノア。私、そんな」

「ノートの折り目です」


私は積み上げたうちの一冊を手に取って、なんでもないふうに、ぱらりとめくってみせた。


「私は、几帳面なたちなんです。商家の娘ですから、紙の癖がつくのを嫌うんですよ。読み終えたあとは、いつも同じ角度で閉じる。父の店で、長く、そう躾けられました」


ヴィオラの唇が、ほんの少し動いた。何か言おうとしたのか、ただ震えただけなのか、私には分からなかった。


「でも、ときどき、折り目の角度が、ほんのわずかにずれている朝がございました。月に一度か、二度。決まって、あなたが我が家にお立ち寄りくださった、その翌朝に」


ヴィオラの顔から、ゆっくりと色が抜けていった。

あの蜂蜜色のドレスを着てうちに来ては、リオンを抱き上げて笑っていた人。私の親友。リオンの名付け親。

その人の頬から血の気が引いていく様子を、私は、はじめてこんなに近くから見た。


こういう場面で、ふつうは胸が痛むのだろうか。

私は自分の胸の奥を、こっそりと探ってみた。

何もない。

ぽっかりと、何も。

ただ、夕方になったら何を作ろうか、というような、たわいないことだけが、頭の隅でぐるぐる回っていた。


「リオンが初めて熱を出した日のこと。初めて『お母さま』と呼んでくれた朝のこと。あなたから来た翌月のお手紙のなかに、それと同じ言葉が、半月前に書いた私のノートと、そっくりに並んでおりました」


ヴィオラの唇が震えた。

震えながら、それでも何か言おうとして、けれどうまく形にならなかった。


「責めているのではないんですよ、ヴィオラ様」


私は積み上げた帳面を両手で抱え上げて、彼女の前へ差し出した。


「どうぞ、お持ち帰りくださいませ。これは、本当のお母様が、お読みになるべきものでございますから」


布張りの表紙が、ヴィオラの腕のなかで、ずるりと滑った。

彼女は反射的にそれを抱きとめた。

そして、抱きとめてしまった自分に気づいて、唇を強く噛んだ。


「……エレノア」

「はい」

「ごめんなさい。ごめんなさい、本当に。リオンは、私の、私の子なの、ごめんなさい」


ぽろぽろと、ヴィオラの頬を涙が流れた。

私は懐から手巾を取り出して、机の角にそっと置いた。


「お使いくださいませ」


それから、できるだけやわらかな声で、申し上げた。


「ええ。存じております。ですから、これからは、あなたが育てておあげになってくださいね」


ヴィオラの肩が大きく震えて、それきり、彼女からは言葉らしい言葉が出てこなくなった。

窓の外で、馬車を待たせている御者が、退屈そうに馬の首を撫でているのが見えた。

春の陽射しが、馬の鬣をつやつやと照らしていた。


お天気の良い日だな、と、私は場違いなことを思った。





その夜、私はリオンの寝室の戸を、いつもより少しだけ強く叩いた。


「リオン。お母様、お話があるの。少し、いいかしら」


リオンは寝間着のまま、寝台の上で本を読んでいた。

私の顔を見ると、いつものように頬を輝かせて、隣をぽんぽんと叩いた。


「お母様、いっしょに読も。今日のところね、すっごく面白いんだよ。竜が、ちっちゃい子どもの竜がね」


私は、頷いて、その隣に腰かけた。

リオンの髪はまだ少し湿っていて、湯あがりの石鹸の匂いがした。

私は、その匂いを、たぶん、生涯忘れないだろうと思った。


「リオン。お母様、あなたに、お話ししなければならないことがあるの」

「うん?」

「あなたを、お腹で育ててくれたのは、お母様じゃないのよ」


リオンの本のページをめくる手が、止まった。


「……どういうこと?」

「あなたの、本当のお母様は、ヴィオラ様なの」


寝室が、しんとした。

壁の燭台の火が、ぱちりと小さく爆ぜる音だけが響いた。


「……うそ」

リオンは、小さな声で言った。

「お母様、うそだよ」

「うそじゃないの。ごめんなさいね、リオン」

「いやだ」


リオンが、私の腕にしがみついてきた。

寝間着の薄い布越しに、小さな手の指の力が、肋骨にぎゅっと食い込んできた。


「いやだ、いやだ、お母様、嘘だって言って。お願いだから、嘘だって言って。お母様」


ぽろぽろと、リオンの目から涙がこぼれて、私の腕に落ちた。

温かかった。

ああ、子どもの涙はこんなに温かいのだったか、と、私は十二年めにして、はじめて思い知ったような気がした。


私はリオンの背中に手を回した。

小さな背中だ。年のわりに、まだ、ずっと小さい。


ちがうのだ。

ちがうの、リオン。

お母様の声が出ない。出ないのに、お母様、と呼ばれている。呼ばれるたびに、耳の後ろのあたりが、じんと冷たくなる。冷たくなって、そこから先、うまく、ものが考えられなくなる。

ごめんね、ごめんね、ごめんね、とだけ、胸の奥で繰り返しているのに、口の外へは、何ひとつ、出てこない。

商家の娘は、店先で泣かないものだ。お客様を困らせるからだ。値切られるからだ。こんな理由で泣きかたを教わり損ねた女が、今夜、この子の前で、何の役に立てるというのだろう。


「リオン。ねえ、聞いてちょうだいね。お母様はね、あなたを愛したのは、本当だったの。それだけは、お母様の、本当のことなのよ」


リオンは、しゃくりあげながら、私の肩に顔を埋めた。

その肩のあたりが、じわりと温かく濡れていく。


私は、自分の頬を、そっと指で触ってみた。

乾いていた。

リオンの涙で濡れた肩とは、ちぐはぐなくらいに、乾いていた。


(……ああ、また)


私は、上手に泣けない。

だれか。だれか、私のかわりに、泣いてくれる人が、いてくれたらいいのに。


ふと、そんなことを思って、私は自分でおどろいた。

そんな願いを抱く資格が、自分にあるとは、思ってもいなかったから。


リオンのしゃくりあげが、ふっと止まった。

小さな顔を上げて、潤んだ目で、私を見た。


「お母様」

「なあに、リオン」

「お母様じゃないなら……わたしの、お母様は、だれなの」


寝室の燭台が、もう一度、ぱちりと爆ぜた。

私は、その問いに、まだ答えを持たなかった。

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― 新着の感想 ―
本当の母について真実告知の時に名前出しているのに答えがない、に違和感が… 伏線なのかな…このまま読み進めます
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