第五話 小さくて大きな一歩
私が生まれてから半年が過ぎた。
大人としての感覚からしてみれば、たかが半年。
だが、子供の身からしてみれば、やっと半年だ。
特に、大人の意識を保ちながら、子供の身ゆえにやることが無い。
これは、拷問に近いほどの苦痛でもあった。
そんな半年だったのだが、今日私は一つの決意を胸に抱いている。
それは、……この重力に打ち勝って、大地に立つことだ。
私は、仰向けの体をなけなしの腹筋で僅かに起こすと、寝台の把手を掴む。
そこから、さらに体を起こし、足に力を込めた。
赤子の両足は震え、両手で掴む寝台の把手を頼りに、体を持ち上げる。
全身の筋肉が、まるで悲鳴を上げるように、痛みを発した。
しかし、絶対に成し遂げると言う強い意志。それだけを頼りに、私はさらに全身に力を籠める。
辛い。
苦しい。
もうやめたい。
そんな気持ちが心中を満たしていく。
だが、私の過ごしてきた42年。同じような気持ちには、何度もぶつかってきた。
この程度でへこたれるような根性はしていない。
そして、私が気合と根性を入れ直した……その時だった。
全身に込めた力とは別に、腹の奥に溜まっていた何かが、動く。
いや、何かでは無い。毎日のように感じ、もうすでに日常へと置換されつつある存在。
これまでは、空腹や不快感、眠気といった感情に引きずられて、勝手に揺れるだけの存在。
だが今回は違った。
感情では無い。
投げ出したいとか、逃げ出したいとか、泣きたいとか……そういう感情で動いたのではない。
私の『ただ立つ』という明確な意志。
それに応じるように、腹の奥の熱……いや、魔力は全身へと駆け巡って、全身へと広がっていく。
腹から始まり、胸へと上がる。さらに心臓の勢いにのったかのように魔力が一瞬にして全身を駆け巡っていく。
まるで、血管を巡る血のように……筋肉へとエネルギーを送り、爆発的な力を発生させた。
先ほどまでは震えていた足。
しかし、今は震える事は無く、私自身の体重を支えている。
「……っ」
声にならない息が漏れた。
重力が、少しだけ軽くなったような錯覚。
いや、違う。実際に軽くなった訳ではない。ただ、骨と筋肉によって支えられている。
……ついに……ついに私はやり遂げた。自らの足で立っている!
完全では無い。
私は寝台の把手を握りしめたままだ。
だが、明確なる一歩。そう、これは、成長の積み重ねの先にある、明確な一歩なのだ!
視界が高い。
床が、少し遠い。
天井が、少し近づく。
たかだか数十センチ。だが、見る景色は、まるで別世界だ。
よし!よし!よし!私はやり遂げた!
心の中で叫び、私は両手を天へと伸ばす。
今の気持ちを精一杯現したその行動だったのだが、唯一の支えとも言っていい把手を離した私は、容易にバランスを崩して、転ぶ。
反射的に耐えようとしたのだが、私の体は私の言う事を聞かずに動かない。
そのまま重力に引かれて、柔らかいベッドの上に尻餅をついた。
お尻に痛みは無い。今はそんな事よりも、歓喜が体中を支配していた。
立ち上がれた事もそうだが、あの全身を駆け巡った魔力だ。
あれは、きっと偶然なのだろう。
だが、勘違いではない。
確かに腹にあった魔力が全身を支える力となったのだ。
そして、それは感情に引きずられていた時と似てはいるが、全くの別物。
もしも、あれを偶然では無く自分の力で使えるようになれば、確実に私の行動範囲は広がる。
……この退屈な地獄から抜け出せる。
私は床に座ったまま、興奮を抑えるように、荒い呼吸を整えた。
今の赤子の体では、これ以上の試行は……無理だ。
だが、それでいい。時間はたっぷりとある。
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私が初めて立った日から1週間ほどが過ぎた。
あれから、毎日のように立つ練習をしているのだが、最初の頃に経験した魔力の巡りを一度として成功できていない。
理由はいくつかあるのだろうが、一番大きいのは感情の有無だろう。
魔力を感じた当初は様々な感情に左右されていた。それは、ネガティブな感情だけでは無くポジティブな感情にも左右されるのだろう。
その結果として、魔力に何かが起こり、私の体に力を与えた。
こう考えるのが、自然か。
しかし、こうなると問題がある。それは、再現性の問題だ。
ただでさえ感情はネガティブな方向に動きやすい。これは、生存戦略の面から説明できるのだが……一旦置いておこう。
ポジティブな感情を発露するだけでも大変なのに、それによって魔力を動かす……なんて行為はあまりに現実味がなさすぎる。
では、どうするか。
私はベッドの上で寝転び、呼吸を整えながら思考を巡らせる。
このまま成長を待てば、自然と問題は解決される。だが、それは何カ月後だ?
ハイハイ歩きが出来るようになるのは、何カ月後だ?
立ち上がって歩けるようになるのは、何カ月後だ?
その間、私はこの退屈な地獄を過ごさねばならない?
……あの立ち上がった時の希望。
あれがあるからこそ、ただ漫然と退屈な時間を過ごす事が我慢ならない。
で、あるならば、一刻も早く魔力が駆け巡る現象を解明しなければならないのだが……。
それが出来るのであれば、ここまで苦労していない。
魔力の問題点は、感情に左右され、その他の方法での制御が難しい点にある。
最初に比べれば扱いも上手くなったが、全身に魔力を生き渡らせる……なんて芸当は無理だ。
これは、うまく成ろうとして急激に上手く成れるような物では無い。
で、あるならば、取るべき方針は一つ。
感情を『起点』にすることだろう。
あの日、立ち上がれた時。
ただ、立つという意志が魔力を動かしたのだとしたら、もっと先の目標を目指せば、もう一度起こるのだろうか。
……分からないが、試してみる以外に答えは得られない。
私はこの部屋に誰も居ない事を確認すると、瞳を閉じて集中した。
ここで大事なのは、これまでのような冷静さじゃない。ただ純粋に目的を達成する為の強い意志と感情だ。
私は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
達成すべき一点だけに、思考を絞る。
私の中にある全ての感情。その中で、必要な感情を探し出し、意図的に感情を増幅させてゆく。
想像するのは、初めて立ち上がった時の景色。
あれをもう一度。もう一度見る。
その決意と意志を胸に、把手を握りしめる。
そして、小さな手に、精一杯の力を込めて上半身を起こした。
さらには、全身を使い、私は体をさらに上へと持ち上げる。
足が震え、全身が悲鳴を叫ぶ。
まだ無いにも等しい筋肉では、自分の体を支える事など出来ない。
だが、あの力。あの魔力さえあれば、立ち上がれる。
立ち上がれる……のだが、私の腹の奥にある魔力は静かなままだ。
あの日のような奔流は、まったくとして感じられない。
その瞬間、体が限界に達し、力を失う。
そのままバランスを崩した私は、柔らかい寝台に背中から落ちた。
私は、仰向けになり、見慣れた景色を見て、短くため息を吐いた。
分かってはいたが、そう簡単ではない。
この1週間、無為無策で試行錯誤していた訳では無いのだ。
それでも発現しなかったのだから、今回で発現できるとは考えづらい。
やはり、気持ちだけで出来るモノでは無いらしい。
何事も、努力の積み上げが必要と言う事なのだろう。
こんなファンタジー世界でも、現実は現実であり、残酷なまでに奇跡など起こらない。




