第六話 小さな脱走劇
私が生まれてから7カ月ほどが過ぎ去った。
初めて立った日から、再度のチャレンジを行っているのだが、なかなかうまくはいっていない。
しかし、徐々に体の方は成長しているようで、四つん這いに立つ事は出来るようになった。
だが、肉体よりも成長した物がある。それは、言語に関してだ。
ここ4カ月ほどの間、訳も分からずに言語を聞き続けてきた私だったが、ある程度は言葉の種類と意味が分かるようになってきた。
まず、この世界の言語は英語のように、位置によって意味が変わる言葉ではなく、日本語のように接続詞によって意味が変わる言語らしい。
そのおかげで、英語を話せない私でも、ある程度意味を理解できた。
とは言ったものの、言語を完全に理解した、などと言える段階ではない。
私が最初に分かったのは、あくまで『この音の並びは、だいたいこの場面で使われる』という程度だ。
例えば、侍女が私を抱き上げる時。
ある決まった音が、ほぼ必ず添えられる。
意味は恐らく『よいしょ』や『ほら』といった類だろう。
逆に、私がぐずった時には、少し低く、強めの口調で別の音が飛んでくる。こちらは制止や叱責に近い言葉なのだろう。
しかし、文法が何となく分かれば、一つ一つの単語と意味を結び付けられる。
それは、人の名前や物の名前。
そういった名詞が最初に分かり始め、それに続いて動詞に関しても何となくの理解が出来てきた。
本当ならばノートにでも書き留めて学習したい所なのだが、残念ながらそんな事は出来ない。
だが、子供の学習能力は凄まじいようで、スポンジのように情報を取り込んで、留める。
そのおかげで、大まかな言語が分かり始めてきていた。
そして、言語が分かり始めると、侍女たちが言っている事が何となく分かり始める。
まだ難しい単語や初めて聞く単語が多く、歯抜けの情報しか聞き取れないが、それでも十分と言えた。
侍女たちが話していた言葉。それは、私自身に関するものだった。
そのほとんどが、私に対する哀れみの言葉と、疲れた愚痴のような言葉だ。
まだ言葉のニュアンスだけで、正確な意味までは掴みきれていない。
それでも、並べられた時の空気と、声の調子だけで、ろくな内容ではない事は理解できた。……出来てしまったのだ。
だからこそ、現状の私の置かれた立場が、いかに危ういかが分かってしまう。
そして、同時に私の生まれた家が、現在家督争い状態にあるのだと言う事も……分かってしまった。
いや、何となくそんな気はしていたのだ。
だが、言葉が理解できるようになるにつれて、それが現実味を帯びていったのだ。
もしもオスマン帝国のように、兄弟を全て殺す国家に生まれていた場合、私が大人になる前に殺されかねない。
それだけは、御免だ。
もはや、赤子だからと、呑気に構えている暇は無いだろう。一刻も早く情報を集めなければならない。
それが、転生者だと怪しまれる行為だとしても、命に代えられるものでは無い。
そして、情報を集めるためには、主導的に動かなければならないのだが……その体がないと言うジレンマ。
結局は、時間でしか解決できない問題。
だからと言って無駄に時間を過ごすようなことはしない。
だからこそ、私は今日も今日とて両手と両足をばたつかせて体を鍛えつつ、魔力の操作を試行錯誤するのだ。
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生まれてから8カ月ほどが経った。
ついに私の体はハイハイ歩きが出来る程の筋肉が付き、自分の意志で移動が出来るようになった。
……なったのだが、残念ながら私が動けるようになったとバレた時から、私を見張るように侍女が四六時中つくようになってしまった。
そのせいで、自由に動けるのに自由には動けないと言う状況が続き、はや一週間。
焦る気持ちと、苦痛の中で侍女たちの隙を伺い続けた私は、深夜ごろに私が寝ると、侍女たちが居なくなる事を発見した。
さらに、2回に1回ぐらいは、戸の閉まりが悪いようで、ちゃんと閉まっていない。
保険の為に何度か同じ事を繰り返し、様子を伺ってみれば、朝の6時になるまで侍女たちが帰ってこないようだ。
概ね4時間から5時間の空白の時間。
この時間を利用すれば、私が欲しかった情報を得られるかもしれない。
そう考えた私は、今日、脱走の計画を立てて、実行することにした。
まず初めに、いつも通りの時間に私は寝るふりをする。
その結果として、何ら疑う事無く見張りをしていた侍女は、私が眠っていることを確認すると部屋を後にした。
薄目で状況を確認した私は、念のために1時間はこのまま待機する。
経験則上は6時まで帰ってこないが、万が一のことを考えて、だ。
それから、1時間後。
私は誰も居ない事を確認すると、寝台の把手を頼りに体を持ち上げる。
そのまま把手をよじ登り、近くの段差に足をかけた。
なるべく音を立てないように地面へと降り立った私は、初めて見る景色に思わず心が高鳴ってしまう。
なにせ、赤ちゃんがハイハイ歩きをする視点は、大人であっても経験することは無い。
すべてが大きく感じ、まるで巨人の住処のようだ。
そんな場所をハイハイ歩きで進み、蝶番が緩んだせいで締まりの悪い扉に手をかける。
その扉は赤ちゃんの力でも開けられたが、同時に金属がこすれ合う嫌な音が静かな廊下に響いた。
想像もしていなかった音に体から冷や汗が噴き出る。
緊張で心臓が強く脈打つが、どうやら人は居なかったようで足音ひとつしない。
緊張によって無意識に止めていた息を吐き出した私は、なるべく音を立てないように、静かな廊下を歩きだす。
深夜で暗いとは言え、月明かりが窓から差し込んでいるおかげで、視界に困る事は無い。
そんな月明かりを頼りに進む廊下は、想像していた王宮のそれとは、あまりにもかけ離れていた。
確かに立派な絨毯は敷かれている。
だが、その毛足は短く、踏むたびにごわりと硬い感触が伝わってくるのだ。
月明かりの中でも分かるほどに色も褪せ、ところどころ繊維が寝てしまっている様子から、長い年月使い回されてきた物だと分かる。
そして、壁も同様に王宮のそれとは思えない程に質素だ。
白い漆喰はくすみ、装飾らしい装飾は一切無い。
王家の肖像画も、金細工の燭台も、威光を誇示するための意匠も、何一つ見当たらなかった。
まるで、王族の住まう場所ではない。それどころか、高位貴族が住まう場所でも無いだろう。
本当に私が王族なのか?
そんな疑問と、違和感が、胸の中に広がった。
そんな事を考えながらも、ハイハイで廊下を進んでいるのだが、廊下は思いのほか長い。
徐々に体力の限界が近づき、呼吸が少し荒くなり始めた。
誰も居ないとはいえ、廊下で休むのは危険だ。
だからこそ、せめて物陰の裏で休みたい……そう思った時だった。
私の視界の端に、小さな光が差し込む扉が見えたのは……。
他の扉とは明らかに違い、わずかに隙間を残して半端に開いた扉が一つだけ存在しているのだ。
その扉を見た瞬間、私は警戒心よりも先に、好奇心と疲労が勝った。
疲れた体を引きずって扉へと近づき、そっと手をかける。
先ほどの扉とは違い、こちらは驚くほど静かに動く。
蝶番は滑らかに動き、軋む音一つ立てずに扉が開いた。
扉が開いた瞬間、独特な香りが鼻孔を撫でる。
慣れていない人が嗅げば臭いと感じる匂い。だが、私はこの匂いを前世で知っている。
本の匂いだ。
長年放置されていたのか、埃の匂いによって覆い隠されているが、間違いない。
匂いによって確信を得た私は、ウキウキした気持ちで部屋に入る。
そして、部屋の周囲を見渡せば、そこは小さな書斎だった。
私の寝室よりも一回りほど小さい空間。そこに壁一面に並ぶ本棚のせいで、さらに部屋が小さく感じる。
私が一歩歩けば、カビ臭い絨毯から埃が舞った。
どうやら、この部屋はかなり放置されているようだ。
しかし、今の私からしてみれば、埃もカビもさほど気にならない。なぜならば、本があるからだ。
情報。文字として残された、この世界の知識。
それらは私が求めてやまなかったモノだ。
私は棚の一番下に並ぶ本の背表紙に手を伸ばし、全身を使って一冊を引きずり出した。
その勢いで埃がさらに舞ったが、そんな事は気にすらならない。
埃をかぶり薄れている表紙をの手でなぞれば、そこには見たことのない文字列が書いてあった。
どうやらかなり長い間放置されていたようで、外側の羊皮紙は黄ばんでいる。
だが、情報媒体としては、まだ十分読める。
私は重く感じる本をめくると……そこには全く見たことが無い文字と、植物らしき絵が描かれていた。
さらに次のページをめくれば、違う植物の絵が書かれている。
どうやら、この本は植物に関する本のようだ。
文字はまったく読めないが、単語ごとに区切られた配置や、繰り返し現れる記号から、何となく構造だけは理解できる。
どうやら、文字を見ている限りだと24個の記号で単語を構成しているようだ。
英語が26種類。日本語に至っては、常用漢字だけでも2000個を優に超える。
それを考えれば、非常に楽な言語と言えるだろう。
しかし、これ以上は発音が分からないとどうにもならない。
どうやらこれ以上は分からなさそうだ。
今回はこの書斎を発見しただけで十分だろう。
私はそう割り切り、本を元の位置へと戻す。
そして、また来ることを心に決めて、静かに扉を閉めた。




