54.究極の二択
現プレスティア侯爵であるオスカルの観察は、これで一先ず終了だ。
「マリアローザ様!」
ダンスフロアを離れると、どこかから声が掛かけられた。あれは、今宵のパートナーである。
「ベルティーニ伯爵様。お話は、もうお済みになりましたの??」
「ええ、おかげ様で。残念ながら、収穫はありませんでしたがね。」
「あらまあ。伯爵様にも、そのような事がおありなのね。」
意外そうな顔をしてマリアローザは返す。それは皮肉を言ったわけではなく、素直な感想だ。
件の男を直接観察する事が目的の自分と違い、ベルティーニ伯爵ことフィオレンツォは、純粋に商談が目的でここへ来ている。やり手らしい彼ならば、勝算のありそうな話の一つや二つ、仕込んでいそうなものなのに……。
「はは。それは、お褒め頂いているのでしょうか?」
「もちろん。いい意味で、ですわよ。」
「ならば光栄です。――…時には、見込みの薄い話だと分かっていても、しなければならない事があるのですよ。」
含みがあるというか、何とも意味ありげに言うものだ。見込みが薄いと分かっているのに、しなければならない話――…?
皆目見当が付かない。もしかすると、揶揄われているのかも……。そうだ、そうに違いない。あまり深入りすると面倒な事になりかねないので、聞き流すのが吉と見た。
「そんな事よりも、マリアローザ様の首尾はいかがだったのですか?」
「わたくし?わたくしは当然、収穫がありましてよ。」
自信たっぷりに言いながら、彼女は今日の衣装の一つであった手袋を外す。両腕ともだ。
そして、ちょうど近くを通り掛かった使用人を呼び止めた。
「ちょっと失礼。――これ。汚れてしまったから、処分してくださる?」
彼女は、摘まむようにして手袋を差し出す。相手は少々戸惑いながらも、「かしこまりました」とそれを受け取った。なかなか行き届いた使用人である。
その様子を見ていたフィオレンツォは、キョトンとしながら尋ねた。
「……手袋。汚れていらっしゃいましたっけ??」
「ええ、とってもね。……先ほど、酷く汚らわしいものに触れてしまいましたから。」
……酷く汚らわしいもの……?
声を掛ける前のマリアローザといえば、確か……。
フィオレンツォは、あぁなるほど、と納得する。
「それは災難でしたね。では私から、新しい手袋をプレゼントいたしましょう。」
「あら嬉しい。それって……純粋な好意と受け取って、よろしいのよねえ?」
「ははは!警戒心の強い方だ。見返りなんて、要求しませんよ。今回はね。」
「……結局、ただより高い物は無さそうなのだけれど。」
後は適当に夜会を楽しみ、二人はその会場を後にした。
……さて。
あのオスカルをどうするか、について。そろそろ、当事者の意向を伺うべき段階に来ただろう。
マリアローザは決して、悪を成敗しようなどという大それた正義感によって、あの男を探っていたわけではない。あくまでも、彼によって不幸に陥れられた、アントネッラの助けになろうとしているだけだ。
全てを失くした彼女の望みを叶えてやりたい。そういう、ただのお節介である。
自分には、それが出来るだけの力も財力もあるのだから――…。
「申し訳ございません、マリアローザ様……。今日も、院長先生は不在で……」
朝から申し訳なさそうに、アントネッラが頭を下げる。今日も今日とて、マリアローザは例の孤児院へとボランティアにやって来ていた。
「頭をお上げになって。お気になさらないでくださいまし。わたくしがたまたま、タイミング悪く来てしまっているだけなのですから。」
真っ赤な大噓である。彼女は、狙って院長のいない時に来ているのだから。
「そんな事よりも!今日も快晴ですわね。お洗濯物がよく乾きそうですから、この機会に大物も片付けてしまいましょう。」
「まあ!よろしいのですか⁇」
「もちろんです。そのためのボランティアですもの。お一人でこなしているなら、ここの仕事全てには手が回らないでしょう。こういう時を利用するのが、賢いやり方でしてよ。」
そう言って、マリアローザはパチッとウインクをしてみせる。アントネッラは、安堵したように微笑んだ。
大きなたらいにシーツを入れ、二人はじゃぶじゃぶと洗って行く。子供たち全員の分となると、かなりの量だ。一人でやっていたら、これだけで日が暮れる。
とにかくさっさと片付けようと、一生懸命に洗っている時――。
「アンせんせー。」
小さな子供が、何かを抱えてトコトコとやって来た。どうやら、持っているのは絵本のようだ。
その子はアントネッラのもとに着くと、中を開いて指差した。
「ねーこれ。なんてよむのー?」
「まあ、どれかしら??――ああ。これはね、“あ”よ。」
「“あ”。じゃーこれは??」
「“る”、ね。」
「“る”?これは??」
「“ひ”、よ。」
……恐らくは、だが……。それは、絵本の冒頭『ある日』の事ではなかろうか。
マリアローザはピンと来た。
この子はたぶん……あの調子で、そこにある文字を最初から最後まで追わせる事になるだろう。それがわざとか無意識かは、分からないが……。
そして終わってみれば、一冊読んでやったのと同じ事になるに違いない。
『――あんなに幼い子供だもの。本当ならば、親に甘えたい年頃よね……』
当然の事ながら、アントネッラの洗濯の手は止まってしまっている。しかし今は、せっかくこうして手伝いがいるわけだから、そのまま相手をさせてやろう。普段はこんな余裕など、無いのだろうから……。
文字を教えながらのゆっくりとした読み聞かせを背景に、マリアローザはシーツを洗う。ほのぼのとした心地よい声と共に浮かぶシャボン玉が、束の間の平和を象徴しているかのようだった。
「ごめんなさいっ、すっかりお任せしてしまって!」
満足した子供が去って行くと、アントネッラが慌ててたらいの側へと戻って来た。
「よろしくてよ。そのために来ているようなものなのですから。子供たちを優先してあげて頂戴。」
「……そうおっしゃって頂けると、救われますわ。」
彼女はやはり、申し訳なさそうに微笑んだ。
「ところでアントネッラ様。先ほどのように、子供たちへは、よく文字を教えてあげたりしていらっしゃるのかしら?」
「え?そう……ですわねえ。あのように乞われれば、なのですが……。どうして、そのような事を??」
「教え方が丁寧で、慣れていらっしゃるようでしたから。」
「まあ……!そうでしょうか??そのようにおっしゃって頂けたのは、初めてですわ。」
洗濯する手を動かしながら、アントネッラは嬉しそうに笑った。――だが実際、今言った事は決して社交辞令的なものではない。本心だ。
子供が理解出来るよう寄り添って教える姿勢が、マリアローザにはとても理想的に思えたのである。
「……こんな事を言っては、気分を害されるかもしれませんけれど……。子供と触れ合うお仕事は、向いていらっしゃったのかもしれませんわね。」
あの元夫に追いやられた先で分かった事実という事が、この上なく癪だが。
「ふふ、お気になさらないでください。実はわたくしも、そう思っているのです。子供たちのお世話は大変ですが、やり甲斐がありますし。こちらへ来て、本当に良かったと思っておりますわ。」
「そうでしたのね。」
……ただ、ここの待遇面だけは最悪だ。これで良いわけなどない。
笑顔で返事をしたマリアローザは、ぼそりとそう呟いた。
「――…ねえ、アントネッラ様。」
ほんの少しの間を置き、彼女は再度口を開く。
何だか、それまでしていた雑談とは違う、改まった空気だ……。そう感じたアントネッラは、ふと顔を上げた。
「?はい、何でしょうか。」
「貴女は生家に……。 プレスティア侯爵家に、未練はありませんの?」
唐突にも思える、質問――。
その時ザッと、強く風が吹いた。なのにアントネッラは目を見開いている。それから暫し、黙り込んだ。
「…………。無い……と言ったら、嘘になりますが……。あそこはもう、わたくしの居場所では、……ありませんから。」
目を伏せ、彼女は答える。あまり歯切れの良くない返事――。やはりどこか、後ろ髪を引かれているようだ。
「貴女は不当に追放されたというのに??あの家を、あの方の好きにさせても良いのですか?」
「…… プレスティアの現当主は、あの方ですもの。」
「でも彼は、侯爵家の血を引いていないでしょう。正統な後継者は貴女の方ですのに!――本当に、簡単に引いてしまっても良いの⁇」
マリアローザはしつこく問い質す。すると彼女は、再び黙り込んだ。
「……様々な事情で、血縁者以外がお家を継ぐ事もありますよね。プレスティアもまた、そうなのです。わたくしには、当主として侯爵家を率いて行く力がありません。ですから、それが出来る方が家を守って行くのがいいと、思っていますわ。」
「そんな事……!」
……なくはないな。と、マリアローザも思ってしまった。彼女の言っている事は、正直正しい。
もし仮にアントネッラがプレスティア家を奪い返したとしても、上手く行かない事は目に見えている。だが本人にその自覚があるのなら、上出来だ。
「父や母がいたならば、違っていたかもしれません。ですが……今となっては、もう。――…これで、良かったのですわ。」
そう言うと、アントネッラは悲し気な笑みを浮かべた。
「……そう。そうね。けれど……その人間が、侯爵を名乗るに相応しくない者であれば、どうします?」
「え……?」
突拍子もない言葉に、浮かべていた笑みが固まる。単なる“もしも”の話だろうかとマリアローザの顔を見るが、相手は至って真剣だった。
……彼……オスカルは商才に優れ、傾いていた侯爵家の財政をあっという間に立て直してしまうくらいに力のある人間だ。確かに、自分に対する接し方には、難があったが……。それを差し引けば、侯爵に相応しくないとは思えない。
なのに――…
「このままだと、プレスティア侯爵家の名は穢れてしまう。そうなるとしたら、貴女はどうしたい?」
「……………………」
アントネッラは、酷く困惑していた。……彼女は、なぜこうも執拗なまでに不穏な質問をして来るのだろうか、と……。
嫌がらせとも取れるが、意地の悪い感じは全くしない。それどころか、こちらを案じているのが伝わって来る。マリアローザには何か思惑があって、真面目にこんな質問をしているのだ。
ごくりと唾を飲み、アントネッラは答えた。
「……分かりません。その、あまりにも突然の内容で……上手く、イメージが出来ないのです。」
本音だ。詳しい説明もなくただそれだけを問われても、すぐには答えを出せない。ここで求められているのはたぶん、いい加減な返事ではないから……。
そんな気が、したのだ。
「そうですわね。では貴女に二つ、選択肢を差し上げましょう。一つは、侯爵家を奪い返す事。そしてもう一つは――」
奪い返す?そんな事をしても、自分には…
「侯爵家を潰す事。この二つから、選んで頂戴。」
「えっ……」
アントネッラは、ますます困惑した。侯爵家を……『奪い返す』か、『潰す』。
究極とも言える二択ではないか。どちらも、これまでの自分の人生には、無かった言葉である。
「――…お返事は、今すぐでなくて結構よ。驚かせてしまって、ごめんなさいね。けれど――貴女は近い内に、その判断を下さなければならない時が来るはず。だから、よくお考えになってみて。」
彼女は……マリアローザは一体、何を知っているのだろう……。アントネッラの心はざわついた。
プレスティア侯爵家には、オスカルには、何か自分の知らない秘密がある――…?
そうだったとして、自分はどうしたいのだろう。どうすべきなのだろうかと、彼女は初めて考え始めた。
「ご報告いたします、オスカル様。――マリアローザ・ディ・フォリエは、週に数日アントネッラのいる孤児院を訪れ、ボランティアをしているようです。」
「……なに??」
雇った諜報員からの報告を聞いたオスカルは、眉間に皺を寄せた。
「それはいつからだ?つい最近か??」
「いえ……訪問は、もうすでに何度目かになると。少なくとも、先日の夜会以前から通っているようでしたね。」
「…………あの女狐め!!」
プレスティア侯爵家にある、当主の執務室――。席に着いていたオスカルは、デスクを思い切りガン!と一発殴り付けた。その額には、血管が浮き上がっている。
「“アントネッラは元気か”、だと?白々しい事をよくも……‼」
彼は怒りでぶるぶると唇を震わせた。
……やはりそうか。あの女はあの日、アントネッラの事を知った上でわざわざ自分に接触して来たのだ。通りで、何か違和感があったわけである。
「で?あの女狐とアントネッラの関係について、他に何か情報は⁇」
「それが……場所が場所なだけに、近付く事が難しく……。会話などを聞く事は叶わず――」
「…ッこの、役立たずが!!」
オスカルは立ち上がり、卓上にあった紙の束を勢いよく諜報員へぶつけた。ハーハーと、肩で荒い息をしながら……。
「肝心な事が分からなければ意味が無いだろう‼もっとまともな情報を持って来なければ、報酬はやらん!!いいな!?」
次は文鎮辺りを投げ付けられそうになって、諜報員は慌てて部屋を出て行った。
「……あの女……。一体何のために、俺とアントネッラに近付いたんだ……??」
親指の爪を噛み、オスカルは呟く。すると、その荒ぶった気を静めるように、艶めかしい女の腕が彼の首へと回された。
「――…ねーえ、オスカル。そのマリアローザって女の話。私、聞いた事があるわ。」
「なに⁉本当か、カリン⁇」
さすがは愛しの恋人。いい女は、役にも立てる。
それまで吊り上がっていた目が嘘のように下がり、オスカルは明るい声を出した。
「ええ。……何でも貴婦人たちの間では今、有名なんだとか。」
「……あの女は元々、王太子の婚約者で……昔から有名ではあったぞ??」
「そーゆー事じゃなくって!――最近ね、ご令嬢なんかの悩みを解決してくれるって、噂になってるのよ。知らない?」
令嬢らの悩みを解決……??
彼は首を捻った。女性たちの噂は流行り廃りが早過ぎて、あまり商売の参考にはならない。だから興味が無かったが、そんな事になっていたとは……。
「――…つまり……アントネッラが、あの女に助けを求めた。……という事か⁇」
彼の膝の上に跨がり首の後ろに腕を回したまま、カリンはこくりと頷く。
……そういう事か、とオスカルは理解した。
「アントネッラが何を言ったかは知らないが……。アイツはあの事に、気付いていないはず。だが、マリアローザが何かを嗅ぎ付けるのは、時間の問題だろう――」
彼はニヤリと嫌な笑みを浮かべる。
ならば、やる事はただ一つ。
――危険要因は、排除するべし。




