とある男の旅の終わり
アイロニ地区へ向かいなさい。
一時的に共に行動していた相手に言われて、アーロスは何が何だかわからないながらもその言葉に従う事にした。
ルボワール地区に戻ったところで、既にあの地区には誰もいない。
戻ったところで、一人で生きていくにはあまりにも過酷な状況だ。
かつて共に過ごした仲間を弔ってやりたい気持ちはあっても、悲しいかなその死体は既に存在すらしていない。
誰もいない空っぽの墓を作ったところで、アーロスの自己満足にもならないのだ。
であれば、かすかに戻りつつある記憶と、アーロスにそう告げたディオスの言葉に従って行動した方がマシだと判断したのである。
アイロニ地区、と聞いてもアーロスには何の感情も浮かんでこなかった。
懐かしい、なんて感情も何も。
そんな見知らぬ場所も同然なところへ行って、果たして何があるのか。
そう思う事は何度もあった。
ルボワール地区の転移装置を使っても、すぐ近くにアイロニ地区はなかったので。
近くの地区へ行き、そこから更に他の地区を経由して……そんな風に移動を繰り返した。
途中、路銀も何もなかったから一時的にその地区で住み込みで仕事をしたりもしたけれど。
そこで新たにアーロスにとって友と呼べる存在ができたりもしたけれど。
だがそこに残ろうとは思わなかった。
アイロニ地区へ行く事なく別の地区で骨を埋める覚悟をするまでには至らなかったから。
それにアーロスも何となく感じていたのだ。
アイロニ地区へ行くべきである、とまでは思わなくても、そこに行く前に自分の人生を決めるのはよくないのではないか……と。
アイロニ地区へ行けば、とりあえずディオスが言った言葉の意味を理解できるかもしれない。
行って、何もなければまた他の地区へ行けばいい。
そんな風に考えて、アーロスは長い旅路を歩んだ。
アイロニ地区へ行くまでに、また少しばかり時間はかかってしまったけれど。
それでもどうにか目的の地へたどり着いて。
感じたのは懐かしさだ。
見覚えはないはずなのだが、雰囲気がどこかルボワール地区と似ていたように思う。
けれどもそこにアーロスの知り合いはいないように思えた。
少なくとも知り合いに声をかけられる、という事がなかったというのもある。
一体どうしてディオスはここに行けなんて言ったのだろうか……? なんて疑問を抱きもしたが、まだほんのちょっと見ただけに過ぎない。
それでここに来た意味はなかったのではないか、なんて結論を出すのは流石に早すぎるだろうと思ったからこそ、アーロスはアイロニ地区をじっくりと見て回る事にした。
そうしてあちこちを彷徨ううちに、大きな街から離れていっていくつかの町を通り過ぎて。
そこでふと、懐かしいような気がしてつい立ち止まって景色を眺めていた。
懐かしいような気はするけれど、しかしハッキリとした記憶はない。だが、確かなものはなくてもこの辺りには何か、アーロスについてのかつての記憶の手掛かりになりそうなものがあるのではないか。そう思えた。
だからこそ、この周辺で自分を知っている誰かがいないだろうか……? そんな風に希望に縋りつくように、周辺に住む誰かから話を聞こうと思って。
たまたま他の町からの買い物帰りなのか、荷物を抱えた女性が近づいてくるのが見えた。
アーロスが女性を見て、女性もまたアーロスを視界に捉えたのだろう。
一歩一歩近づいて、そうしてよりハッキリとアーロスの顔が見えたのか女性の足は止まる。
そしてそのままじっと凝視して、それから手にしていた荷物を落とした。
ドサリと音がして、その直後に女は駆け出していた。
こちらに向かってくる女を見て、アーロスもまたどこかで見たような……という感覚に見舞われていた。
その時間は僅かなもので、直後にパチン、とまるで泡が弾けたような感覚が頭の中でしたのと同時に。
「レイチェル……?」
アーロスの口から、自然とその名が零れていた。
その声を聞いて、女は「馬鹿ぁっ!」と叫ぶ。
そのまま速度を落とす事なくアーロスの元へと駆けて、その勢いのまま飛びつくようにして抱き着いた。
「お父さんっ! お父さん無事だったんだね!」
「……メリュー……?」
「そうだよバカバカなんでそこでお母さんの名前なの」
「いやだってお前……もっと小さかっただろ」
「あれから何年経ったと思ってるのさ! お父さんがクークラを取り戻してくるっていって、帰ってこなくて!
もういいよって言いたくてもどこに行ったかわかんなくて!
ずっと、ずっと無事に帰ってきてくれる事だけ願ってた!」
うわあん、と幼子みたいに泣きじゃくる女は、アーロスの記憶の中の妻の姿に近いが、しかし紛れもなく娘のメリューだった。
記憶の中の娘はもっと小さくて、こんな風に成長しているなんて思ってもいなかった。
生きてた、良かったよぉ! なんて言ってわんわん泣く娘をあやすようにしながらも、アーロスの頭の中では小さな泡がパチパチと弾けるような音がして、忘れていた記憶がどんどん蘇ってくる。
ドロシーという女が娘の持つ人形――クークラに何かをして、そしてクークラは動き出した。まるで生きているかのように。
そうして去ってしまったクークラを、アーロスは娘のために取り返そうとしたのだ。
今となってはあれがクークラの意思だった、とわかるが当時はドロシーによってそう操られていると思ったからこそ、クークラを取り戻す事ができると信じて。
けれどそれは、あまりにも長い旅になってしまった。
ドロシーは早々に姿を消して、そちらを探すよりクークラを探した方が確実だと思って。
そうやって、クークラの足跡を追って。
途中でクークラによって記憶を封じられたせいで、どうして自分がクークラを追いかけていたのかさえ忘れてしまっていた。その理由を忘れた事で、家族の存在さえも忘れていたのだ。
泣きながら羽をバサバサさせているメリューを見て、
「大きくなったな……」
「そうだよぉ! もうお人形遊びだってしない年齢になっちゃったよぉ!」
しみじみと言えば、メリューはそんな風に即座に返してくる。
「確かにあのお人形は大事だったけど、でも、だからお父さんがいなくなっていい理由にはなんないから!」
「あぁ、そうだな……すまなかった」
「お母さんだってずっと待ってるんだから!」
「……レイチェルは、元気でいるのか?」
「お父さんがいなくなって元気なわけないじゃん馬鹿!」
「ご、ごめんな……」
「いいよ、とにかく帰ろう? お母さんだってずっとずっと待ってるんだから、きっと驚くよ」
「そうだな……あっ」
「どうしたの?」
「いや、その……」
涙と鼻水で顔中ぐしゃぐしゃにしていたメリューは、やや乱暴に服の袖で顔を拭って、そうしてアーロスに駆け寄る直前に落とした荷物を回収するべく歩き出したが、アーロスの煮え切らない態度に不穏な何かを感じ取ったのか足を止め、じっと凝視している。
帰れない、とか言われたらどうしよう。
そんな不安が見え隠れしていた。
「すまないが、家には……」
「どうして」
もしかしてお母さんや自分以外に誰か、大切な人でもできたとか。
そんな風に言い出すんじゃないだろうか。
そう思って少しばかりきつめに聞き返せば、アーロスはちらりと後ろを見るように視線を移動させていた。
「家は、木の上にあるだろう?
その、風切り羽を失ってしまったから、飛べなくなってしまったんだ」
「なんだ、そんなこと……」
「そんなこと、じゃないだろう。飛べないんじゃもう家になんて行けないじゃないか」
「てっきり他に大切な人ができてそっちと暮らすとか言い出すのかと」
「そんなわけないだろう」
「だったらいいよ。お父さんの事はわたしが抱えて飛んで家に運べばいいし、その後は……地上に家を建て直すのだってアリだもの」
「いいのか?」
「いいよ。お父さんが帰ってきたのが何より嬉しい。お母さんだってそう言うよ。だからほら、早く行こ?」
そう言われてしまえば、アーロスにはそれ以上何も言えなかった。
そしてあまりにも長い間帰る事のなかった家に戻った時に。
記憶の中より年を重ねた妻の姿を見て。
アーロスは声を上げて泣いた。
妻も、夫が無事に帰ってきた事に堰を切ったように泣いた。
クークラを取り戻すと言って出ていってしまった夫が、一体どのような旅路を歩んだのか、レイチェルには知りようがなかった。生きているのか死んでいるのかさえわからないままだった。
幼かった娘のメリューはすっかりと成長してしまって、独り立ちしていてもおかしくはない年齢になっていたけれど。
母を一人残して家を出る事もできず、母娘は二人で支え合って生きてきた。
アーロスの事を忘れて新たな人生を歩む事も考えたけれど、その選択を二人は選ばなかった。
アーロスが辿った旅路。アーロスがいなくなった後の二人。
それぞれが長い、長い話をして。
欠けたピースはようやく揃ったのである。




