第二話 育児ノートを、本当のお母様へ
親友、という言葉を私が使うのは、これが最後だろう。
朝の机に、便箋を一枚。羽根ペンを取って、私はいつもの書き出しを書いた。
「ヴィオラ様 いつもお元気でいらっしゃいますか」
そこで一度、手が止まる。
こんな書き出しを、私はもう何度書いてきただろう。
いつもお元気で、とは、よく言ったものだ。
あの人は、ずっと、私の知らないところで、お元気でいらしたわけだから。
「明日、午後にでもお茶をご一緒できませんか。お話ししたいことがございます」
便箋にはそれだけを書き添えて、封をした。
封蝋の赤が、いつもより少し濃く見えた気がする。
たぶん、気のせいだろう。
赤は、赤だ。私の都合で色は変わらない。
◇
翌日の午後、ヴィオラは思っていたよりずいぶん早くやって来た。
玄関の鈴が鳴って、私が出迎えるよりも先に、もう廊下のほうで彼女の足音が響いていた。
「エレノア、ごめんなさいね、お手紙が気になって早めに出てきちゃったの」
頬の赤いのは、馬車を急がせたせいだろう。
深い緑のドレスの裾には、王都の春の埃がうっすらとついていた。普段なら玄関先で必ず払うのに、今日はそのままだ。それくらい急いで来てくれた、ということでもあった。
「なあに、改まったお話って? まさか、また子爵家のお茶会に引っ張り出されるのは嫌よ、って相談じゃないでしょうね?」
ヴィオラはいつもの少し首をかしげる仕草で、笑った。
その仕草の角度を、私はいったい何度、可愛らしいと思ってきたのだろう。
「いいえ。今日は、お渡ししたいものがあって」
私は応接間ではなく、自分の小さな書き物部屋へ、彼女を案内した。
窓辺の机の上には、すでに、布張りの帳面が積んである。
革装ではない、ありふれた、温かみのある帳面だ。
リオンの寝顔を眺めて帰ったあとに、台所のお湯の音を聞きながら、ぽつぽつ書き溜めたものたち。
ヴィオラの足が、戸口で止まった。
「これ……」
「リオンの育ちの記録です」
私は穏やかに微笑んだ。
「ご存知でしょう? あなたが、お見舞いのお手紙を書くときに、ときどき参考にしてくださっていたものです」
ヴィオラの肩が、ぴくりと跳ねた。
「な、なんのこと、エレノア。私、そんな」
「ノートの折り目です」
私は積み上げたうちの一冊を手に取って、なんでもないふうに、ぱらりとめくってみせた。
「私は、几帳面なたちなんです。商家の娘ですから、紙の癖がつくのを嫌うんですよ。読み終えたあとは、いつも同じ角度で閉じる。父の店で、長く、そう躾けられました」
ヴィオラの唇が、ほんの少し動いた。何か言おうとしたのか、ただ震えただけなのか、私には分からなかった。
「でも、ときどき、折り目の角度が、ほんのわずかにずれている朝がございました。月に一度か、二度。決まって、あなたが我が家にお立ち寄りくださった、その翌朝に」
ヴィオラの顔から、ゆっくりと色が抜けていった。
あの蜂蜜色のドレスを着てうちに来ては、リオンを抱き上げて笑っていた人。私の親友。リオンの名付け親。
その人の頬から血の気が引いていく様子を、私は、はじめてこんなに近くから見た。
こういう場面で、ふつうは胸が痛むのだろうか。
私は自分の胸の奥を、こっそりと探ってみた。
何もない。
ぽっかりと、何も。
ただ、夕方になったら何を作ろうか、というような、たわいないことだけが、頭の隅でぐるぐる回っていた。
「リオンが初めて熱を出した日のこと。初めて『お母さま』と呼んでくれた朝のこと。あなたから来た翌月のお手紙のなかに、それと同じ言葉が、半月前に書いた私のノートと、そっくりに並んでおりました」
ヴィオラの唇が震えた。
震えながら、それでも何か言おうとして、けれどうまく形にならなかった。
「責めているのではないんですよ、ヴィオラ様」
私は積み上げた帳面を両手で抱え上げて、彼女の前へ差し出した。
「どうぞ、お持ち帰りくださいませ。これは、本当のお母様が、お読みになるべきものでございますから」
布張りの表紙が、ヴィオラの腕のなかで、ずるりと滑った。
彼女は反射的にそれを抱きとめた。
そして、抱きとめてしまった自分に気づいて、唇を強く噛んだ。
「……エレノア」
「はい」
「ごめんなさい。ごめんなさい、本当に。リオンは、私の、私の子なの、ごめんなさい」
ぽろぽろと、ヴィオラの頬を涙が流れた。
私は懐から手巾を取り出して、机の角にそっと置いた。
「お使いくださいませ」
それから、できるだけやわらかな声で、申し上げた。
「ええ。存じております。ですから、これからは、あなたが育てておあげになってくださいね」
ヴィオラの肩が大きく震えて、それきり、彼女からは言葉らしい言葉が出てこなくなった。
窓の外で、馬車を待たせている御者が、退屈そうに馬の首を撫でているのが見えた。
春の陽射しが、馬の鬣をつやつやと照らしていた。
お天気の良い日だな、と、私は場違いなことを思った。
◇
その夜、私はリオンの寝室の戸を、いつもより少しだけ強く叩いた。
「リオン。お母様、お話があるの。少し、いいかしら」
リオンは寝間着のまま、寝台の上で本を読んでいた。
私の顔を見ると、いつものように頬を輝かせて、隣をぽんぽんと叩いた。
「お母様、いっしょに読も。今日のところね、すっごく面白いんだよ。竜が、ちっちゃい子どもの竜がね」
私は、頷いて、その隣に腰かけた。
リオンの髪はまだ少し湿っていて、湯あがりの石鹸の匂いがした。
私は、その匂いを、たぶん、生涯忘れないだろうと思った。
「リオン。お母様、あなたに、お話ししなければならないことがあるの」
「うん?」
「あなたを、お腹で育ててくれたのは、お母様じゃないのよ」
リオンの本のページをめくる手が、止まった。
「……どういうこと?」
「あなたの、本当のお母様は、ヴィオラ様なの」
寝室が、しんとした。
壁の燭台の火が、ぱちりと小さく爆ぜる音だけが響いた。
「……うそ」
リオンは、小さな声で言った。
「お母様、うそだよ」
「うそじゃないの。ごめんなさいね、リオン」
「いやだ」
リオンが、私の腕にしがみついてきた。
寝間着の薄い布越しに、小さな手の指の力が、肋骨にぎゅっと食い込んできた。
「いやだ、いやだ、お母様、嘘だって言って。お願いだから、嘘だって言って。お母様」
ぽろぽろと、リオンの目から涙がこぼれて、私の腕に落ちた。
温かかった。
ああ、子どもの涙はこんなに温かいのだったか、と、私は十二年めにして、はじめて思い知ったような気がした。
私はリオンの背中に手を回した。
小さな背中だ。年のわりに、まだ、ずっと小さい。
ちがうのだ。
ちがうの、リオン。
お母様の声が出ない。出ないのに、お母様、と呼ばれている。呼ばれるたびに、耳の後ろのあたりが、じんと冷たくなる。冷たくなって、そこから先、うまく、ものが考えられなくなる。
ごめんね、ごめんね、ごめんね、とだけ、胸の奥で繰り返しているのに、口の外へは、何ひとつ、出てこない。
商家の娘は、店先で泣かないものだ。お客様を困らせるからだ。値切られるからだ。こんな理由で泣きかたを教わり損ねた女が、今夜、この子の前で、何の役に立てるというのだろう。
「リオン。ねえ、聞いてちょうだいね。お母様はね、あなたを愛したのは、本当だったの。それだけは、お母様の、本当のことなのよ」
リオンは、しゃくりあげながら、私の肩に顔を埋めた。
その肩のあたりが、じわりと温かく濡れていく。
私は、自分の頬を、そっと指で触ってみた。
乾いていた。
リオンの涙で濡れた肩とは、ちぐはぐなくらいに、乾いていた。
(……ああ、また)
私は、上手に泣けない。
だれか。だれか、私のかわりに、泣いてくれる人が、いてくれたらいいのに。
ふと、そんなことを思って、私は自分でおどろいた。
そんな願いを抱く資格が、自分にあるとは、思ってもいなかったから。
リオンのしゃくりあげが、ふっと止まった。
小さな顔を上げて、潤んだ目で、私を見た。
「お母様」
「なあに、リオン」
「お母様じゃないなら……わたしの、お母様は、だれなの」
寝室の燭台が、もう一度、ぱちりと爆ぜた。
私は、その問いに、まだ答えを持たなかった。




